コーチ物語 〜幸せの歩き方〜 第一章 ついていない男とは
あらすじ
ついていない男、笠井慎一郎。かつて起こした交通事故が原因で会社を辞め離婚に至り、故郷に帰っていた。そんなときに昔一緒に仕事をした羽賀コーチと出会い、コーチングを受けることで徐々に人生をやり直し幸せを掴む道へと歩んでいく。だが、せっかく勤めた会社も辞めさせられ、コンビニ店員に。そこから事業を興し別れた妻へ再度プロポーズをする決心をする。そしてクリスマスイブの前日、いよいよ東京にいる元妻の元に向かおうとしたときに笠井にいろいろなアクシデントが起こる。笠井は再び、幸せをつかめるのか?幸せとはなんなのか、それを掴むために必要なこととは何かを働くみなさんに問いかける物語です。
「ふぅ……」
重い足取りでハローワークの扉を開け、外の空気をいっぱいに吸った。空は私の心をそのまま映しているかのようなダークグレー。今にも雨が降ってきそうだ。
「今日も職無し、か」
駐輪場に停めていた自転車にまたがり、足早に帰路についた。雨が降り出す前に、とにかく家に帰ろう。
だが、ついていないときはついていないものだ。あと少しで家にたどり着くというのに、突然雨が降り出しやがった。仕方ない、その先のコンビニで雨宿りでもするか。
しかし、どうして私はこんなについていないのだろう。そして、どうしてこんな人生を歩むことになってしまったのだろう。つい一年前までは、出世コースになんとかぶら下がっていられた設計屋だったのに。
人並みに主任まで昇格し、仕事もきちんとこなしていた。家庭も妻と二人の子どもに囲まれ、裕福ではなかったがそれなりに幸せな生活を送っていた。
けれど、どこで歯車が狂ったのだ。気がつけば、今は無職。そして家族とも別れ別れ。三行半を突きつけてきたのは妻の由梨恵の方だった。
とあるきっかけで会社を辞める羽目になり、雇用保険も打ち切られて収入ゼロの状態。それでいてなかなか職にたどり着けない私を見て、これでは子どもの教育に良くないと離婚を迫られた。
一度は「ちゃんとまじめにやるから」と言い訳したものの、それも面接に行った会社から用無しの烙印を押され、やけになって競輪場に行ったのが大間違い。
ただでさえついていないのに、ギャンブルでツキがくるわけがない。結果、電車賃だけしか入っていない財布を胸にとぼとぼと帰る羽目になった。
それが由梨恵にとって最後の引き金だった。すでに判を押されていた離婚届を突きつけられ、私もそれに応じるしかなかった。
由梨恵は以前は専業主婦。私が職を失ったのをきっかけに保険の勧誘の仕事に出始めた。ここで意外な能力が開花したのか、それなりの給料をもらうことに。正直子ども二人を抱えるには厳しい稼ぎではあったが、妻の実家の援助などもあり私がいなくても食べてはいける状況にあった。
いや、この場合は私がいない方が食べていけるというのが正解だろう。なにしろ大人一人分の食費と光熱費が浮くのだから。
結局、流れ流れて今私は自分の実家に頼っている。といっても三十も後半になる男が、実家に頼っているなんてみっともない。そういう父の薦めもあり、父が保有しているアパートの一室を家賃無料ということで居座ることになった。
人間、昇るのにはあれほど時間がかかるのに落ちていくのは一瞬の出来事。それを実感せずにはいられない。
今は何も考えたくない。そういう思いもあり、今はコンビニで雨が止むまでマンガ雑誌を読むことに。
畜生、雨はやむどころかますますひどくなってきやがった。
ふと入り口を見ると、アルバイト募集の貼り紙。いくら職がないからといって、コンビニで「いらっしゃいませぇ」なんて声を出そうなんて考えはない。いい年になった男が、自分の地元でそんなことができるか。同級生だっていつ出会うかわからないのに。私にもプライドというものがある。
しかし、そのプライドのせいでなかなか職にたどり着けないのも確かだ。なにしろ私は元技術者。だが、この地にはそんな仕事は皆無に等しい。あるのは営業だとかサービス業だとか。技術職といえば現場作業員など。
今さらそんな仕事に就きたくはない。これがわがままだとはわかってはいるのだが。
ふところもいい加減厳しくなってきた。退職金も妻に財産分与として与えてしまったので、手元にはほとんど残っていない。食料は実家に頼っているため心配はないが、何かでお金を得ることを考えないと。
外に目をやると、私と同じように自転車に乗ってきた男が大あわてでコンビニの軒下に飛び込んできた。
あらあら、かわいそうに。世の中には私よりも運の悪いヤツがいるものだ。そう思うと少し安心。雨でずぶぬれにならなかっただけ、私の方が運が良かったとも言えるな。しかし、どっちもどっちだ。結局雨の中自転車に乗れなくなった大人が二人、コンビニで雨宿りをしている事実に大差はない。
「ちゃ〜っす」
「あら羽賀さん、大変だねぇ。ちょっと待って、タオル持ってくるから」
レジにいた店員、おそらくこのお店の奥さんなのだろう。その奥さんが今入ってきた自転車の男にタオルを差し出した。どうやらこの男とこのお店は顔見知りらしいな。
ん、待てよ。羽賀さん? その名前、聞き覚えが。
私はその事実を確かめようと、レジの横に立っている男の顔を眺めた。そして確信。間違いない!
「羽賀さん、羽賀さんじゃないですか」
「あれ、ひょっとして笠井さんじゃないですか? うわぁ、久しぶりですねぇ」
やはりそうだ。以前商品開発の時にお世話になった四星商事の営業マン、羽賀さんだ。
「あら、こちら羽賀さんのお知り合い?」
コンビニのレジから、さっき羽賀さんにタオルを差し出した、ちょっと太めの奥さんが声をかけてきた。
「えぇ、昔仕事を一緒にしていた方なんですよ。でも笠井さん、こちらに戻ってきてたんですね。いやぁ懐かしいなぁ。またこちらの勤務に戻られたのですか?」
私は羽賀さんのその言葉にちょっと苦笑い。でもこの場で正直なことを言う気も起こらず
「えぇ、まぁそんなもんです」
とだけ答えた。
しかし、よく見ると羽賀さんの様子が昔と違っている。昔はビシッとしたスーツに身を包み、どこから見てもエリート営業マンといった、ちょっと高貴なイメージがあった。
だが、今目の前にしている羽賀さんは、ずいぶんと砕けた感じがする。クリーム色のチノパンに茶色のジャケット。中に来ているのはポロシャツ。髪もさっきまで自転車用のヘルメットをかぶって雨に濡れたせいか、ずいぶんとくしゃくしゃになっている。昔の羽賀さんを知っている人が見たら、とても同一人物とは思えない風貌だ。
「羽賀さんは今も四星商事で営業を?」
どう見てもエリート集団の四星商事の社員とは思えず、思わずこの質問を投げかけてしまった。
「あらま、羽賀さんって四星商事の社員さんだったの?」
私の言葉に驚いたのはコンビニの奥さんであった。四星商事と言えば、この地域では誰もが知っている全国優良企業である。本社は東京ではなく、創業を始めたこの土地にある。会社自体は他の商事会社に負けないくらいの規模。その社員と言えば泣く子も黙るというくらいのエリート集団だ。
「いやぁ、昔のことですよ。今はご存じの通り、しがないコーチですから」
「コーチ?」
私は羽賀さんの言葉に反応した。コーチって、今はスポーツの指導でもやっているのだろうか? だが、私の予想は残念ながら外れていたようだ。
「あ、この人コーチングを知らないんだ」
私の言葉に、コンビニの奥さんが反応した。どうやら私の知らない羽賀さんを知っていることで、気持ち的に優位になったようだ。
「コーチングって、何ですか、それ?」
残念ながら知ったかぶりするほど私はできた人間ではない。ここは素直に知らないことをアピール。
「そうですね、せっかく久しぶりに再会したんだからどこかでゆっくり話しでもしましょうよ。笠井さん、お時間はありますか?」
「えぇ、たっぷりと」
言ってしまったと思った。通常の勤め人が真っ昼間にこんなに時間をつぶすなんて事はできない。何か勘ぐられたのではないだろうか。
「おばさん、自転車ここに置いててもいいかな?」
「羽賀さんの頼みじゃことわれないよ。ほら、カサを貸してあげるから、そこの喫茶店にでも行ってゆっくりしておいで」
「ありがとう。笠井さん、じゃぁいきましょうか」
「あ、えぇ」
羽賀さんに言われるがまま、通り向こうの喫茶店へ足を運んだ。歩いている間に後悔の念が湧いてきた。こんな姿を昔の知り合いに見られるとは。しかも相手は私とコンビを組んで、新商品の開発で第一線を共にした人だ。
あれはまだ主任になる前のことだった。私が勤めていたオリエンタルコーポレーションでは、新しい制御装置の開発に力を入れ始めていた。これは会社として初の海外向けの製品だった。
このとき、海外とのやりとりを中継してくれたのが四星商事であった。四星商事はオリエンタルコーポレーションの技術を高く評価してくれ、共同開発という名目で融資と輸出先の企業とのやりとりを担ってくれていた。
そのとき、私は技術者として第一線でその商品の開発にあたり、海外の企業とのやりとりを直接行ってくれたのがここにいる羽賀さんであった。
彼は私より三つ年下ではあったが、とても頼れる存在で私の方が甘えていた。だが、羽賀さんは私を見下すことなく、むしろいろいろと賞賛してくれてお互いにやる気を持って仕事に取り組んでいた。
仕事仲間、というよりは戦友に近い間柄ではなかっただろうか。特に先方が突然仕様変更を突きつけてきたときには、こちらも妥協点を見出したり、逆に相手にどうやってこちらの条件を突きつけることができるか、という打ち合わせを夜中まで何度も繰り返し行った。
その苦労を乗り越えて、私が中心となって製作した制御装置は見事客先の満足を勝ち取った。おそらく今でもそのときの設計がベースとなった製品が、オリエンタルコーポレーションの主力商品となってラインを流れているはずだ。
それ以来、私と羽賀さんは会社のつきあいを超えた間柄となった。
そして、私が東京工場へ主任栄転となり、この土地を離れてからは次第に連絡を取り合う事が少なくなっていた。
「いやぁ、笠井さん。ホントご無沙汰していました」
「いえいえ、こちらこそあれからあまりご連絡せずに申し訳ありませんでした」
私と羽賀さんはブレンドを頼むと、早速昔話に花を咲かせた。話題の中心は、あのときの製品開発のこと。夜中に仕様のことで二人して大げんかしたことがとても懐かしい。話しをしていくうちに、妙な緊張感もとけてきたようだ。
「ところで、さっきコーチングとか言っていましたが、四星商事は辞められたのですか?」
「えぇ、ちょっといろいろとありましてね。今ではコーチングっていう手法の研修講師とかやっていますよ」
「へぇ、研修講師ですか。でもその格好はとても講師の先生には見えないなぁ」
「今日は個人クライアントさんのところに行っていたもので。相手さんともフランクなおつきあいをしていて、あえてこんなラフな格好をしているんですよ」
「個人クライアント? 個人で羽賀さんと契約されるような人もいるんですか?」
私は羽賀さんの今の仕事にますます興味を持ち始めた。
「どちらかというと、個人さんの方が多いかな。コーチングって、目標達成をサポートするような仕事ですから。今は自分の営業成績を上げたい人とか、お店の売り上げを上げたい店主さんとか、あとは資格を取りたいという方もいます。そうそう、独立したい人、なんていうのもサポートしていますよ」
私はこのときピクッと反応した。
独立したい人。ある意味自分もそれに当てはまるかもしれない。今、無職なのに勤めようとなかなか思わないのは、自分の力で一旗揚げようと思う気持ちがどこかにあるからではないか。
羽賀さんの「独立」という言葉を聞いて、その思いがどこからともなくこみ上げてきた。
「羽賀さん……」
「はい、なんでしょうか?」
私は次の言葉を出すのに少しためらった。今私が口を開いてしまうと、今の自分の情けない姿を羽賀さんにさらしてしまうことになるかもしれないからだ。
だがその思いとは別に、私の口が勝手に言葉を発してしまった。
「羽賀さん、私の話を聞いてくれますか」
「はい」
このとき、羽賀さんはにっこりと微笑み全てを受け入れてくれる菩薩のようにも見えた。この人なら素直に話ができる。直感的にそう感じることができた。
「私は……私は今無職なんです」
この言葉が心の中にあった、引っかかったものを取り去ってくれた。この一言を発しただけで、私の心は突然軽さを感じることができた。
「無職、ですか。それで今は?」
嫌みのない声。そのおかげで、この後堰を切ったように話しを始めることができた。
「えぇ、実は今日もハローワークの帰りだったんです。前職の技術を活かした仕事がないかと思って。でもなかなかいい仕事がなくて。あるのは営業職やサービス業ばかり。私はそんな経験がないから、いまさらそんな職業にも就けないし。技術職ってつぶしのきかない仕事だったんですね。おまけに今は独り身だし」
「独り身?」
「えぇ、実は半年ほど前に離婚してしまって。私がふがいないのが原因なのですけどね。それで今は実家のあるこの土地に戻ってきているんですよ」
「奥さんはどうしているのですか?」
「妻と子どもは東京にいます。あっちは妻の実家も近いし、妻も離婚前に始めた仕事で信頼を得たようで、今ではそれなりに働いています。子どもは二人とも妻が親権を持っています」
「そうですか。それで笠井さんはこれからどんな方向で生きていきたいと思っているのですか?」
私はてっきり、羽賀さんが「どうして仕事を辞めたのか」「どうして妻と別れたのか」を聞いてくるものだと思ったのだが、それを聞くこともなく「これから」なんていうことを口にしたのにはちょっと驚いた。
「これから、ですか……」
そんなこと、考えもしなかった。事実、今目の前の状況をどうするか、それしか頭になかったからだ。
それからしばらく頭の中では「これから」の自分の姿がいろいろと渦巻いていた。が、どれも浮かんではすぐ消え、言葉にならないものばかり。それだけ自分が何も考えずに生きてきた、その事実だけがはっきりとわかってきた。
「正直、これからのことなんかまだ考えられないんです。とにかく何かの職についてお金をかせがないと。私の貯金も底をつきかけています。今は実家にだいぶ頼ってしまっているし」
言葉にすればするほど、自分がいかになさけない、ふがいない人生を歩んでいるかが自覚できた。
「ということは、目下の課題はどんな職に就くか、ということなんですね」
「えぇ、そうなりますね」
羽賀さんはそれから何かを考え始めたようだ。私はその間、コーヒーをひとすすり。少し重たい空気が漂い始めた。
が、突然羽賀さんがパッと顔を上げ、明るい声で私にこう言ってきた。
「笠井さん、雨もだいぶ上がったみたいですし、ちょっと私の事務所に来ませんか? 紹介したい人もいることですし。ね、時間があるならそうしましょうよ」
羽賀さんのちょっと強引な誘い。とはいえ私も家に帰って時間をもてあますだけなので、羽賀さんの誘いにのることにした。
羽賀さんの言うとおり、雨もほとんど気にならない程度の小降りに。これなら自転車で移動しても問題なさそうだ。羽賀さんは喫茶店を出て、コンビニの奥さんにお礼を伝えると
「じゃぁ、私の後に付いてきて下さいね」
と私に言って、颯爽と自転車にまたがった。これだけ自転車に乗っている姿が絵になる人もめずらしいな。そう思いながら、私は羽賀さんのあとをついていった。
「ただいまぁ、ミク、いるかい?」
「あ、羽賀さん、おかえりなさい」
「あれ、舞衣さん来てたんだ。ミクは?」
「さっきまで雨が降っていたから、まだ学校を出られなかったみたい。お店に電話があって、羽賀さんがそろそろ帰ってくるからそう伝えておいてって言われたから。あ、お客様?」
羽賀さんの事務所は花屋の二階にあった。ちょっと古ぼけたビルではあるが、一階が花屋であるためビル全体の雰囲気としては華やかさが感じられた。
そこにいたのはエプロン姿の女の子。私は軽く会釈をして、羽賀さんに勧められるがままにソファに位置した。
「ここが羽賀さんの事務所ですか。で、こちらは事務の方か何かですか?」
「あ、舞衣さんの事ね」
羽賀さんがそういうと、エプロン姿の女の子は羽賀産の隣りに座って会話に加わってきた。ひょっとして羽賀さんの奥さん? そんな感じも受ける子だ。
「私はここの一階の花屋をやっている佐木野舞衣っていいます。このビルのオーナーの娘でもあるの。ときどき羽賀さんのお仕事のお手伝いもやってます」
「私は笠井慎一郎といいます。羽賀さんとは昔一緒に仕事をした仲で、今日たまたま再会したものですから。それで羽賀さんに誘われておじゃましました。羽賀さん、先ほど紹介したいといった方って、こちらの?」
「あ、いえ。もう一人私の仕事を手伝ってくれているミクってのがいるんですよ。まだ十九歳の専門学校生ですけど、ぜひ彼女の話を聞いてもらいたいと思って。でもさっきの雨で学校からまだ出られなかったみたいだな。もうしばらく待ってもらってもいいですか?」
「えぇ、私は構いませんが。それより羽賀さんの仕事って、具体的にどんなことをやるんですか?」
「はい、ボクの仕事は『コーチング』っていいます。お耳にしたこと、ないですか?」
「いえ、始めて聞く言葉です。なんですか、それ」
「笠井さん、コーチって聞くとどんなイメージを持ちますか?」
「コーチって、野球とかサッカーの?」
「そう思いますよね。では笠井さんがイメージしたコーチって、どんなことをやる人?」
「どんなって、そりゃコーチは選手を指導したりする人でしょ。野球のピッチングコーチやバッティングコーチはそうするでしょう」
「ということは、コーチは選手よりも技術が上なんだ」
「そりゃ……あ、でもそうでもないか。確かに指導はするけれど、全ての競技は選手よりもコーチの方が実力が上になっちゃいますね。ってことは何をやるんだ?」
「ではコーチが付いていないとどうなりますか?」
「う〜ん、一人でやるとどうしても甘えてしまって、ここまでっていう目標を達成できないような気がしますね。それに誰かに頼りたいときに頼れる人がいないと心細いですし。コーチがいた方が技術力の向上も速く行えるんじゃないですか」
「では、笠井さんの人生でそんな人がいたら、どうでしょうか?」
「私の人生で……そりゃ、そんな人がいたら、今の自分はなかったでしょうね」
ここで自分で言った言葉に気が付いた。人生のコーチと呼べる人がいたら、今の私はもっと思った通りの人生を歩んでいたのではないか。
「もしかしたら羽賀さんの仕事って、今言った『人生のコーチ』っていうやつですか?」
羽賀さんは笑顔でこっくりとうなずき、私の答えに無言で「イエス」と言ってくれた。そうか、だから人生のサポートといっていたのか。そんな仕事があるなんて今まで知らなかった。
「羽賀さん、そのコーチングってのをやってもらうのにはどうすればいいんですか?」
「え、コーチングを受けるには、ですか……」
羽賀さんはちょっと黙ってしまった。しばしの沈黙の後、羽賀さんがゆっくりと口を開いた。
「笠井さん、確か今はまだ職に就かれていないということでしたよね」
「えぇ、それが何か」
「笠井さん、率直にお伝えします。私もこれを仕事としているので、コーチングを受けるためにはお金を払って頂かなければいけません。失礼な言い方かもしれませんが、今の笠井さんからはとてもお金をいただけるような雰囲気がないのです。正直なところ、これだけのお金をひと月にお支払い頂けることはできますか?」
私は羽賀さんがメモに書いた数字を見てびっくりした。コーチングってそんなにもお金がかかるものなのか。
「そんなに高いのですか。無職の私にはとても払うだけの能力はありません。でも、コーチングというのにはとても興味を惹かれます。今の私を救ってくれそうな、そんな予感がします」
「では、どうしますか?」
「今は……今はあきらめます。ですが、そのうちにいつかはコーチングを受けられるように稼ぎますよ」
「そのいつかって、いつのことでしょうね」
「いつか……そうですね、少なくとも半年以内、いや、がんばって三ヶ月くらいにはそれなりに稼げるようになっていないと」
つい三ヶ月、なんていう言葉が口から出てきてしまった。言ってみてしまったという気持ちと、本気でやらなければという気持ちの両方が湧いてきた。そうだよ、いままで私がこうやってダメ人間になっていったのは、「やる」と口では言いつつもいつまでに成し遂げるといった気持ちが全くなかったからだ。
「笠井さん、どうかしましたか?」
私は羽賀さんの声で我に返った。
「あ、いえ」
私はあの事を、私が今のように転落をすることになったきっかけを羽賀さんに話そうかどうか迷っていた。あの事は私の身近な人、前の会社の人間、ごく親しい友人以外には知らないこと。いや、あまり知ってもらいたくないことでもある。
しかし、誰かにこの胸の内を知ってもらいたい。そんな欲求に駆られることもある。今がまさにそのときである。
「羽賀さん……」
私は小声でその名前を呼んだ。が、それと同時にドアがバタンと開いて、凍り付きそうだった空気が一変した。
「あ〜、もうっ! なんで今日は雨なのよ。天気予報なんかあてにしなきゃよかった」
そう言って女の子が事務所に入ってきた。
「あら、朝の天気予報だと昼の降水確率は七十パーセントだったわよ」
舞衣さんが女の子にそう伝えると、女の子は口をとがらせてこう言った。
「え〜、昨日の夜は四十パーセントだったのに。まったく、気象予報士は何やってんのよ! あ、ごめんなさい、お客様だった?」
女の子はようやく私に気付いたようだ。私はぺこりと首を縦に振り、会釈で応えた。
「笠井さん。この子がミクです。今日笠井さんに是非合わせたいと思いまして」
「あ、初めまして。間中ミクです。ミクって呼んで下さいね」
とても茶目っ気のある、はつらつとした女の子だ。
「私、羽賀さんのところで助手をやっています。今はまだコーチングはできないけれど、そのうち羽賀さんのお役に立てるようなコーチになって、二人で全国制覇するのが夢です!」
ミクさんはこちらが尋ねもしないのに、どんどん自己紹介をしていく。この積極的で明るい性格、今の私に欲しいところだ。
「ほら、ミク。笠井さんが圧倒されてるじゃないの。これじゃ羽賀さんの助手なんて名乗るのはまだまだ先の話しね」
「舞衣さ〜ん、そんな意地悪なこと言わないでよぉ」
「ははは。笠井さん、ミクはちょっとにぎやかなところがあるけれど、これでも結構ボクは助かっているんですよ。苦手なIT関係はすべておまかせしているし、事務所の留守も任せられるし。今でこそこんなに明るく振る舞っているミクだけど、ボクと出会うちょっと前までは今の笠井さんのような感じだったかも。ミク、よかったら笠井さんにボクと出会った時の話しをしてくれないかな」
「え、あの話? なんだか恥ずかしいなぁ」
「あら、ミクのあの話っていつ聞いても勇気が湧いてくるわよ。私は好きだな」
「舞衣さんにそう言われたんじゃ話さなきゃいけなくなっちゃうじゃないのよ」
ミクさんはそう言うと、羽賀さんの横にちょこんと座り、にっこりと微笑んで私に向かって話始めた。
「私と羽賀さんが出会ったのは、ビルの屋上だったのよ。それも私は屋上の柵の上でさ」
え、それってどういう事なの? ちょっとビックリした表情の私に、ミクさんは言葉を続けた。
「私ね、自殺しようと思っていたの。それを羽賀さんが引き留めてくれて。その自殺の理由、聞きたい?」
そこまで話して聞かないわけにはいかない。首を縦に振り、ミクさんの続きの言葉を待った。
「私ね、コンピューターグラフィックの専門学校に通っているんだけど、地元じゃそれなりの実力を持っている思っていたの。でもここに来たら私よりも才能のある人を目の当たりにしちゃってね。とことん自信をなくしていたんだ。とにかく落ち込む毎日を過ごして、そんなとき唯一の心の救いでもあったバイトの店長からもふられちゃって。この先どうしていこうか迷っていたら、足がビルの屋上に向かっちゃったのよね」
ミクさんの話しを聞きながら、今の私の心情にとても似ていることに気付いた。
「でもね、ビルの屋上で羽賀さんが私を目覚めさせてくれたの。こんな私でも、得意とするものがあるんだって。そして、その得意なことを伸ばしていくことで、私というものを認めてくれる人ができるんだって。だから、今の私はとても幸せ。だって、その得意なことを伸ばしつつ、好きな人と好きなことができているんだもん」
ミクさんはそういいながら羽賀さんに軽くウインク。
羽賀さんは軽く照れ笑い。そしてふと舞衣さんに目をやると……あら、なぜかちょっとふくれっ面をしている。
あ、なるほど。そういう関係か。この奇妙な三角関係に気付いた私は、ちょっとほほえましくなって軽く笑いを浮かべることができた。
「でね、でね、羽賀さんってとってもすごい人なんですよ」
ここからミクさんの独壇場。今まで羽賀さんがどのような功績を残したのか、いろいろと話しをしてくれた。
居酒屋の建て直し、ある企業の救済、時にはハラハラするような事件に巻き込まれたことなどなど。
聞いているだけで、羽賀さんがただ者ではないことを思い知らされた。だからといって、そんなに偉ぶっていない、いやむしろ私たちの身近なところに常にいてくれる、そんな存在に思えた。
「でさ、笠井さんって今何をやっているの?」
突然、ミクさんが私に話しを振ってきた。だが、言葉を出すことが出来なかった。こんな少女でさえ明るく立ち直っているのに、こんないい大人が情けない生活をしているなんて、とても言い出せなかった。
だが、その私を救ってくれたのは舞衣さんだった。
「笠井さんって、得意なことは何ですか?」
ミクさんの話しに割り込むようにこの質問を投げかけてくれた。今やっていることは話しづらいが、得意なことなら話ができる。
「私の得意なことですか。私は前は設計の仕事をしていたので、その関係でパソコンには強いんですよ」
「わぁ、私と一緒だ!」
ミクさんは同種の人間がいるということで、手を叩いて私の発言を喜んで受け入れてくれた。
「ねぇねぇ、パソコンに強いってどのくらい強いの? あ、そうだ。今ひとつちょっと困っていることがあるんだ。良かったら相談に乗ってくれませんか?」
「あぁ、どんなことかな?」
ミクさんはすぐにパソコンの電源を入れ、ホームページ作成ソフトを立ち上げた。
「あのね、今ホームページを作っているんだけど、どうしてもこの図のレイアウトをうまくやる方法がわからなくて。今参考にしているページがあるんだけど、こんな風に仕上げたいのよ」
ミクさんはそう言うと、とあるホームページを開いて私に見せた。あ、確かにこの方法はちょっと特殊だからな。こんな時には裏技を一つ。
「ほら、こうするとこのページのソースファイルが開けるだろう。これをこっちのソフトに張り付けると、ページの作り方を参考にすることができるんだよ」
私はそう言いながらマウスを操作。そしてミクさんの要求した方法を伝授することができた。
「わぁ、すごい! 笠井さんってとても詳しいのね。ありがとう!」
両手を握られ、上下に振りながら感謝の言葉をもらった。
「笠井さん、パソコンにお詳しいんですね。ボクはさっぱりだから全てミクにお願いしているんですけど。そのミクよりも詳しいなんて」
「いやぁ、詳しいといってもプロにはかないませんよ。ちょっと趣味でいろいろといじっているうちに覚えた技術ですから」
そう言いながらも、自分でもまんざらではないという感触を覚えた。
「笠井さん、ミクに指導してくれてありがとうございます。そのお礼といってはなんですが」
羽賀さんはそう言いながらバッグの中から一枚のちらしを取りだし、それを渡してくれた。
そのちらしにはこんなタイトルが。
"あなたの未来、お見せします"
「これ、今度ボクがやるセミナーなんですよ。よかったらこのセミナーにご招待します。先ほどのミクの指導料代わりといっては何ですが、ぜひいらっしゃいませんか?」
「『あなたの未来、お見せします』って、羽賀さん、占いとかするんですか?」
「いえいえ、占いなんてできませんよ。ここでいう未来、それは笠井さん、あなた自身の手で見てもらうんです」
私自身の手で未来を見る? どういうことなのかよくつかめなくて、もう一度羽賀さんから受け取ったちらしに目を通した。そこにはこんな事が書いてある。
"コーチングの手法を使い、自分で自分の未来を描いて頂きます"
「羽賀さん、コーチングって未来を見ることもできるのですか?」
「えぇ、コーチングの技術をうまく使えば、自分の中に眠っている答えを引き出しながら未来の自分を見ることも可能ですよ。笠井さん、ちょっとお聞きしてもよろしいですか?」
「あ、はい。なんでしょうか」
「まだ再会してからそんなに経っていませんが、いままで笠井さんの話を聞いていると、今から何かをやろうとしている、その行動にとても不安を抱いているように見えるのですが。いかがでしょうか?」
羽賀さんからそう言われて、私自身の核心に触れられたような気がした。
確かに羽賀さんが言うようにとても不安がある。今まで仕事も家族も、何の問題もなく順調に進んでいたのに、あることがきっかけで全てが崩れてしまった。それと同時に自信というものも崩れていった。
そのため、今は何を始めるにしても「うまくいかないのではないか」という不安が襲ってくる。だから職に就くことに踏み切れていないのかもしれない。
「羽賀さんのおっしゃるとおり、私は不安で仕方ないのかもしれません。いや、不安で仕方ないのです。だから何かをやろうとしても、今ひとつ踏み切れなくて」
「そんなのあたりまえじゃない」
そう言ったのはミクさんであった。
「私だってまだ自分に自信がないし、この先どうなるかって不安でいっぱいだよ。でも、行動しないと何も変わらないってわかったから、今は思いついたらどんどん行動しているんだよ。笠井さん、今私にホームページの作り方を自信を持って教えてくれたじゃない。笠井さんはもともとできる人なんだよ」
ミクさんの言葉は私の心を揺さぶった。確かに私は怖がって何も行動できていない。でも、怖がって何も行動しなければ一生このままだ。
「笠井さん、ミクの言うとおりですよ。さっきミクにパソコンを教えていた姿って、とても頼もしく見えましたよ」
そう言ってくれたのは舞衣さんであった。
「笠井さん、人は見えないものに対しては不安を抱くものです。真っ暗闇の洞窟を、ライトも無しに手探り状態で進むようなものですからね。だから、今の笠井さんの不安な状態は当たり前なんです。安心して下さい」
羽賀さんにそう言われ、私もホッとした。しかし、このままではいけないのも確かである。
「だったら、だったらどうすればいいんですか?」
私は羽賀さんにすがるように尋ねた。
「だからボクはこのセミナーを開くことにしたのです」
羽賀さんはそう言って、私の持っているチラシを指さした。
「ボクはコーチングの技術を使って、自分自身の未来を見てもらうことで、その不安を無くそうとしています。真っ暗闇の洞窟に、小さな灯りではありますが、少しでも進む方向が見えることで安心して一歩を踏み出せるでしょう。それを体験してもらいたくてこのセミナーをやるのです。ですから笠井さん。ぜひこのセミナーにいらして下さい」
そう言われて、もう一度羽賀さんから受け取ったチラシに目を凝らした。
今は無職の身なので、招待をいただいたことはありがたい。日程も今のところ問題ない。だがそれこそ一つの不安が頭をよぎった。
「羽賀さん、ご招待頂いたのはいいのですが、このチラシに書いているようなものを私は持ち合わせてはいません」
チラシにある「目標を達成するために」という「目標」の文字が気になっていた。今、目標と呼べるものがない。そんな私がセミナーに参加して、周りの人に悪い影響を与えるのではないだろうか。
だが羽賀さんはにっこりとして私にこう言ってくれた。
「このセミナーは笠井さんのような方にこそ来て頂きたいのです。明確な目標を持って日々を送っている人なんて少ないものです。しかし、人は心の中に何らかの願望を持っています。それを自然に引き出し、自分に落とし込んで頂くのがこのセミナーなんです。大丈夫、安心して来て下さい」
今は羽賀さんの言葉を信じるしかない。それに羽賀さんなら今の私をなんとかしてくれるかもしれない。そんな期待を抱き、私は思いきってこう返事をした。
「はい、それではお言葉に甘えて参加させて頂きます」
そうして私は帰路につくことにした。
「お世話になりました」
「ではセミナーの当日、お待ちしていますので」
今日、羽賀さんと再会できたこと。これは何の意味があるのだろうか。きっと私の人生を大きく変えることになるのかもしれない。
そんな期待を胸に、私は自転車のペダルを力強くこぎ出した。
「どうして、どうしてダメなんだよ。オレだって海斗と明日香の父親だろう。月に一度の面会だって許されているはずだろう」
「何勝手なことを。月に一度の面会はあなたがちゃんと父親らしく振る舞うことが条件でしょう。あなた、まだちゃんとした定職に就いていないじゃない」
羽賀さんと再会した夜、私は元妻の由梨恵のいる自宅へ、近所の公衆電話から電話をかけた。
実は私は携帯電話を持っていない。最初の頃は持っていたのだが、かける電話もかかってくる電話もない状態で、基本料金だけ支払うのがばからしくなって解約してしまった。
羽賀さんとの再会は私の心を躍らせてくれた。その勢いで子どもたちとの月に一度の面会を今度こそは成立させようと思った。だが無情にも由梨恵の言葉は、期待を大きく裏切るものであった。
離婚調停の時に、父親として月に一度子どもたちと面会をすることだけはなんとか約束してもらうことができたが、まだ一度しか会いに行っていない。
「定職に就いていないからって、父親らしくないとは言えないだろう。ここ数ヶ月も海斗と明日香に会っていないんだから。今回くらいはいい加減会わせてくれないか」
「何度言わせれば気が済むの。海斗と明日香には今のあなたの姿を見せたくないの。これはあなたのためでもあるのよ。自分の父親がまともに仕事もしないで、親から面倒を見てもらってぶらぶらしている。あなたはそんな姿を子どもたちに見せたいの? あの子たちの気持ちを考えてよ。ただでさえ父親の印象って良くないんだから。これ以上あなたの印象を悪くさせないためにも、まだ会わせるわけにはいかないわ。だいたい、最初の面会だって突然あなたが勝手にやってきて。子どもたちを待ち伏せして無理矢理遊びに連れて行ったじゃない。それこそ約束違反よ」
由梨恵の言葉に何も返すことができなかった。言われたことが全て事実だからである。
離婚して離れて暮らし始めた最初の月末の日曜日。私は子どもたちに会うことが当然という顔で、あの子たちの元へ向かった。子どもたちは私と約一月ぶりに会って遊ぶことを楽しんでくれたようだ。
海斗は小学三年生、明日香は幼稚園の年中。二人ともまだ父親が必要な時期であり、特に長男の海斗にとって私の存在は大きいものである。
この日は公園に行き、海斗とはサッカーを、明日香とは自転車の練習で汗を流した。
しかし、由梨恵のところへ戻ったときに出た言葉、それは
「あなた、約束も守らないで勝手なことをしないでちょうだい」
その約束とは、子どもたちにとって父親らしくしっかりとした状態になること。そうしなければ面会はさせない、というもの。由梨恵にとってのしっかりした状態とは「定職に就くこと」を示すのだというのを知ったのはそのときだった。
「じゃぁ、オレがちゃんとした仕事に就きさえすれば海斗と明日香に会わせてくれるんだな」
「それは何度も言っているじゃない。あなたがきちんとした仕事について、身なりもそれなりにしっかりとした状態なら約束通り月に一度会わせてあげるわ」
「よしわかった。月に一度の面会は月末の日曜日だよな。だったらまだあと十日ほどある。それまでに仕事が見つかれば会わせてくれるんだよな」
「もちろん。でもアルバイトはだめよ。毎月ちゃんとしたお給料を貰える仕事でないと認めないから」
「それならあと十日のうちに仕事に就いてやるから、待ってろよ!」
私は電話の受話器をガチャンと激しく叩きつけた。
自宅に帰り、パソコンの電源をいれる。私の住んでいるアパートはインターネット回線を入れているため、無料で使うことができる。
家にはテレビはないがパソコンだけは持っている。情報はすべてインターネット経由でパソコンから拾っている状態。最近は無料で見ることができる動画も多いため、テレビよりも退屈しない。
裏を返せば、これが私を堕落させている原因なのかもしれない。気がつくと、こうやってインターネットを意味もなく見ている時間が多くなっていた。
翌日、私は早速朝からハローワークへ足を運んだ。もういい加減何か仕事に就かないと。由梨恵への意地もある。子どもたちと会いたいという思いもある。
結局、午前中は求人情報を片っ端から開くが、目ぼしいものがなく終了。肩を落として一旦ハローワークを出て行く。このとき、ふと掲示板に目をやるとこんな文字が飛び込んできた。
”再就職支援セミナー あなたの適正を引き出します”
開催は今日の午後じゃないか。
「どれどれ。『自分の適正がわからず、職種に困っている方は是非ご参加下さい。自分の適正がきっとわかります。』か。えっと講師は……」
私は講師の名前を見てびっくりした。「講師:羽賀純一(コーチング)」と書いてあるじゃないか。羽賀さん、こんなところで講師の仕事もやっているのか。
しかし、どうして今までこのポスターに気付かなかったのだろう。こんなのがあると知っていれば、早く申し込んでいたのに。
私はくるりと方向を変え、ハローワークの受付カウンターへ急いだ。
「あのぉ、入り口でポスターを見たんですけど。今日の午後のセミナーはまだ参加できますか?」
「あ、あのセミナーですか。ごめんなさい、もう定員いっぱいになっちゃったから締め切ったんですよね。しまったな、ポスター剥がすの忘れてました」
「えぇっ。そんな……なんとか参加はできませんか? お願いします」
受付の女性は一度奥に行き、上司と話しをしている。そして戻ってきて、その口から出た言葉、それは
「大変申し訳ありません。今上司と話しをしたのですが、直前になると講師の先生の準備もあるようなので追加は難しいということです。また来月同じようなセミナーを開きますので、ぜひこのときにご参加頂ければと思います」
来月じゃダメなんだよ。あと十日のうちに就職しないといけない理由があるのだから。
そして午後、私はハローワークの休憩イスに座っていた。
羽賀さんのセミナーを受けることができずに、がっくりと肩を落として帰路につこうとした。ちょうどそのとき、また雨が降り出した。この雨は止む気配がない。
だが、ただ雨宿りがしたくてここにいるのではない。羽賀さんのセミナーになんとか潜り込むことはできないのか。それを期待して羽賀さんが来るのを待っていた。
けれど、セミナーはすでに始まっている時間。ここは入り口が三カ所あり、羽賀さんは私が座っているところとは違うところから入ったようだ。
帰ろうにもこの雨では帰ることができない。職を探しに行けばいいのだが、その気力も湧かない。一体、いつになったらここから抜け出せるのだろうか。
そう思ったとき、一人の男が入ってきた。
「うわぁ〜、なんだよこの雨」
そう言いながら、頭や肩の雨をはらっている。スーツ姿でいかにもビジネスマンという感じだ。その男は私に気付かずに横を通り過ぎていった。
「たしかあいつは……」
高校の同級生の田崎だ。といってもクラスが同じというだけのことで一緒に遊んだ記憶はない。
きっと田崎も、今の私を見ても昔の同級生だとは思わないだろう。どうやら求人情報を出しに来たらしい。
「じゃぁ、よろしくお願いします」
田崎は用件が済んだらしい。クルッと方向を変えて、私の座っている方へと向かってきた。きっと気付くことはない。そう思って、ただボーっと外を眺めていた。
田崎が私の横を通り過ぎようとしたそのとき、予想外の出来事が。
「あれ、確か高校の頃一緒だった……そうそう、笠井、笠井じゃないか?」
田崎は私の存在に気付いた。きっとわからずにそのまま通り過ぎるのではと思っていたのに。
「あ、あぁ。田崎じゃないか」
私はあたかも今田崎の存在に気付いたような、演技にならない演技をした。だがそれに構わず、田崎は私の横に座って話をし出した。
「おい、何年ぶりだよ。いやぁ懐かしいなぁ。今なにやってんだ?」
何やっているって、こんな姿をした男がハローワークに来るといったら用件は一つしかないだろう。
「おい、もしかしたら仕事探してんのか? だったら、ちょっとオレの話を聞かないか。きっとおまえの役に立てると思うぞ」
私の都合はおかまいなしにしゃべり始める。田崎は今IT関係の仕事の斡旋業務をやっているらしい。主にホームページ作成を受注して小さな会社へ仕事を依頼しているとか。今回はその依頼先の会社の求人を出しに来たということだ。
「でさ、とにかく今人手が欲しいところがあって、なんとかしてそこに一人ねじ込みたいんだよ」
田崎が言うにはWEBデザインをやっている小さな会社で、急ぎで人が欲しいということ。
「でも、WEBデザインなんてやったことないぞ」
正直、田崎の話に乗り気ではなかった。
「大丈夫だよ。作業はちょっとした事務処理の延長だし。ちょっとパソコンが使えりゃできる仕事だよ。な、頼むよ。オレを助けると思ってさ」
どうやら田崎はこの会社とは深い理由があるようだ。その困った顔を見ると、心が揺らぐ。
外を眺めると、雨はさらに激しくなってきた。
「ちょっと……ちょっと考えさせてくれないか。相談してみたい人もいるし」
このとき、私の頭には羽賀さんの顔が浮かんでいた。
「相談って、奥さんか? ま、正直なところ今すぐにでもお願いしたいところなんだけど。それなら明日、明日返事をくれるかな?」
「あ、あぁ……」
私は田崎の勢いに負けて、ついそんな返事をしてしまった。仕方ない、とにかく羽賀さんに相談してみるか。
「じゃぁ、明日待ってるからな。ここに電話してくれ。よろしくな」
田崎はそう言うと、求人先の資料と自分の名刺を渡して足早に雨の中を去っていった。
「どれどれ……『KAWASAKI・WEB工房』か」
私は田崎からもらった資料に目を通し始めた。募集は正社員。給料は月十五万円ほど。ちょっと安すぎるな。
だが、注釈に「将来幹部候補としての登用あり」の文字が。その先には"三十万"と書かれている。おそらく幹部社員としての給料を示しているのだろう。将来、というのがどのくらい先かはわからないが、一年くらいでこの程度の給料まで引き上げることができればなんとかなるか。
だがひとつ気になることが。住所が隣の市なのだ。
私は車を持っていないため、通勤となると自転車か電車しかない。隣の市の中心部までは約二十キロ。自転車で通勤するにはちょっとつらい距離だ。
早速、その住所がどの位置にあるのかを探すため、ハローワークにあるパソコンで検索をかけた。
「ちっ、ここか」
見つけた場所は、隣の市の駅からおよそ三キロほど離れた住宅街。どうやら自宅を事務所にしている会社のようだ。近くにバスは通っていない。
「こりゃ無理だな。ウチから駅までだって二キロくらいあるし。田崎には悪いが通勤の関係で断るか」
口ではそう言ってみたものの何かがひっかかる。やはり幹部社員の給料か。
今までたくさん求人情報を見てきたが、三十万円も出してくれるようなところは見あたらない。あったとしても「営業実績による」という条件付き。
頭の中がグルグル回り始めた。どうしよう。田崎の言うこの会社に一度身を置いてみるか。いや、今までやったことのない仕事だし、通勤だって面倒だ。でも三十万円の給料は魅力だし。
頭を抱えて悩んでいると、人の波が押し寄せてきた。どうやら二階で行っていたセミナーが終わったようだ。そうだ、早速羽賀さんに相談してみよう。
人の波を逆走し、羽賀さんの姿を見つけるのに必死になった。セミナーが行われていた会場に駆け込んだとき、ホワイトボードの文字を消していた羽賀さんの姿を見つけた。
「は、羽賀さんっ」
「あれ、笠井さんじゃないですか。どうしたんですか、今日は」
「羽賀さん、折り入ってお願いがあるのですが」
「え、なんでしょうか?」
羽賀さんは突然の私の登場に一瞬たじろいだが、すぐに冷静になって対処してくれた。
「ちょっと、ちょっと就職について相談をしたいんです。時間、とれますか?」
「えぇ、この後は特に予定が入っていないので大丈夫ですよ。あいにくの雨だからどうやって移動しようかと考えていたところなんですよ」
「それならここの相談室を使って下さい」
そう言ってきたのは、ハローワークの職員。
「え、いいんですか。助かるなぁ。じゃぁ、お言葉に甘えて」
こうして羽賀さんに就職の件を相談できることになった。雨でついていないと思っていたが、ひょっとして今はついているのかもしれない。そう信じて、羽賀さんと一緒に相談室へ向かうことにした。
相談室でお茶を入れてもらい、一息ついている羽賀さん。私は少し緊張。就職の相談があると言ったのはいいが、そこから先をどうやって切り出したらいいものか、ちょっとモジモジ。だが勇気を出して口を開いた。
「羽賀さん、今就職をどうしようか悩んでいるんです。話を聴いてくれますか?」
羽賀さんは無言でにっこりと微笑みながら、首を縦に振った。
そこで先ほど出会った田崎とのやりとりを羽賀さんに話した。昔の同級生から仕事を紹介される。それがなんだか情けないということも伝えた。
「そうなんですか。ご自分では情けないって感じているんですね。ところで笠井さん」
羽賀さんは私を指さしてこう言ってきた。
「情けないって、誰に対して情けないと思っているんですか?」
「え、誰に対してって……」
羽賀さんの言葉で考えが止まってしまった。私は誰に対して見栄を張ろうとしていたんだろうか? 田崎か?
確かに同級生の田崎から仕事をもらうことに対して抵抗が無いわけではない。だが、よく考えたら田崎はこれに対して恩を着せようなんて思っているワケじゃない。おそらく頼まれた求人を埋めるのに必死のはず。
そんな場面で私と出会った。とにかく確実に求人を埋めたい。だったら、私がそこに入ることでむしろ田崎から感謝されるはず。ということは、見栄を張ろうとしているのは田崎に対してではない。
ここである顔が浮かんだ。その顔は、長年親しくつきあい、時には一緒に笑い、時には一緒に泣いた、あの懐かしい顔だ。
「たぶん元妻の由梨恵に対して、でしょうかね」
私が口を開いたのは、羽賀さんの質問からずいぶん経ってからのこと。といっても、時間にすれば一分もないくらいだろう。だが、羽賀さんはその間何も言わずに私の答えを待っていてくれた。
私は言葉を続けた。
「私、由梨恵に対して見栄を張ろうとしていたんです。勢い余って離婚したものの未だに私はこの状態です。どうせ就職するのなら、あいつに胸を張って『どうだっ』と突きつけてみたかった。しかし現実はそんなに甘くない。このギャップと自分の見栄が今の自分を作っているんでしょうね」
ここまで話をしたら、なんだか心の中がスゥーっとなるような感じがした。
「笠井さん、なんだか憑き物が落ちたような表情ですね」
羽賀さんがそう言ってくれた。言われたとおり、心に引っかかっていた由梨恵への見栄を吐き出すことで何かが落ちたようだ。
「ところで、その田崎さんから紹介された仕事ってどんなことをやるんですか?」
羽賀さんが話題を変えてきた。私は田崎からもらった手書きメモのファイルを取り出し羽賀さんに見せた。
「なるほどね。WEBデザイナーのアシスタントのようなお仕事ですね。これだったらそこまで専門知識はいらないかな」
「え、専門知識はいらない?」
「えぇ、このメモにある条件を見ればおおよその推測はつきますよ」
そう言って私にメモに書いてある条件を見せてくれた。そこには「仕事内容:クライアントからのデイリー原稿のアップ」と書かれてある。
私は「幹部社員三十万」という文字しか見えていなかった。
「おそらく毎日ホームページを更新している企業からの依頼で、出された原稿をWEBにアップする仕事がメインなんでしょうね。だったらボクにでもできちゃいますよ」
「羽賀さんってパソコンは苦手じゃなかったのですか?」
「基本的にこの手の仕事はウチのミクにやってもらっているんですが、ミクが学校でどうしても出てこられないときにはボクが自分でやることになっているんです。そのおかげでミクから徹底的にしごかれましたからね」
羽賀さんは笑いながらそう言った。
「でも、パソコンオンチのボクが原稿をアップするくらいの仕事はできるようになったんだから。もともとこういった分野がお得意の笠井さんだったらわけなくできちゃうんじゃないかな」
羽賀さんからそう言われると、なんだか少し自信が出てきた。
「笠井さん、ちょっと質問していいですか?」
「えぇ、なんでしょうか?」
「笠井さん、パソコンをいじっているときってどんな気持ちですか?」
「え、どんな気持ち?」
そう言われて、ボクはパソコンをいじっているときの自分の姿を客観的に想像してみた。
今は一人の部屋で、まるでオタクのようにインターネットにかじりついている。が、そのときは暗い表情ではない。むしろイキイキしているかもしれない。
さらに前職に付いているときのことを思い出してみた。
あのころは頼まれもしないのに課のパソコンの保守点検係みたいな事をやっていた。同僚のパソコンが立ち上がらないときに、なぜか私が呼ばれてしまう。仕方ないなぁと言いながらも、喜んでその復旧作業を行ったものだ。いつぞやは課に置いてあるサーバーがうまく起動せずに、ほぼ一日かけて復旧作業を行ったものだ。それは本来私の仕事ではないのに、イキイキとした表情で仕事をしていたのを思い出した。
「そうですね、私ってパソコンをいじるのが好きみたいですね」
羽賀さんの質問からしばらく経って、私はそう答えた。「どんな気持ち?」という質問が、私の心を思い出させてくれたのだ。
「笠井さん、今ボクが感じたことをお伝えしてもいいでしょうか?」
「は、はい。どうぞ」
「今の笠井さんから伝わってくるもの。それはさっきまでの自分を恥ずかしく思っている姿です。おそらくそれは、自分につまらない見栄があった。だからこんな簡単な仕事に就こうとは思ってもみなかった。けれど、本当は自分はそれがやりたかった。でも、やりたいこととお金をかせぐことは別である。自分は電気部品の設計屋。そのプライドが許さない。そんな思いが心の中で渦巻いている。いかがですか?」
「えっ、あ、ど、どうしてそれが……」
「笠井さん、そんなに驚かないで下さいよ。さっきまでの笠井さんの表情を見ていたら、勘のいい人だったらそう感じ取れますよ」
羽賀さんはさらりと言ってのける。だが、それは常に人と向き合っている羽賀さんだからこそできることなのだろう。
「さて、笠井さん。どうしましょうか?」
どうしましょうか。これが何を意味するのか私にはすぐにわかった。この会社に就職するかしないか。そのことを言っているのだ。
「どうやら私にはつまらないプライドが邪魔をしていたようです。先ほど羽賀さんが言ってくれた言葉でそれがはっきり自覚できました」
私は顔を上げて、羽賀さんの目を見つめて、そして羽賀さんにこう伝えた。
「やってみます。つまらない自分のプライドは捨てて、とにかくチャレンジしてみます。やらないことには始まりませんからね」
気持ちははっきりした。いつまでもこのままじゃいられない。とにかく一歩を踏み出さないと。
ついていない男、笠井慎一郎は今日で卒業だ。
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