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コーチ物語 〜幸せの歩き方〜 第六章 成幸とは

「よし、今日こそは」
 午後七時。意を決して携帯電話のダイヤルを押す。ダイヤルを押せば押すほど、指が震えてくる。
 全ての数字を押して、そして発信ボタン。私はゆっくりと電話を耳に当てた。
 プッ、プッ、プッ、という音の後に、呼び出し音。一回、二回、三回。四回目が鳴り始めてすぐに呼び出し音が切れた。
「はい、笠井でございます」
 聞き慣れた女性の声。由梨恵の声だ。
 のどに何かが詰まったような感触があってすぐに声が出ない。一度咳払いをして、のどを開通させる。
「あ、オレだ」
「えっ、慎一郎さん? 一体どうしたの?」
「あ、いや。こっちで仕事を始めたんだ。それで携帯電話を買ったから。その番号を知らせておこうと思って」
 本当は由梨恵の近況や子どもたちのことを知りたい。だがそんな本音を出すこともできず、建前で用意したことを伝えた。
「あ、ちょっと待って。今メモするものを準備するから」
 そう言って由梨恵は元亭主からの電話を何の違和感もなく聞き入れている。どういう心境なのだろうか?
「はい、いいわよ」
「じゃあいくよ。電話番号は……」
 この番号を言い終わったら、もう由梨恵の声を聞くことができなくなるのでは。そう思っていた。
「ありがとう。今度何かあったらここにかければいいのね。ちょうどよかった。私も早速その番号にかけるから。一旦切るね」
 由梨恵の言葉はとても軽くはずんでいた。そして呼び出し音が鳴る。
「あ、はい」
「よかった。間違ってないわね。この番号が私の携帯だから。何かあったときにはこっちの方がつながると思うわ」
「そ、そうか」
 何か言わなければ。焦ればば焦るほど、言葉を出すことができなかった。だが、展開は予想外の方へ。
「そうそう、この前は海斗と明日香喜んでたわ。久しぶりにパパに会えて。今月も来るの?」
「あ、あぁ。そのつもりだが」
「そのとき、ちょっと時間とれる?」
「えっ!?」
 由梨恵からの予想外の言葉。前回は明らかに私を避けていたと思ったのに。
 由梨恵にもっと聞きたいことがあったのだが、それは今度会ったときにでも話ができるか。結局、次回にどこで会うかの約束をして電話を切った。
 しかし、由梨恵は私にどんな用事があるのだろうか? ひょっとして、元同僚の柏原と一緒になるとか、そういう報告じゃないだろうか。
 この日は悶々とした気持ちを抱えながらバイト先へ足を運ぶこととなった。
「笠井さん、こんばんは」
「あれ、羽賀さん。こんな時間にめずらしいですね」
 深夜一時過ぎ。コンビニの客もいなくなり、私も夜食を食べ終わり商品の陳列をしようかと思ったときに、羽賀さんがふらりと現れた。
「いやぁ。今日はひろしさんに誘われちゃって。飲みに出たんですよ」
 その言葉通り、羽賀さんの頬は紅くなっていた。言葉もいつになく陽気な感じがする。
「羽賀さん、よかったらちょっと休んでいってくださいよ」
「いやいや、ご迷惑でしょうから。ちょっとお水買ってきますね」
 よく見ると足取りが少しフラフラな羽賀さん。大丈夫かな?
 すると今度は一人の女性が走り込んできた。
「あ、いたいた。まったくもう、羽賀さん途中で消えるんだから」
 飛び込んできたのは舞衣さん。こちらはしっかりとした足取りだ。
「ほら、しっかりしてよ。まったく、そんなにお酒強くないのに飲み過ぎちゃうんだから」
 なんだかほほえましいな。そんな思いでこの二人を見つめていた。
「これ買うんでしょ。あ、笠井さんこんばんは。みっともないところ見せちゃったみたいね。はい。じゃぁお金はこれで」
 舞衣さんは自分の財布から羽賀さんが買おうとしていた水の代金を支払った。完全に世話女房しているな。
「ごめんね。今日お父さんがめずらしく私と羽賀さんを誘って飲みに出たものだから。羽賀さん、そんなにお酒強くないのに、はっちゃんが飲め飲めってすすめちゃうから。あ、はっちゃんって今日行った居酒屋の店主なのよ。前に羽賀さんがコーチングしてあげて、今では繁盛店になっちゃって。そのお礼だって美味しいお酒をどんどん持って来ちゃうものだから」
 私以外にも羽賀さんにお世話になった人っているんだな。
「笠井さんっ!」
 羽賀さんが急に顔を上げて、私の方をじっと見つめた。しばらくにらめっこ。そしてニカッと笑って羽賀さんが一言。
「今、幸せですか?」
 突然の言葉に、何と答えればいいかすぐには思いつかなかった。で、結局出た言葉がこれだ。
「は、羽賀さんは今幸せですか?」
 この質問返しに、羽賀さんは先ほどよりもさらに笑みを増してこう答えてくれた。
「もちろんっ! 今が最高に幸せですっ。ね、舞衣さん」
 酔っているせいもあるのだろう。が、その言葉と笑みからは最高の幸せを感じ取ることができた。だが羽賀さんの言葉はこれで終わりではなかった。
「笠井さん、成功だけしちゃだめですよ。成功って、『功を成す』って書くじゃないですか。あれは見た目だけの話。本当に必要なのは見た目の世界と心の世界、両方で満たされることですからね。だから仕事だけで成功しても、ちっとも幸せじゃないっ!」
 羽賀さんの声はどんどん大きくなってくる。バックヤードで夜食を食べていたもう一人のアルバイトも、それを聞きつけ姿をあらわした。どうやら私が酔っぱらいに絡まれていると思ったようだ。
 「知り合いだから大丈夫」と彼に告げ、羽賀さんの言葉に再び耳を傾けた。
「いいですかっ。幸せってのは見た目と心、両方の世界が満たされて初めて言えるんですよ。心だけが幸せで貧乏暮らしじゃ、それは自己満足の世界だ。あなたの周りの人を幸せにはできない。お金だけあって心が満たされないと、それこそ不幸というもの。笠井さん、あなたには『幸せに成る』と書いた成幸を目指して欲しいっ。わかりましたねっ!」
 羽賀さん、酔っている割にはするどいところをついた言葉だった。
 結局、舞衣さんに寄り添われて姿を消していく羽賀さん。
「笠井さん。誰なんですか、あの酔っぱらい?」
 私は今の羽賀さんの言葉でまた一つ学びを得た。だから彼にこう告げた。
「あの人かい。あの人はね、私の先生なんだ。私を成幸へと導いてくれる、とてもすばらしい先生なんだよ」
 羽賀さんが去っていった方向を見つめながら、自分の言った言葉を噛み締めていた。
「由梨恵、久しぶりだね」
 由梨恵に電話してから数日後、毎月一回子どもの海斗と明日香に会う日がやってきた。前回と同じく、約束の時間に約束した駅の改札へ向かう。前回と違うのは、由梨恵が目の前にいることだ。
「さぁ、パパのところでたくさん遊んでおいで。じゃ、終わったら電話ちょうだい。そのあと時間つくって二人で話したいことがあるから」
 由梨恵はそう言って、二人の子どもを私に預けて駅の改札へと消えていった。その姿は以前とは異なり、一人の女性を感じさせるものがあった。
「ねぇ、パパ。今日はどこに行くの?」
 由梨恵を笑顔で見送った後、明日香が私にそう聞いてくる。
「そうだね。今日はどこに行きたい?」
「んとね……んと……」
 明日香は必死になってどこに行きたいかを考えている。その横で海斗は浮かない顔つき。一体どうしたのだろうか?
「海斗、どうかしたか?」
「え、う、ううん。なんでもないよ。それより明日香、今日はお父さんにお願いがあったんだろう?」
「あ、そうだった! ねぇパパ。ママのお誕生日のプレゼント、一緒に選んでくれる?」
 そうか、うっかりしていた。もうじき由梨恵の誕生日じゃないか。しかし彼女の誕生日を忘れるのも無理はない。ここ数年は仕事、仕事で忙しくて由梨恵の誕生日どころか、子どもの誕生日すら一緒にお祝いすることもなかった。
「そうだな。じゃぁ今日はみんなで一緒にママの誕生日プレゼントを探しに行こう。さて、どこに行こうかな」
 私たちはとりあえずお店がたくさんある新宿へと移動することに。しかし由梨恵へのプレゼントなんて、一体何を贈ればいいのだろうか?
 午前中はデパートや雑貨屋を見て回ったが、これといったものはまだ見つからなかった。歩き回ってお腹もすいたので、デパートの上にある飲食街で昼食を取ることにした。
 ここで私は海斗の顔が今ひとつ浮かない理由を聞くことにした。
「海斗、今日は元気ないけれどどうしたんだ? どこか具合でも悪いのか?」
「そうじゃないけど……」
「どうした。学校で何かあったのか?」
「うん……お母さんがね、今月に入ってから急に仕事、仕事ばかりで僕たちのこと全然相手にしてくれないんだ」
 海斗のこの言葉に、私は一瞬怒りを覚えた。子どものことをほったらかしにして、仕事を優先にするなんて。母親としてとんでもない!
 が、そう思った自分に対してすぐに反省。よく考えたら、由梨恵の誕生日すらお祝いせずにほったらかしにしていたのは自分の方なのだから。
「わかった。今日はこの後ママとお話しする時間があるから、ちゃんと話しておくよ。それに、ママに誕生日のプレゼントを渡せば、ママもきっと海斗と明日香のことをしっかりと見直してくれるよ」
 そう言って海斗の頭をなでて、気持ちを落ち着かせた。
「さ、冷めるから食べてしまおうか」
「うん」
 少し元気を取り戻した海斗は、あっという間に食事を平らげた。明日香もお子様ランチをしっかりとお腹に入れ気分上々。
 こうして私たちは再び誕生日のプレゼントを探しに街へ足を踏み出した。
「ね、これなんかどう? とってもかわいいよ」
「そうだな。これならママ喜ぶかもしれない」
 そうして見つけたのは、とある雑貨屋にかざってあったオルゴール付きの小物入れ。値段もそんなに高くはない。
「じゃぁ、これは三人で買うことにしよう。ところでおまえたち、お金は持ってきているのか?」
「うん。おばあちゃんがこれで何か食べてきなさいって渡してくれたお金があるから」
 海斗はそう言って、財布の中から二千円を取り出した。どうやら孫のお小遣いまで甘えているようだな。
「よし、そのお金とパパが残りを出すから……あ、ちょっと待って!」
 私はこのとき、あることをひらめいた。そして雑貨店の一角にあるアクセサリー売り場へと足を運んだ。
「このくらいなら何とかなるか。すいません、この指輪で十一号ってありますか?」
 ここでシルバーの指輪を購入。
「この指輪をこのオルゴールの中に入れて一緒に包装してもらえますか?」
「お父さん、ナイスアイデア! お母さんきっと喜ぶよ」
 海斗がそうほめてくれた。私もまんざらではないと思っている。このとき、頭の中ではあるシナリオが組み立てられていた。
 こうしてプレゼントを購入し、私たちは待ち合わせ場所へと足を運んだ。そこにはすでに由梨恵がいた。その横には由梨恵の両親の姿もある。
「あ、ご無沙汰しております。子どもたちがいつもお世話になっているようで」
 私は少し緊張しながら由梨恵の両親にお礼の言葉を。来るのがわかっていれば何かお礼のおみやげでも途中で買ってきたのに。
「いえいえ。こちらこそ毎日楽しい思いをさせてもらっていますよ。今日はこれから二人をお預かりしますから、由梨恵とゆっくりしてらっしゃい」
 両親の厚意に甘え、由梨恵と二人で話をする時間を設けることにした。
 時間も丁度いい頃なので、食事をしながらということに。といってもしゃれたレストランに入るほどの余裕がないため、個室になっている居酒屋へ足を運んだ。
「で、仕事の方はどうなんだ?」
 落ち着いて早々、私は由梨恵の近況を聞く。だがその質問はそのままそっくりこちらへと返された。
「あなたこそ。新しいお仕事始めたんでしょう。もう波に乗ってるの?」
「いや、始めたといってもまだまだ。夜中のコンビニのアルバイトも続けているし。でも二、三日に一度は仕事が入ってきているから、一人で食べて行くには困らないよ」
「そう、それはよかったわね。このまま順調にいったら、どのくらい稼ぐことができそうなの?」
「どのくらいって……まだそんなことはあまり考えてないな。由梨恵はどうなんだ? 海斗から聞いたぞ。最近子どもたちの相手をしてないみたいじゃないか」
「うん……それは自覚してる。でもね、でも仕事に頼らないと私、だめだったの。やっぱり私って弱い女なのよ」
「どういうことだ?」
 由梨恵はうつむいてハァ〜っと深いため息。
「隠してもしょうがないから、この際思い切って告白しちゃうね。私、柏原さんと一時期おつきあいしていたの。あなたの同僚の」
 やはりそうだったのか。由梨恵の次の言葉を待った。
「でもね、柏原さんはいい人なんだけどやっぱりダメだった。お友達以上の関係にはなれなかったわ。どうしても私がその気になれなくて」
 その気になれなくて。この言葉には深い意味があるのだろう。逆を言えば、柏原とは関係を持っていないということになるのか。由梨恵の言葉はさらに続いた。
「私ね、やっぱり何かに頼っていないと生きていけないみたい。あなたと別れたときは一人でもやっていけるって思ったんだけど」
「だから柏原を頼った、ということか」
「うん。それは否定しない。でもあの人は頼るべき人じゃなかった。で、結局別れたわ」
 この言葉を聞いて、安堵の気持ちが湧いてきた。しかし由梨恵が今日話したいことはこれだけではないはずだ。私は不安の色を隠せず、目の前のビールを思いっきり飲み干した。
「それで……それで今は?」
「今? 今はフリーよ。でもね……」
 由梨恵の答えは男性関係に対してのものだった。が、そのあとの「でもね」がとても気になる。しかし由梨恵はこの言葉の後うつむいてしまい、何も言葉を出してくれない。
「由梨恵……ちょっといいかな?」
「え、何?」
 由梨恵は顔を上げて私の方を向いてくれた。
「由梨恵、もうすぐ誕生日だろう。今日、海斗と明日香と三人でおまえの誕生日プレゼントを買ったんだ。あ、中身はまだナイショだよ。で、そのプレゼントの中にはオレからのメッセージを込めた品が入っている」
 由梨恵は真剣に私の話を聞いてくれている。一拍おいて、私は話を続けた。
「まず最初に、そのメッセージを伝えたい。由梨恵、オレはおまえと……」
「ストップ!」
 由梨恵は私の話を急に遮った。どういうことだ?
「ねぇ、そろそろここを出ましょう。ちょっと夜風に当たりたいの」
 そういって由梨恵は立ち上がって店を出て行こうとした。私は慌てて由梨恵の後を追う。
「あなた、お願いがあるの。ちょっと歩くけれど東京タワーまで一緒に行ってくれない?」
 由梨恵はそういってスタスタと歩き出した。ここから東京タワーまではそう遠くない。すでに視界に入っている。
 信号待ちをしているときに、由梨恵は腕を組んできた。だが、言葉はない。私もどう言葉をかけていいのかわからず、無言のまま腕を組んで青信号になった横断歩道を渡った。
 どれくらい時間が経っただろうか。気がつくと芝公園。東京タワーのふもとにある、緑がいっぱいの公園だ。私たちは公園に入り、無言のまま歩き続けた。
 夜、男女がデートするには雰囲気としては最高の場所。周りを見回すと、何組かのカップルが目に入る。
「ねぇ、さっきの話の続き、してくれない?」
 由梨恵が突然そう振ってきた。てっきり聞きたくないからストップをかけたのだとばかり思っていたのだが。
「さっきの続き、だったね。じゃぁ言うよ」
 由梨恵と正面に向き合い、しっかりとその目を見つめた。
 このとき、急にのどの渇きを覚えた。胸もさっきよりさらにドキドキしている。
「あのさ、由梨恵、おまえと別れてから一年以上経つよな。そして別れて初めてわかったんだ。今までおまえにどれだけ甘えていたかって事が。そして今までおまえと子どもたちの事を全く見ていなかったって事が。とても反省した。反省したと同時に、今自分が欲しいものがはっきりと見えてきた。由梨恵、おまえと海斗と明日香、そしてオレの四人で幸せな家庭をつくりたい。もう一度やり直したい。おまえともう一度一緒になりたい
 ここまで一気にしゃべりつくした。
 由梨恵は私の目を真剣に見ている。そして急に笑い出した。
「まったくもう。ホントにあなたってムードとか考えない人よね。そんなところ、昔っから変わってないんだから。覚えてる? 最初に私にプロポーズしたときのこと」
 プロポーズか。この前羽賀さんとその話をしたのでよく覚えている。
「確かクリスマスイブにドライブに行って、展望台で指輪を渡した。そうじゃなかったかな?」
 私の頭の中のプロポーズは、精一杯ロマンチックなムードをつくった印象しか残っていない。が、由梨恵はまた笑いながらこう言ってきた。
「やっぱり。それ以前に一度私に『結婚しよう』って言ってきたときのことは覚えてないんだ」
 由梨恵にそういわれて、記憶を一生懸命引っ張り出した。が、まったく覚えがない。由梨恵の言葉は続いた。
「あのときあなた、結構酔っぱらってたからね。居酒屋で飲んでたときだったよ。会社でいいことがあったみたいでやけにはしゃいでた。私もあなたの話を聞きながら楽しんでたけど、そんなときいきなり『由梨恵さん、ちょっといいですか』って言い出して。何だろうと思ったら『結婚して下さい』って大まじめな顔で言うじゃない。プロポーズはもうちょっとムードのあるところで言って欲しかったな」
 そんなことがあったのか。私の記憶からはそのことが全く引き出されなかった。反省である。
「今回もなんだか似たような感じだったじゃない。もし私にもう一度プロポーズしてくれるのだったら、あんな居酒屋じゃなくてもっとムードのあるところでして欲しかったの。だから……」
 由梨恵はそういって私をしっかりと見つめてくれた。
 私も由梨恵を見つめる。
 そして私と由梨恵は、静かに唇を重ね合わせた。
「由梨恵、三ヶ月時間をくれないか」
 公園のベンチに腰掛け、思っていることを再び話し始めた。
「まだ今の仕事が軌道に乗っていない。もう少し時間が欲しい。おまえと子どもたちに対して責任を持てるようになりたい。こんな中途半端な状態でおまえにこんなことを話すのは反則かもしれない。だから三ヶ月後の自分の姿を見て返事をして欲しい」
「三ヶ月後、か。ちょうどクリスマスの頃ね」
「あぁ。そのときに、誕生日に送るメッセージの品で返事をしてくれないか」
「わかったわ。でも、そのメッセージの品でどうやって返事をすればいいの?」
「それは見てくれればきっとわかると思う」
 由梨恵はこくりうなずいて、一緒に東京タワーを見上げた。
「そろそろ行かなきゃ。バスに乗る時間だ」
 ふと時計を見ると、かなり時間が迫ってきている。そして地下鉄の駅へと足を向けた。
 地下鉄の駅では、残念ながら私と由梨恵は逆方向。改札口で別れることに。そのとき、由梨恵が最後に私にこう言ってくれた。
「居酒屋であなたに言わなければいけないことがあったの。私ね、私今フリー。でもね、私は何かに頼ってなければ生きていけないの。でも、それは誰でもいいってわけじゃない。そしてそれが誰だか、私もわかったの」
 このとき、由梨恵をギュッと抱きしめた。
「それ以上は言わなくていい。それ以上は。三ヶ月後には、おまえにふさわしい男になって戻ってくる。だからそれまで、それまで待っていてくれ」
 由梨恵は私の胸の中でこっくりうなずいた。
 こうして三ヶ月後の約束をした私たち二人。これからがスタート、これからが勝負。新たなる決意を胸に帰りのバスに乗り込んだ。
「そうですか。それはよかったですね」
 翌日、私は羽賀さんに報告をしに羽賀さんの事務所を訪れた。今日はミクさんもいる。
「笠井さん、なかなかやるじゃない。私もそんなロマンチックなシチュエーションで恋をしてみたいなぁ」
 ミクさんはお茶を出してくれたお盆を抱きかかえながら、私の話を聞いてその世界にはまりこんでいた。
「となると、これから三ヶ月間が勝負ですね。何か考えがありますか?」
「えぇ。羽賀さんと前に立てたあの紹介をお願いするプラン。あれを徹底的に進めていこうと思っています」
「では三ヶ月後にはどんな状態になっていれば、奥さんに納得してもらえると思いますか?」
 そういえば三ヶ月後を見てくれとは言ったものの、自分自身どうなっていればいいのかを全く考えていなかった。
「そうですね、仕事自体が安定していること。これが条件ですね」
「安定、というと収入ベースではどのくらい?」
 私の頭の中では計算機が回り始めた。そしてはじいた答えがこれだ。
「自営業になるからボーナスとかがないでしょう。前の収入までとはいかないにしても、利益としては三十万円くらいは欲しいですね」
「となると、売上はどのくらい?」
「う〜ん。パソコンの修理とかメンテナンスだったら仕入れがそれほどかからないから、利益率は高いです。それだけだったら六十万円もあれば。でもどう考えても今の状態だったら一日一万円がいいところだな」
「まずはこの計画をきちんと立ててみませんか? 目標となる数字やそのためにどの程度のものが必要になるかがわかれば、行動計画も立てやすいですから。良かったらお手伝いしますよ」
「はい、ありがとうございます」
 こうして羽賀さんとマンツーマンで収支計画、さらには三ヶ月間の行動計画を立てるコーチングがスタートした。
 話せば話すほど、自分のやろうとすることが明確になってくる。さらに気力も湧いてくる。よし、やるぞ、やってやるぞ。私の胸の中はその思いでいっぱいになっていた。
 そして今は十二月の半ば。由梨恵と約束をしてもうじき三ヶ月経つ。三ヶ月前、羽賀さんとあらためて行動計画を立て、羽賀さんの定期的な指導を受けながら事業を進めていった。
「はい、パソコンレスキューサービスの笠井です。はい、わかりました。今のところ本日の午後三時ならば大丈夫です。それでよろしいですか? ではその時間に。よろしくお願いします」
 私はスケジュール帳を開いて予定を記入。あらためて手帳を眺めてみる。
 今では朝の十時から夜中までスケジュールがほぼびっしり詰まっている。といっても、夜中のスケジュールはコンビニのアルバイトではあるが。そのアルバイトもいよいよ明日で終わりか。
 最初の一ヶ月目は顧客開拓。一度パソコンのメンテナンスにうかがったお客様に最低でも一人、その場でお客様を紹介して頂きその場で電話をして頂いた。
 人によっては二件、三件と紹介して頂き、アポを取ってすぐにうかがう。そして無料でパソコンの点検作業を行いながら、現在パソコンで困っていることを聞き出す。それをパソコンカルテにしてお客様に手渡す。
 するとかなりの確立で「この部分を修理してくれ」「アドバイスのようにグレードアップしてくれ」といった依頼がくるようになった。
 二ヶ月目の半ばからはほぼ毎日この仕事で時間をとられるようになり、今度はどうやったら効率よく仕事をこなせるか、というテーマでコーチングを受けることになった。
 そのおかげで、今まではお客様に言われたとおりの時間で行動していたのが、今度はこちらの都合で時間を決めて行動することに意識を置くようになった。
 そして三ヶ月目になると、スケジュール帳がほとんど全部の時間埋まるようになってきた。そのため、コンビニのアルバイトをやめさせて頂こうとオーナーに相談したところ
「年末に向けて笠井さんが抜けてしまうのはちょっと残念だなぁ。でもこれは喜ばしいことだ。こりゃ、今度お祝いの席をもうけなきゃな。わははは」
と、私の申し出を快く承諾してくれた。
 思えばこのオーナーが最初のお客様。ここからスタートして、今では顧客名簿としては三十名近くまで増えている。
 短期間でよくここまで事業を伸ばすことができたものだ。といっても、収入の方は思ったほど伸びてはいない。単価が安いのと、無料点検で時間を取られるのが多いためだ。目下の課題はここにある。
 早く家族と一緒に暮らすためには、ここを解決しなければならない。そんなことを考えているところに一本の電話が。
「笠井か、久しぶり。覚えてるか?」
「え、ひょっとして藤本さんですか?」
 その声を忘れてはいなかった。藤本さんは前の会社の三つ上の先輩。昔よくお世話になった方で、いつかは藤本さんのような人になりたいとあこがれていたものだ。確か東京に転勤している間に会社を辞めて、独立したと聞いていたが。
「藤本さん、よくここがわかりましたね」
「いやいや、かなり調べたぞ。おまえが会社を辞めたというのは聞いていたんだ。で、柏原におまえの居場所を聞いたら知らないっていうだろう」
 柏原のうそつき。由梨恵と一時期つき合っていたのだから、私のことくらいは聞いていたはずだ。
「でさ、なんとか家の電話番号を聞き出して奥さんと話したら、おまえ離婚したんだってな。でもまた復縁するそうじゃないか」
 由梨恵のヤツ、藤本さんにそんなふうに伝えているのか。
「それで奥さんからおまえの携帯番号を聞いて、ようやく今かけているってところなんだよ」
「それはご迷惑をおかけしました。で、今日は突然どうしたんですか?」
「今度な、新事業に進出しようと思っているんだがどうしても人手が足りなくて」
「人手、ですか」
「今な、どうしても信頼できる右腕が欲しいんだよ。気心の知れた人間で、オレにきちんと意見を言えるようなヤツが。イエスマンは欲しくない。そう考えたらおまえの顔が浮かんできてな。まだ会社を辞めて一年半くらいだろう。どこかに務めているとしても、引き抜きだったらまだ間に合うかなと思って」
 藤本さんの右腕か。思えば同じ職場で働いていたときに、私は藤本さんの右腕としてよく活動していた。右腕と言っても、意見するときにはきちんと意見をし、よく議論を戦わせたものだ。
「とにかく一度会って話がしたい。おまえ、今こっちにいるんだろう?」
「えぇ。といっても私も最近新しい事業を始めたばかりで。まだようやく食える段階といったところなんですが」
「ほう、そうだったのか。それじゃぁ難しいかな。ちなみにどんな事業を始めたんだい?」
「はい。パソコンレスキューサービスといって、パソコンの訪問メンテナンスと個別指導が中心です。小規模事業所や個人商店がお客様になりますけど」
「なにっ! それって笠井のところだったのか。なんとまぁ、運命の巡り合わせというのはあるものだな」
「え、どういう事ですか?」
「いやいや、今度新しく始めようと思ったのがそのサービスなんだよ。最近巷でうわさになっててな。やたら腕のいいヤツが低料金で丁寧なパソコンメンテナンスをしてくれるって。オレもそこに目をつけて、今のうちだったらこの分野に進出して事業を拡大できるんじゃないかって思ったんだよ。そのためにはこの事業をまかせられるヤツが必要でな」
 藤本さんはおかまいなしにしゃべり続けた。私に目をつけたのも、当時パソコンの知識が部内一だったこともあるそうだ。
 とにかく一度会おうということになり、お互いのスケジュールを合わせ、あさっての日曜日に会うことになった。
 さて、どうしたものか。このまま独自で今の事業を続けていくのがいいか、それとも藤本さんと一緒になって事業を拡大する方がいいのか。アルバイトの最終日、こんなことを考えながら仕事をしていた。
 こんなことを相談できるのは羽賀さんしかいない。藤本さんに会うのはあさっての日曜日。そうなると羽賀さんに相談するのは明日しかない。
 羽賀さんの都合はどうだろうか? しかし時間はすでに夜中。確認のしようがない。
「お父さん、大丈夫?」
 そんな思いの中、一組のお客様が来店。私は飲料の補充をするために裏に回っていたときだった。声の感じからすると、親子のようだ。
「すいません。ちょっとおトイレ貸していただけます?」
 そう言って親子はトイレの方へ。どうやら父親の方が酔っぱらって、今にも吐きそうな勢い。そこでトイレを借りに来たという感じらしい。私は飲料の補充を終え、レジの方へ。このとき、トイレから出てくる親子の顔を見てびっくり。
「あ、舞衣さん!」
「あら、笠井さん。あ、そうか。今日が最後のアルバイトだったわね」
 そうしていると、もう一人お客様が来店。
「舞衣さん、ひろしさん大丈夫ですか? まったくいい酒が入るとつい飲み過ぎちゃうんだから」
 そう言って入ってきたのは長身のメガネをかけた男性。羽賀さんである。
「これも運命のお導きか」
 直感的にそう思った。
「ひろしさん。ほら、しっかりして」
 羽賀さんがひろしさんを抱きかかえて、外に待たせてあるタクシーに乗せるために連れ出そうとしていた。
 どうやら羽賀さんは舞衣さん親子とまた飲みに出かけたようだ。そこで舞衣さんのお父さんのひろしさんが飲み過ぎてしまった。そんなところだろう。
「笠井さん、ご迷惑をおかけしました」
「あ、羽賀さん……」
 私は羽賀さんを呼び止めた。ここで約束を取り付けておかないと。
「はい。何でしょうか?」
「あの……羽賀さん。明日少しお時間とれないでしょうか?」
「明日ですか……えっと、明日って今日のことでいいんですよね?」
 そうか。日付はもう変わっていたのだ。だから正確に言うと今日になる。
「えぇ。そうです。今日の……」
 と言いかけて慌てた。今日の午後は一件約束が入っていたのだ。となると昼の時間はやばい。夜は大丈夫だろうか?
「今日の夜はどうですか?」
「夜だったら大丈夫ですよ。そうか。笠井さんは今日でコンビニのお仕事終わりでしたね」
「はい。だから今日からは夜時間を取ることができます。何時くらいだったら大丈夫ですか?」
「そうですね……そうだ、晩ご飯一緒にどうですか? 夜の七時くらいから」
「はい、喜んで。ではよろしくお願いします。」
 私は羽賀さんと会う約束ができたので一安心。しかし、その後もう一人のバイトの叫び声でそうもいかなくなった。
「笠井さ〜ん、これ見て下さいよぉ〜」
 彼の声で行った先はトイレ。そこにはゲロにまみれたトイレットペーパーや掃除道具が並んでいた。
「ひろしさん……勘弁してよ……」
 まぁこれも最後のお勤めだ。そう思って私は力を込めてトイレの掃除に取りかかった。
「……ということなんですよ。一体どうしたらいいでしょうか」
 ここは羽賀さんの事務所。私は約束の七時より十分ほど早く到着。早速こちらの話を切り出した。
「笠井さん、なんかトントン拍子に話がすすんでるじゃない。すごい!」
 そう言ってくれたのはミクさん。作業の手を休めて、私の話を羽賀さんと一緒に聞いてくれていた。
「ボクもそう思いますよ。なにしろここ三ヵ月間の笠井さんの頑張りは目を見張るものがありますからね」
「それで明日の昼に藤本さんと会う約束をしているのですが。私は今のまま自分で進んでいった方がいいのか。それとも藤本さんと一緒に事業を展開していった方がいいのか。それがわからなくて」
「何言ってんのよ。今のままだと奥さんを迎えるだけの準備ができていなかったんでしょ。それが藤本さんと組めば一気にそこが解決するじゃない」
 ミクさんはあきれた顔で私にそう言った。確かに、普通に考えればそれが一番の結論になるとは思うのだが。今ひとつそこに踏み切れない何かが私の中にある。
「まぁまぁ。そうだ、そろそろご飯の準備ができているんじゃないかな?」
 え、ご飯の準備? そういえば今日は羽賀さんと食事をする約束だったな。でもどこかに食べに行くんじゃないのか?
 そう思っていたらドアをノックする音が。
「羽賀さん、準備できたよ。上にどうぞ」
 入ってきたのは舞衣さん。
「笠井さん、じゃぁ行きましょうか。ミクも行くよ」
「はぁい」
 羽賀さんはそう言ってビルの四階に連れて行ってくれた。そこは舞衣さん親子の住まい。勧められるままに部屋に入ると、目に入ったのはコタツの上の鍋。
「さっきまで私も仕事だったから、一番簡単に準備できるものにしたわ。それに寒い日にはやっぱり鍋でしょ」
 舞衣さんはそう言って、卓上コンロに火をつけた。
「ミク、冷蔵庫からビールを出してきてくれない。あ、笠井さんはビールでよかったかしら?」
「あ、はい」
 いつ以来だろう。鍋料理をこうやって家族の香りのする空間で鍋を囲むなんて。そして四人で談笑しながら鍋料理に舌鼓を打った。
「いやぁ、食べた食べた。笠井さん、満足されましたか?」
 食事も一息ついて、羽賀さんがそう聞いてきた。
「あ、はい。おかげさまで久しぶりにこんなあたたかい雰囲気で食事をすることができましたよ」
「笠井さん、この雰囲気って好きですか?」
「えぇ。ぜひとも家族を早く取り戻して、この雰囲気で食事をしてみたいですね」
「だったら、笠井さんはどんなことをしなきゃいけないんでしょうね?」
「そりゃ、早く収入を安定させないと。そのためには今の仕事をもっと効率的にして、高収入を得られるように単価も上げていかないと」
「そのために、今笠井さんに足りないものってなんでしょうか?」
「足りないもの、そうですね。一緒に仕事を進めてくれる仲間でしょうか。おかげさまで毎日それなりの仕事は増えてきましたけれど、一人でこなせる量じゃなくなってきました。だからもっと役割分担して私にしかできない仕事に焦点を絞りたいですね。そのためには志を一緒にしてくれる仲間が必要です」
「その仲間って、誰かあてがありますか?」
 このとき、私の頭にはすぐに一人の男が浮かんだ。藤本さんである。
「やはり先輩の藤本さんですね。彼に経営的なところをまかせて、私は技術的なことに専念する。こうすればお互いに良い効果を導き出せるんじゃないでしょうか」
 言いながら、なるほど、そうだよなと納得していた。
「確か明日、藤本さんにお会いするんでしたよね? だったら藤本さんに何をお伝えしますか?」
「何を……やはり条件ですね。一緒にやるとしても、私のやりたいことの方向性を変えないこと。営利も必要ですが、それ以上に今お困りの方へのサービスを充実させることを目的としたいです。そこを理解して頂かない限りは、藤本さんとは一緒にやれませんね」
「では、藤本さんといい関係で仕事を進めることができて、さらに今後の発展性も見込めるとしたら、笠井さんはどうしますか?」
「その見込みがあるようならば、真っ先にやることがあります。それは由梨恵へ再度正式にプロポーズすることです。そして家族を取り戻し、この地で一緒に暮らしていくこと。これしか考えられません」
 私は力強く羽賀さんにそう伝えた。
「なぁんだ。ちゃんと答えは出てるじゃない。笠井さん」
 台所の方からそう声が聞こえた。ミクさんである。
 ミクさんに言われてそのことに気づいた。そうか。羽賀さんは私にそれを決断させたくて、この家庭的な雰囲気を演出したのか。今日羽賀さんと話す直前まで目的を見失うところだった。
 何のために事業を行い、何のためにそれを成功させようとしているのか。すべては家族と一緒に幸せな生活を送るため。そのことを思い出させてくれた。
「もう、迷いは無いようですね。笠井さん、応援してますよ」
「はいっ、頑張ります!」
 私の決意は固い。もう迷わない。まずは藤本さんへ自分の事業の思いを伝え、その上で理解を得ることができれば収入の約束を取る。そしてクリスマスイブには由梨恵へ再プロポーズ。
 頭の中の光景は、すでにクリスマスイブの夜。よし、絶対につかんでやる。この手で幸せをつかんでやる。
 気がつくと私は拳を力強く握っていた。
 そして翌日、私の目の前には藤本さんがいる。
「でよ、どうしてもおまえがやっているその事業でこちらも進めたいんだよ。な、協力してくれよ」
 藤本さんはどうして私のような者に頭をペコペコ下げているのだろうか。先輩として一緒に仕事をしていた頃は、上司に対しても強い態度で堂々と立ち向かっていた。そのかっこいい姿を見て、私はいつかはそうなりたいとあこがれていたのに。今の藤本さんにはその姿を見ることはできない。
「藤本さん、しばらく見ない間に変わりましたね」
 いかん、藤本さんを怒らせたかもしれない。しかし藤本さんはこう答えてくれた。
「そうか、やっぱそう見えるか。いやいや、オレもそう思っていたんだよ」
 えっ、どういう事だ? あっけにとられている顔をしていたからなのか、藤本さんは笑いながら言葉を続けてくれた。
「いやぁ、オレも独立してからいろいろと学んだよ。最初はさ、オレの持ち味である強気な商売をやっていたんだ。オレにだってプライドがあるからな。でもそれで打ちのめされたよ。いかにオレが傲慢な態度を取っていたかってことがね」
 藤本さんはコーヒーを一口。その目を見ると、さっきまでとは違った印象を受けた。
 私に対してペコペコ頭を下げていたときには、ちょっと情けないという印象を持っていたが、よく見るとそうではない。優しいまなざしの中にも一点を貫く鋭さがある。
 藤本さんは話を続けてくれた。
「あるとき、この地域でも有名なお菓子屋さんの社長さんと話す機会があったんだ。そのときに言われたよ。『君はまだ若くてとても自信家のようだね。でもそこからは心を動かされるものを何も感じないよ』って。そのときはこのおっさん何を言っているんだ、って思ったけど。でもこの社長さんと話をしていてすぐにわかったよ」
「何がですか?」
「この社長がとにかくマメなんだよ。お客様と目が合うと、きちんとお礼の言葉を伝えたりして、とにかく丁寧なんだ」
 そりゃ客商売だから、それだけ丁寧になるのはあたりまえだろう。そう思ったが、藤本さんが受けた印象は少し違ったようだ。
「この社長さん、少しも偉ぶるところが無くてね。一人ひとりに、丁寧に『ありがとうございます』って声をかけるんだ。小さい子どもにまでね。そしたらお客さんは『また来ますねー』って言う人がほとんど。社交辞令かと思ったけれど、お客さんの多くは『また買いに来たよー』って言ってくれるんだ。つまりこのお店は商品よりも社長の人柄と、そこからかもし出されるお店の雰囲気が人気の秘訣なんだって思ったよ」
 藤本さんが言っている事は何となくわかるが、それと藤本さんがペコペコするのとはちょっと違うんじゃないかな。その思いを見透かしたように藤本さんが言葉を続けた。
「笠井、ここからが肝心なんだ。オレがそこで気づいたこと、そしてあの頃のオレに足りないものはなんだと思うか?」
「なんだと思うって、一体何なのですか?」
「あのころのオレに足りなかったもの。それは『感謝の心』だよ。感謝の心が大事だってのは頭ではわかっていたけど、まだそれが行動に出ていなかったんだ。だから人の心を動かすことができなかったんだよ。でもあの社長はお客様一人ひとりに感謝の心を伝えていた。そこまで徹底されたら心を動かされないわけないよな。それからオレも考え方を変えたよ。パソコンのリサイクルショップがスタートだったんだけど、ちょうど他にも古本や古着、家電のリサイクルを始めた頃でね。ここでは徹底して『ありがとう』戦略を活用したんだ。バイト生にも徹底してそれを仕込んでね。そしたらなんと売上がどんどん伸びていったんだよ」
 藤本さんの熱弁ぶりから見ると、その効果は間違いなさそうだ。
「そして気づいたら、オレも自然と目の前の相手に対してありがとうを言えるようになったよ。さらにどんなことも自分にとっては勉強の要素なんだと思えるようになってね。今回こうやって再び会えたのも、笠井にはとても感謝している。本当にありがとう」
 そういって藤本さんは何度も何度も頭を下げた。そこからは嫌みは感じられない。逆に心がほんわかしてくる。
「藤本さん、わかりました。私としても今の状況を打破してさらに事業を伸ばして行くには、藤本さんのような方と手を組むのがいいとは思っています。でもあくまでもビジネスですから。条件を出させてもらってもよろしいでしょうか?」
 やっと私が口を開く番になった。前日羽賀さんのところで口にした自分の理念「利益も大事だが、今困っている人のために仕事をしたい」ということを伝えた。
 藤本さんは黙って私の言葉を受け入れてくれた。そのせいか、私はつい今の自分の状況まで話をしてしまった。
 事故を起こし、仕事を辞めて離婚し、ここに戻ってきたこと。そしてもう一度やり直したくて今の事業を始めようと思ったこと。さらにもう一度家族を取り戻そうとしていること。
「笠井、約束するよ。おまえのその思いはきちんと受け継がせてもらう。さらに奥さんと子どもを取り戻すためにも、金銭面では協力させてもらう。その代わり、オレと一緒に未来をつくることを約束してくれないか」
 藤本さんのその言葉にいたく感動してしまった。この人となら一緒にやっていけそうだ。気が付くと私は藤本さんと両手で固い握手を交わしていた。
 よし、これで条件は整った。安心してクリスマスイブの日に由梨恵を迎えにいくことができる。
 だが、安心している私の前に最後の難関が控えていたとは。
「はい、笠井です。あ、なんだ母さんか」
 明日、由梨恵へのプロポーズのために東京へ出かける前の日の夜中、ふいに携帯電話が鳴った。声の主は私の母。だがその声は震えていた。
「慎一郎……お父さんが……お父さんが……」
 母の言葉は続くことがなく泣き声が聞こえる。私はすぐに悟った。どうやら父にただならぬことが起きたのだと。
「とにかく今からすぐにそっちに行く」
 そう言って電話を切り、急いで自転車を実家へと飛ばした。
 実家まではすぐそこの距離。母から電話を受けてから五分と経たずに到着することができた。
「母さん、どうしたんだ!?」
 私が実家に飛び込んで目にしたもの。それはおろおろしている母の姿。そしてその向こうには……
「と、父さんっ!」
 顔色を青くして、倒れている父の姿。
「救急車、救急車は呼んだのか?」
 母にそう尋ねると、首を横に振る。やばい。こういった事態は時間との勝負だと聞いている。急いで119番へ電話。そして再び父の状態を見る。だが私には何もすることができない。今は救急車の到着を待つしかない。
 くそっ、これから幸せを掴みにいこうというところなのに。どうしてこんなことが起きてしまうのだ。神様、あなたは一体私に何をさせようというのですか?
 市民病院。父は救急車でここへ運ばれた。夜中ということもあり、廊下はとても静か。私と母、そして目の前には父を診てくれた医者がいるのみ。
「今のところ命には問題ありません。しかし……」
「しかしって……何か問題があるのですか?」
 私は医者に食い入るように質問した。
「まだ意識が戻ってみないと何とも言えませんが、ひょっとしたら後遺症が残る可能性もあります」
「後遺症って……どんな?」
「どうやら脳梗塞の可能性があります。下手をすると手足に不自由が出たり、場合によっては言語障害や記憶障害の危険性も……いずれにせよ、明日精密検査をしてみますが。あとは本人の意識が戻ってからの検査次第でしょう」
 医者はそう言って、軽く礼をしてから医局へ戻っていった。
 まさか、父がそんなことになるとは。私はどうすればいいのだろうか。横のソファーでは、母がうつむいて目頭をハンカチで押さえている。
「母さん、このままここにいても仕方がない。一回家に帰って父さんの入院の準備をやってからまた明日こよう。父さんもすぐに目を覚ますようでもなさそうだし」
 母を促すように立たせ、なんとかタクシーに乗り込ませた。
 しかし困った。明日はクリスマスイブ。由梨恵に再度プロポーズをしに行く予定なのに。この状況で母を一人残して東京に出るわけにはいかない。
 由梨恵にこのことを言おうか。いや、今父のことを言ってしまうと余計な心配をかけてしまう。どうすればいい、どうすれば……。
 明けて翌日。私と母は朝から再び病院へ。父はまだ目覚めていない。
 昨晩は気落ちしていた母も、入院手続きや準備でしっかりと動き回っている。おそらく動き回らないと気が紛れないのだろう。じっとしているとふさぎ込んでしまうのは母の特徴である。
 私は特に何もすることがないため、父が眠っているベッドの横で一人父の様子を見ているしかなかった。
 父の顔をこんなにまじまじと見るのはいつ以来だろうか。よく見ると年相応の髪の毛になっている。いつの間にこんなに髪が少なくなっていたのだろう。それに白髪も多い。
 顔つきも少しふっくらしていた父の記憶があったのだが、今では頬もこけている。目尻のしわの数も多い。
 人は歳を取ると、誰でもこうなってしまうのだろうか。いや、こうなってしまうほど父にも苦労をかけたんだよな。
 特に私が離婚してここに戻ってきたときには、顔ではにこやかではあったが内心はとても心配をかけてしまったと思う。あれだけ孫の海斗と明日香の顔を見るのが楽しみだったのに。それを私の都合で奪ってしまったのだから。
「父さん……ごめんよ。自分がふがいないから、心配がたたってしまったんだよね。ホントにごめん……」
 父の姿を見て、自分がやってきたことへの反省の思いがこみ上げてきた。
「自分がもっとしっかりとした意志を持っていれば、由梨恵と離婚することもなかったし、海斗や明日香とも別れることはなかったんだよ。孫と遊ぶのは父さんの楽しみだったんだよね。それを奪ってしまってごめん……」
 ピクリともしない父の右手を取り、それを両手で包み込んだ。
「でもね、もうちょっとしたら海斗も明日香も、そして由梨恵も戻ってくるんだよ。また前みたいに一緒に笑って暮らせる日がくるんだよ。オレね、もう一度由梨恵にプロポーズするんだ。自分の事業で家族を養えるだけの目処がついたんだよ。ほら藤本先輩、知ってるでしょ。前に会社で一緒だった。あの人と一緒に事業をすることにしたんだ」
 父の目を見る。が、何も反応はない。しかしそんなことには構わずに、自分の思いを語り続けた。
「本当ならね、クリスマスイブの今日、もう一度由梨恵にプロポーズすることにしていたんだ。由梨恵の思いも確認している。プロポーズすれば、由梨恵も戻ってきてくれると思うんだ。そしたらまた元のようになって、父さんのところにいつでも遊びに来れるようになるのに……」
 気が付くと、父の手には二つの水たまりができていた。その水たまりをつくったのは私。
 父の手をギュッと握りしめ、私は何度も何度も父に謝った。もっと私がしっかりしていれば。家族を手放すことがなければ。父にこんなに迷惑をかけなかったはずだ。
 命に別状がないとしても、後遺症が残るのであれば日常生活に支障が出るのは間違いない。そんな姿の父を見るのもつらいし、その父を抱えながら生活をしていく母を見るのもつらい。
 どうすればいいのだ。肩をがっくりと落とし、顔を上げることもできない。
「由梨恵……海斗……明日香……ごめんな。父さん、まだおまえたちを迎えにいくことができないよ。もう少し、もう少し待っててくれないか……」
 私がそうつぶやいたときに、父の手がピクリと動いた。
「と、父さんっ!」
 しかし、父の目は開くことはなかった。意識が戻ったのかと思ったのだが……痙攣か何かだったのだろうか。
 ふたたび目をつぶって、今後のことを考えようとしたそのときであった。
「ば……ばかもん……はやくいってやらんか……」
 えっ、たっ、確かに聞こえた。父の声だ。
 私は目をパッと開け父の姿を見る。だが動いた気配はない。空耳だったのだろうか?
 父の顔をのぞき込んだそのとき、再び声が聞こえた。
「いつまでわしにしんぱいかけるつもりだ……はやくいってやらんか……」
 父は薄っすらと目を開けて、私の方を向いてたどたどしく言葉を発していた。
「父さんっ、意識が戻ったんだね」
 あわててナースコールを押した。ほどなくして医者と看護婦が病室に駆け込む。その後から母もついてきている。
 医者は父の様子を見ながら、質問をしたりして状態を確認した。と、そのとき医者が私を呼んだ。
「お父さんがあなたにお話しがあるということです」
 父のそばに行って、聞き耳をたてるように顔を近づけた。
「はやく……由梨恵さんの……ところに……いってやれ……はやく……」
 まだ片言ではあるが、はっきりとそう聞こえた。私は時計を見る。予定していたバスには残念ながら間に合わないが、新幹線を使えばまだ約束の時間には間に合う。
「父さんは、父さんは大丈夫なのですか?」
 私は医者にそう尋ねた。
「身体の障害については精密検査をしなければいけませんが、とりあえず言語や記憶については問題ないかと思われます。私の問いにしっかりと受け答えしてくれましたから」
 どうする。私は母の方を見た。母は何が起こっているのかは理解していないはずなのに
「父さんの言うとおりにしてあげなさい」
とだけ言ってくれた。
 私は父と母、二人を交互に見て、意を決した形で大きく首を縦に振った。
「父さん、母さん、行ってきます!」
 そう言って病室を飛び出した。今なら間に合う。まだ間に合う。由梨恵のところに。海斗と明日香のところに。
 一旦家に帰り、まとめてあった荷物を手にして自転車で急いで駅へ向かう。この時間ならば、由梨恵と約束をした午後七時に、東京タワーのふもとの公園へたどりつける。
 ペダルをこぐ足は、さらに速まる。とどけ、私の思い。とどけ、父の願い。とどけ、みんなの幸せへ。頭の中で何度も何度もその言葉を繰り返しながら、私はペダルをこいだ。
 時刻表を見ると、東京に到着するのは午後六時十三分。そこから山手線に乗り換えて浜松町へ。約束の時間には間に合うか。
 新幹線の中、私はイライラを抑えるように窓の外に目をやった。が、目の中に映るものは外の景色ではなくこの後に控えてる由梨恵へのプロポーズのシーン。そこで何と言ってプロポーズをすればいいのだろうか。その言葉がなかなか出てこない。
 くそっ。せっかく父が与えてくれたチャンス。ここを自分の手で勝ち取らなくて、何が幸せだ。幸せとは降って湧いてくるものではない。自分がそうなりたいと思った姿を自分の手で成し遂げること。これが私の成功だ。
 そうか、羽賀さんが言っていた成幸とはこのことなのか。
 仕事を自分の手でつくり出し、家族を自分の手で取り戻し、心と形の両方の面でなりたい姿を自分で獲得する。この両方がそろって初めて「成幸」というのか。ならばその成幸を自分の手でつかみ取ろうじゃないか。
 気がつくと新幹線は東京駅のホームにすべり込んでいた。
 乗り換えのため、駆け足で新幹線のホームを駆け下りようとした。だが今日はクリスマスイブ。どこから人が湧いて出てきたのか、というくらい人の壁が私の行く手を遮る。
 大丈夫、まだ時間はある。が、人の壁は思うように前に進まない。一体どうしたのだ? その理由は聞こえてきた駅のアナウンスでわかった。
「ただいま山手線内において人身事故が発生いたしました。皆様には大変ご迷惑をおかけしますが……」
 おいおい。クリスマスイブのこんな日に、しかも人が一番動くこの時間に。このままではダメだ。とうてい間に合わない。さて、どうする。
 ふと見ると、都内の路線図が目に入った。地下鉄ならなんとかなるかもしれない。路線図に近寄り、東京タワーの近くに行く地下鉄を探した。
「浜松町付近だと、大門か赤羽橋、もしくは芝公園か……」
 だが、東京駅というのは意外に不便なもの。ここからこれらの駅に直接向かう地下鉄はない。
「くそっ、乗り換えていたら時間がなくなる。仕方ない、タクシーを使うか」
 駅を出て、すでに暗くなった東京駅の外へ足を向けた。そしてタクシー乗り場について見た光景。それは……
「うわっ、人がこれだけ並んでいるのか!」
 人身事故による山手線の運転停止のため、慌ててタクシーに乗り換えた人が山のように並んでいる。順番が来るまで、とてもじゃないが待つことはできない。しかも道路に目をやると、そこは車の海。渋滞でとても前に進むとも思えない。
「どうする。一体どうする……」
 時計に目をやる。すでに時間は六時半。約束の時間まであと三十分。
「ここから芝公園まで、およそ三キロ。ジョギングのスピードがおよそ七、八キロとすれば十分間に合う!」
 瞬時にその計算を行い、気がつくと走り出していた。
 本当に間に合うのか? いや、間に合うか、ではなく間に合わせるのだ。成幸をつかむために、由梨恵を、そして家族を取り戻すために。
 いつしか私の足は力強く地面を蹴っていた。時計を見る。あと十分で約束の午後七時。
 今はどの当たりを走っているのか? そしてあとどのくらい走ればいいのか?
 大丈夫だ、心配ない。このまま走り続けるんだ。自分に言い聞かせながら、とにかく足を動かし続けた。
 そして目の前には緑の公園が。約束の芝公園がやっと見えてきた。この交差点を渡れば、あそこには由梨恵が待っている。
 時計はあと三分で七時。これなら間に合うぞ、と思ったときに、神様は私に最後の試練を与えた。
キキーッ、ドンッ
 なんと、私が今まさに渡ろうとしている交差点で、車同士の衝突事故。
 このとき、私の頭の中ではあの光景が思い出された。私が事故を起こし、そして人を殺めてしまったあの事故。
 このまま無視して立ち去ることもできる。が、私は反射的に事故現場に駆け出してしまった。
「大丈夫ですかっ!」
 ぶつかった方の車はエアバックが開き、幸いにして運転手は無事。しかし問題なのはもう一台。衝突された助手席には女性が乗っていた。
 やばい、これはやばいぞ。私は携帯電話を取り出し、急いで119番へ。
「大丈夫ですか、おい、大丈夫ですか!」
 徐々に人も寄ってくる。車は助手席にめり込むように突っ込んでいる。そのため助けようにも助けられない。運転席の男性はなんとか意識はあるようだ。
「ちくしょう。なんとかならないのかよっ!」
 このとき、見回すと交差点の真ん中にであるにもかかわらず、人が大勢集まってきたのを目にした。そうだ、この手しかない。
「すいません! 皆さん協力して下さい。この車を、この車をなんとかずらしてこの人を助けやすくして下さい。おねがいします!」
 私の叫びに、最初は躊躇していた野次馬。しかし二人の若者が
「よし、やるぞ」
と名乗りを上げてくれたのをきっかけに、大勢の人が車を移動する手伝いをしてくれた。
「わっせ、わっせ。もうちょっとだ。がんばれ!」
 私も力を込めて車を動かす。そうしていると救急車が到着。
 助手席側のドアがめり込んでいて、残念ながら女性を動かすことはできない。救急車はとりあえず意識を失っている男性を運び出した。無線でレスキューの応援を要請している声が聞こえた。
 どうやらドアが足に挟まり、女性を引っ張り出すことができないようだ。
 ここからはプロにまかせるしかない。周りに集まった、車を一緒に動かしてくれた協力者達は、ただこの事態を見守るしかなかった。
 しばらく呆然と事の成り行きを見ていたとき、重要なことを思い出した。
「やばいっ、今何時だ?」
 慌てて携帯の時計を見る私。気がつくと七時半をまわったところ。
「こうしていられない。急いでいかなきゃ!」
 私は慌ててかけだした。そう、由梨恵と待ち合わせをしている、東京タワーが見えるあの場所へ。
 しかし私を待っていたのは、無情にも一本の街灯のみ。
「ちくしょう……何の連絡もしないで遅れたから……あきれて帰ってしまったのか……」
 全身の力が抜けてしまった。何のために必死になってここまで走ってきたのか。走ってきたのは東京駅からだけのことではない。この三ヶ月間、由梨恵との約束を果たすためにどれだけ仕事のことで走ってきたのか。
 それを、さっきの事故を目の当たりにしたばっかりに。
「バカだよなぁ。本当にオレってばかだよなぁ……でも、あの事故を見過ごすことはオレにはできないよ……ホント、オレってばかだよなぁ……」
 私は街灯に頭を押しつけ、下を向いて何度も何度もそうつぶやいた。気がつくと目からは多くの涙が。
「ほんと、あなたってバカなんだから」
 えっ。
 私はその声に思わず振り返った。そして、そこにはにこやかに笑う由梨恵の姿が。
「由梨恵……おまえ、どうして……」
「大きな音がしたから、私も気になって。あなたが遅いから、もしかして巻き込まれたんじゃないかって気が気じゃなかったわ。あわてて音がした方に駆けていったら、あなたが一生懸命叫んでるじゃない。そして周りの人といっしょになって車を動かしてさ。もう、感動しちゃったわよ」
 そう言う由梨恵の目にも、うっすらと涙が。
「まったく。遅れるなら電話の一本でもよこせばよかったのに」
「はは、そうだよな。オレもばかだなぁ。どうしてそんなことに気づかなかったんだろう。ははは……」
 私と由梨恵は、顔を見合わせて二人で笑っていた。
 一息ついて、私と由梨恵は近くのベンチへ。
「由梨恵、待たせて済まなかった。やっと君にちゃんとした姿を見せることができるよ」
 そう言って、私はこの三ヶ月間にあったことを話した。
 羽賀さんに助けられ、仕事を伸ばしていき、そして藤本さんに出会い一緒に仕事を進めるようになったこと。
 ひととおり話をして、私は立ち上がった。そして由梨恵にも立つように促し、そして正面を向いてしっかりと由梨恵の目を見る。
 心臓は今にも飛び出しそうなくらいドキドキしている。なかなか次の一言が出てこない。だがここで言わなければ男ではない。
 一度、大きな深呼吸をして、あらためて由梨恵の目を見る。そして
「由梨恵。こんな自分だけど、もう一度やり直してくれないか。もう一度結婚して欲しい」
 これが精一杯。由梨恵は私の言葉を受けると、そのまま下を向いてしまった。
「由梨恵……」
 もしかしたらダメなのか? やはり由梨恵は東京を離れることはできないのか?
 しばらくの沈黙。そして由梨恵はゆっくりと顔を上げて、私にこういった。
「まったく、この人ったら相変わらず鈍感なんだから」
「えっ!?」
 そう言って由梨恵はゆっくりと左手を私の目の前に差し出した。
 その左手の薬指に光るもの。それは三ヶ月ほど前に誕生日にプレゼントしたあの指輪だ。
「あなた言ったじゃない。誕生日のプレゼントで返事をして欲しいって。だからずっと私は返事をしていたつもりだったのに」
 由梨恵はちょっとすねた態度で私にそう言った。そうだった。うっかりしていた。
「由梨恵……」
 私は由梨恵を思いっきり抱きしめた。
「もう……もう二度と離さない。由梨恵も、海斗も、明日香も。絶対に、絶対に離さない。必ず幸せにする……」
 私は由梨恵と見つめ合い、そして静かに唇を重ねた。
 こうして私は自分の手で成幸をつかみ取ることができた。

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