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コーチ物語 〜幸せの歩き方〜 第二章 歩き始めることとは

 朝六時十五分。目覚ましがけたたましく鳴る。実家からもらった、昔ながらのベルがじりりりりと音がするタイプだ。
 この時間に起きたのはいつ以来だろうか。いつもは起きるとすでに日も高く、世の中はすでに活気づき始めたところ。けれど、今日からその生活もおさらばだ。
 三日ほど前にハローワークで偶然出会った高校時代の同級生、田崎からの紹介で就職することができた。そして今日はその初日。
「さて、準備するか」
 見回すと殺風景な部屋。私が寝ている部屋には、少し時代遅れのデスクトップのパソコンが一台。そして私が寝ていた、ぺしゃんこになった布団が一組。
「食べるものはあったかな」
 冷蔵庫を開けると、ハムとチーズ、それにリンゴが二つ。私はリンゴを一つ取りだし、流しでざっと洗うと近くにあったタオルでそれを拭く。そしてがりっとひとかじり。
 ハムとチーズを一切れずつ取りだし、口に放る。そしてまたリンゴをひとかじり。口の中でじわっと甘い汁がにじみわたる。
 リンゴを芯までほおばると、次は着替え。昨日の夜準備をしておいたワイシャツとスーツ。これに身を包む。
 スーツなんていつ以来だろうか。前の仕事は技術職だったため、出勤するとすぐに作業着に着替えていた。また通勤も普段着だったため、スーツは出張の時くらいしか着ることがなかった。
 KAWASAKI・WEB工房。これが今日から私が勤める会社。主にインターネットのホームページ作成と保守を行っているところらしい。
 らしい、と言ったのは、実は会社に赴くのは今日が始めてだから。会社の面接も、田崎経由で電話を取り次いでもらい、その電話だけで
「とにかくあさってから来てくれ。あんただったら大丈夫だ」
と言われたから。なんていい加減な採用方法だ。だが後から田崎に聞いたところ、先方はかなりせっぱ詰まっているとか。とにかく人手が足りなくて困っているということだ。
「ま、そんなに悪い人じゃないし、小さな会社だけど今結構仕事が入ってきているらしいから。よろしく頼むよ」
 これが田崎からのコメント。就職することに関して、あれだけ悩んでいたのがバカみたいにあっさりとしている。何はともあれ、新しい職場に向けて出発。
 だがここで問題が一つあった。私は車を使うことができない状態。勤め先は隣の市。車でも三十分近くかかる。そのため電車で通うしかない。が、私の家から駅までは約二キロ。そして勤め先は駅から約三キロ。バスも通っていない。
 先日、羽賀さんに就職の件を相談したときにこの件もついでに相談。
「笠井さん、車に変わる交通機関って何を持っていますか?」
「車に代わるって……羽賀さんと同じく自転車しか持っていないです。でも、私の家から駅までは自転車を使うとしても、隣の市の駅から勤め先まではどうやって移動すればいいのか。どうしたらいいと思いますか?」
 私の質問に羽賀さんはちょっと困った顔。この問題さえなんとかなれば、この会社に勤めることは解決するのだが。
「あ、そうだ!」
 羽賀さんが何かひらめいたようだ。
「笠井さん、笠井さんの自転車って折りたたみ式でしたよね」
「え、えぇ。折りたたみといっても、一度も折りたたんだことはありませんが。それが何か?」
「もう一台どこからか自転車を調達することはできませんか? どんなものでもいいですから」
 そう言われて私は頭を駆けめぐらせた。
「あ、そういえば私が昔使っていた自転車が実家にあります。でもあれ使えるかなぁ」
 このとき、私は羽賀さんの顔つきが少し変化したことに気付いた。さっきまではどちらかというとまじめな、いかにも「コンサルタント」というような表情。だが、今はやんちゃ坊主のガキ大将といった顔つき。
 そして羽賀さんからこんな提案が。
「笠井さん、その自転車一度見せてくれませんか? で、もしよければちょっといじらせて下さい」
 羽賀さんが自転車好きなのは私もよく知っている。どうやら自転車となると目の色が変わる性格らしい。
 私は二つ返事でOK。でも自転車が二台になっても、隣の市の駅から勤め先までどうやって移動すればいいんだろうか。
 これについて羽賀さんはこう説明してくれた。
「笠井さんの折りたたみ自転車。あれを隣の市の駅に置いておきましょう。折りたたんで輪行バッグに入れておけば電車で移動できますよ。輪行バッグはボクが持っていますからお貸しします。これならどうですか?」
 なるほど、それなら問題も解決しそうだ。私は羽賀さんからの申し出に応えることにした。
 そしてその翌日、羽賀さんは自転車の工具一式をリュックにからって早速私の実家へ。そして古ぼけた私の自転車を見事に蘇らせてくれた。
「ではこれでお勤めできますね」
 私は羽賀さんのその言葉に、元気よく「ハイ」と応えることができた。そして今日の日を迎えることになったのだ。
「今日は向こうの駅に自転車を置くから、行きはこの自転車で行って、帰りは歩きだな。ま、二キロくらいだからのんびりと帰るか」
 私の心にも余裕が出てきた。ちょっと前だったら二キロも歩くなんてめんどくさくてやらなかっただろう。だが、今日はなんとなく歩いて帰ってみたい。そんな気分になっていた。
 駅に着き、羽賀さんに教わったとおり自転車を折りたたみ輪行バッグへ。ちょっと重たいが、これで歩き回るわけではないので大丈夫だろう。
 そうして目的の駅に到着。自転車を抱え、人の波がおさまったのを見計らって階段を上っていく。一歩一歩、力強く足を踏み出す。これが自分の足で歩くことなんだ。そんな思いをかみしめるように。
 改札を出て自転車を組み立てる。輪行バッグをたたむと、からってきたリュックにしまい、いざ出発。
 今から始まる新たな仕事、そして新たな職場。そこに期待をよせながら私はペダルをこぎ出した。
「ここか。新しい職場は」
 住宅街の中に、大きく「KAWASAKI・WEB工房」と書かれた看板。だがそこはとうていオフィスと呼べるものではなく、どうみても普通の家。どうやら自宅の一室をオフィスとして使っているようだ。
「おはようございまーす」
 玄関の呼び鈴を押し、大きな声であいさつ。すると奥から「開いてるよ」という声。どうやら入ってこい、ということのようだ。
 その声の導き通りに玄関に足を踏み入れた。玄関横の部屋がオフィスになっている。そのドアをノックし「失礼します」と声をかけてその部屋に入った。だが声の主は私の後からやってきた。
「君か、今度ウチに来てくれるのは」
 声の主の男性はまだパジャマ姿。目もトロンとして寝ぼけ眼。無精ひげと寝癖が目に付く。その後からもう一人、ちょっと気の強そうな女性が顔を出した。
「あんた、もう仕事の時間でしょうがっ。いくら自宅だからってそんな格好で人前に出るんじゃないのっ。あら、あなたが今度来てくれる方ね」
「あ、はい。笠井といいます。宜しくお願いします」
 どうやら男性の方はこのKAWASAKI・WAB工房の社長。そして女性の方はその奥さんのようだ。
「すいませんねぇ。とりあえずそっちの部屋に入って待ってて。徹ちゃんがいるはずだから」
 そう言われて部屋の奥に目を通すと、パソコンデスクの前でうつぶせになって寝ている男性を発見。どうやらこの人はまだ寝ているようだ。
「徹ちゃん、ほら、朝だよ」
 奥さんは徹ちゃんと言われる男性を起こしにかかった。
「ほれ、今日から新しく働いてくれる人が来てくれてんだから。もっとシャンとしな、シャンと」
 徹ちゃんは大きく伸びをして、ようやく目を開いた。
「じゃ、あとは徹ちゃんにいろいろ聞いてね。徹ちゃん、頼んだよ」
 奥さんはそう言うと部屋を出て行った。
 なんなんだ、この職場は。いくら自宅でやっているとはいえ、公私の区別ができてなさすぎる。ホント、大丈夫なんだろうなぁ。
「あ、あなたですか。今度来てくれるのは」
「は、はい。笠井と申します。よろしくお願いします」
 目の前にいる徹ちゃん。Tシャツにジャージ。こちらも無精ひげが目立つ。年の頃ならまだ二十代後半といったところか。
「いやいや、初日からいきなりこんなんでビックリしたでしょう」
 徹ちゃんは私にそう言ってきた。
「昨日ね、今作っているホームページで使ってるプログラムにバグを見つけて。ほとんどできあがってたのに大幅作り替えになっちゃってさ。納期は今日に迫ってたし。おかげで社長と二人でほとんど徹夜なんですよ」
 徹ちゃんは慣れた手つきでコーヒーを入れながら私にそう言ってくれた。なるほど、それで社長は寝ぼけ眼なのか。
 徹ちゃんは私にコーヒーを差し出して、こう質問してきた。
「えっと、笠井さんだっけ。WEBの作成の経験はあるの?」
 どう見ても年下の徹ちゃん。なのに口調はタメ口。いや、むしろ自分の方が上なんだぞ、と言わんばかりの口調である。
「はい、前に自分のホームページを少し作ったことが。でも本格的なプログラム作成とかはやったことはないんです」
「あ、それなら大丈夫だよ。やってもらいたいのは毎日更新する文章だけだし。だいたいのことがわかってりゃなんとかなるよ。でもいい加減ここもWEBベースのブログ形式に切り替えねぇと。いつまでもメンテナンス要員を使う時代じゃねぇのになぁ。社長もメンテナンス費用で稼ごうなんてけちくさいことやってるから毎日大変なんだよなぁ」
 最後の方は仕事についての愚痴をこぼす徹ちゃん。
「ところで、なんかすごい格好してるね。スーツにネクタイ。どっかのセールスマンかと思っちゃったよ」
 言われたとおり、私は一張羅のスーツにネクタイといった格好。しかしどう見てもこの会社のこの場の雰囲気にはそぐわないようだ。
「明日からはもっと気楽な格好でいいよ。どうせ人に会うことはないしさ。ここの作業はホームページのメンテナンス作業が中心になるだろうし」
 それは助かる。営業なんてやったことのない人間だし、パソコンの前で仕事ができるなら私もその方が向いている。
「で、私はどんなことをやればいいのですか?」
 徹ちゃんは私に仕事の内容を教えてくれた。クライアントから毎日送られてくる更新用の原稿を、ホームページにアップするということ。それとメルマガ発行の手伝い。
 どちらも機械的な作業なので、それほど難しくはない。いや、これはやったことのない人でもその手順に沿ってやればできるようなことだ。
「なるほど、それほど難しくはないですね」
 そうしているうちに社長が登場。先ほどのだらしない姿から一転して、ネクタイをビシッと締めてひげも剃っている。だが、寝癖がうまく直らなかったのか、後の方にアンテナのように立っている髪の毛が気になる。
「えっと、笠井さんだったよな」
「あ、はい。笠井と申します。今日から宜しくお願いします」
「うん、こちらこそ。徹也、仕事の内容は説明したのか?」
 徹ちゃんの名前は徹也っていうのか。覚えておこう。
「仕事内容は簡単だ。でも数と時間が問題でね。ほとんどの企業が午前中までに更新しなければいけない。だから早速仕事に取りかかってくれ。事務的なことはウチのに聞けばわかる。午後また時間を取るから、そのときに給料の件とかをウチのから話す。徹也、おまえは少し休んでろ」
 徹ちゃんはあくびをしながら部屋を出て行った。よほど疲れが溜まっているのだろう。
 私は徹ちゃんから教わった手順通りに仕事に取りかかった。言われたとおり、更新するホームページの数が多い。全部で三十ちょっとある。慣れていないため、一つの作業に十分以上かかる。このペースだとどう考えても午前中には終わらないぞ。私は焦りながらも言われたことを淡々とこなしていった。
 徹ちゃんもあれから二時間ほどで起き出し、パソコンに向かって別の仕事をしていた。社長も何やらパソコンに向かって作業をしている。職場にはキーボードを打つ音しか響かない状態。
 そうして午後一時。ようやくすべての作業が終了。さすがにぶっ通しの作業で、ちょっと肩がこってしまった。
「おつかれさん。ま、初回だからこんなもんだろう。それじゃ一服してからちょっと話でもするか」
 社長はそう言ってくれた。最初の印象はあまりよくない職場だったが、今の社長の言葉でまんざらでもないと思えた。だが、その思いはこの後すぐに崩されることになった。
「最初の月は試用期間と言うことで時給計算させてもらうからね」
「えっ!?」
 私はこのとき、てっきり初日だからお昼でも食べさせてくれるものだと思っていた。だが私を待ち受けていたのは社長の奥さんのこの言葉。
「で、時給は950円。このあたりじゃ割と高い方だよ。翌月から正規の社員として雇うから。このときは月給15万円。でも社会保険とか税金とかその他諸々引かれるからね。手取りは12万ってとこか。じゃぁここにサインして」
 何とも事務的で、ぶっきらぼうで、そして冷たい言い方。だが今はここで引き下がるわけにはいかない。時給950円。毎日八時間として一日7600円。一ヶ月20日稼働としてざっと15万円ちょいか。これなら時給の方が割がいいかもしれないな。
 だがこの打算もすぐに崩れてしまった。
「でさ、あんたの仕事って今のところ午前中だけなんだよね。だから最初の月は一日4時間勤務でお願いね。ま、後半になったら少しは仕事を覚えるだろうから、そのときはもうちょっと働いてもらうことになるよ」
 うそだろう。これだと一ヶ月10万円にもならないじゃないか。
「あ、それとウチは毎日ホームページを更新してもらうから。週に一回平日に休んでもらうよ。最初の月は土日は出てもらうからね」
 まぁこれは仕方ないか。むしろ時給なので出勤日が多い方がお金になるし。結局私は全ての条件をのむしかない。でないと、ここでは働けないのだから。
 無言でサインをして、印鑑を押す。これで雇用関係成立。
「よし。じゃぁ今日はこれで終わり。明日も同じ時間に来てちょうだい。あ、今日は特に行くところがなければここにいてもいいよ。でも時給は出ないからそのつもりでね」
「は、はぁ……」
 なんだか初日からやる気を無くすなぁ。とにかく昼食にしよう。そう思って一旦仕事部屋に戻ると、徹ちゃんがカップ焼きそばをほおばっていた。
「笠井さん、お昼まだでしょ。これ、よかったら食べる? 150円だけど」
 そういって徹ちゃんんは袋いっぱいに入ったインスタント麺を私に見せた。
「この辺って食べに行くところ無いんだよね。だからオレはいっつもこれ」
 そういって徹ちゃんはふたたび焼きそばをほおばる。
「お湯だけはタダでくれるから。でもここの奥さんってケチでしょ。でもすぐに慣れるよ」
 結局私は徹ちゃんからカップのうどんを150円で買って、これでお昼を済ませることにした。うどんの出汁が少ししょっぱかったのは気のせいだろうか。
 その日は仕事に慣れたいということもあり、夕方までは仕事部屋にいることにした。もう一度仕事の手順を整理したり、ここで他にどのような仕事があるのかを徹ちゃんから聞き出したり。
 社長は営業ということで午後からは不在。そのせいもあってか徹ちゃんは嫌な顔一つせずに、私の質問に快く答えてくれた。どうやら一人ぼっちで仕事をするのに飽きていたようだ。
 午後五時になり引き上げることにした。駅へ向かう自転車のペダルは、下り坂にもかかわらず妙に重たく感じた。
 電車も目的の駅に到着し、私は高校生の大群と共に駅に降り立った。せっかく仕事に就いたのに、まだ心の中には空洞が。やっぱり間違えたかな……。
 ふぅっとため息をついて歩き出そうとしたときに、後から声をかけられたような気がした。
 振り向くと、遠くで手を振っている女の子。あの子は確か羽賀さんのところの……
「笠井さん、か〜さ〜い〜さぁ〜ん!」
 女の子は自転車にまたがり、ボーイッシュなスタイルで私を呼んでいた。そして自転車をこいですぐに私のそばへ。
「あ、あなたはえっと……」
 私は女の子の名前がすぐに思い出せずにいた。
「ミクです。覚えて下さいよ。こんなかわいい子の名前を忘れるなんて、許さないからねっ」
 ミク、そうだミクさんだ。ミクさんは意地悪そうに私にそういったが、顔は笑顔。
「笠井さん、今日からお勤めでしたよね。羽賀さんからそう聞いてましたよ」
「あ、ありがとうございます。ミクさんは?」
「私はさっき学校が終わって、今から羽賀さんのところに行くところ。あれ、今日は自転車じゃないんだ」
「え、えぇ。今日は私の折りたたみ自転車を向こうの駅に置いてきたもので。帰りは歩きなんです」
「あら、大変ですね。だったらちょっと遠回りかなぁ」
「え、何が?」
「いや、羽賀さんが昨日笠井さんのこと気にしてたから。せっかくここで会ったのも何かの縁でしょ。時間があったら羽賀さんのところに一緒にどうかなって思って」
 そう言われて、私は急に羽賀さんに話がしたくなった。今日思ったこと、感じたことをどこかにぶつけてみたくなったのだ。
「ミクさん、ぜひ一緒に連れて行って下さい。私も羽賀さんに話したいことがありまして」
 でも羽賀さんのところまでは少し距離がある。自転車だと五分ほどなのだが、歩くと十五分くらいはかかるだろう。だがその心配にミクさんがこんな提案を。
「だったらさ、立ち乗りだけど後に乗っていかない? ほら、高校生のカップルとかがよくやってるじゃない。どう?」
 なんだか気恥ずかしい気もしたが、この際だからそうしてみるか。
 結局私はミクさんの提案通り、立ち乗りの二人乗りで行くことに。
「笠井さん、気分はどう?」
「はい、結構気持ちいいですよ」
「束の間のカップル気分も悪くないでしょ」
「ははは、そうだね」
 ミクさんの言うとおり、風を切ってこうやって二人乗りするのも悪くはない。
 こうして羽賀さんの事務所に到着。ミクさんより先に事務所に入ると、にこやかな羽賀さんが出迎えてくれた。
「あ、笠井さん。いらっしゃい。今日がお仕事の初日でしたよね」
 羽賀さんは私に気付くと、そう言葉をかけてくれた。そこにはどうやら先客がいたようだ。
「おいおい、今はオレの相談を聞いてくれよ」
 そこにはブルドッグのような怖い顔をした男性が。その男性は渋い顔をして羽賀さんを話に引き戻そうとした。
「あ、ごめんなさい。笠井さん、こちら竹井警部といって、よくボクに相談に来るんですよ。もう少しで話が終わるまでそっちで待っててもらっていいですか? もうじきミクも来るだろうし」
「あ、ミクさんなら一緒ですよ」
 そう言うのと同時にミクさんが登場。
「あ、ミク。しばらく笠井さんのお相手しててくれる? 竹井警部ともうちょっと話してるからさ」
「了解!」
 ということで、しばらくミクさんと話をすることになった。
「へぇ、そこってなんだか変な会社ね。でさ、笠井さんはこれからどうしたいと思っているの?」
「はい。まだ初日ですし。それに一ヶ月勤めれば正社員として扱われるんですから。なんとか粘ってみようとは思います」
「いいじゃないの。それでこそ笠井さんですよ!」
 私は一回り以上も年下のミクさんにそう励まされた。なんだかどっちが人生を多く経験しているのかわからないな。でも、励まされて嫌な気はしない。
「でさ、正社員になってやりたい事って何かあるの?」
 この質問で、私は忘れかけていたことを思い出した。そう、ちゃんとした職に就いたら子どもたちに会える。このことだ。
「そうですよ。子どもたち。ちゃんとした職に就いたら子どもたちに会えるんだ。元妻とはそういう約束ですから」
「へぇ、そうだったんだ。じゃぁさ、それって具体的にどうすれば笠井さんは子どもたちに会えるの?」
「そうですね。まず私がちゃんとした職に就いたことを元妻に連絡して、子どもと会う日程を調整してもらわなきゃ」
「まずは奥さんに連絡ってことね。それ、いつやる?」
「いつ……そうですね、まだ正社員じゃないから今すぐは無理ですよね。でも勤め始めたことくらいは連絡してもいいかな。あ〜、でもパート扱いじゃ認めてもらえないか。いや、でも早めに連絡して一日も早く子どもたちとも会いたいし……」
「笠井さん、ちょっと気付いたことあるんだけど」
「え、何ですか?」
「今笠井さん、『でも』って何回言ったと思う?」
 ミクさんにそう言われて、自分でそのことに気付いていなかった。そんなに「でも」なんて言ったかな? ミクさんの言葉はまだ続いた。
「今の笠井さんの言葉を聞いてさ、笠井さんってひょっとしたら奥さんのことを怖がっているんじゃないかって感じたんだけど」
 この言葉にはドキッとした。確かにそうかもしれない。決して亭主関白ではなかったが、別れる前まではそれなりに自分の言葉に自信は持っていたつもり。だが今はミクさんに言われたとおり、元妻の由梨恵に気を使っている、というか怖がっている自分がいる。
「笠井さん。何を怖がっているの?」
 私は何を怖がっているのだろう?
 今は由梨恵の言うとおりにしなければ子どもに会うことはできない。これは事実だ。だがその条件も就職をしたことで今は整いつつある。だったら何も怖がることはないじゃないか。
「そうですよね。何も怖がることはないんですよね」
 私の口からこの言葉が出てきた。私はさらに言葉を続けた。
「もっと自分に自信を持って話せばいいんだ。だったらすぐにでも由梨恵に近況を連絡して、子どもたちと会う段取りを付けてみよう。ミクさん、ありがとう」
 ミクさんはにっこりと私に微笑んでくれた。それだけでも力が湧いてくる。
「だったら、いつそれやる?」
「はい、今日にでも手紙を書いてみます。電話じゃなんだか話しづらいし。相手に拒否されそうな気もしますから」
 これは思わず口から出た言葉。そうか、手紙の方がいいよな。言ってからそこに気付いた。
「笠井さんお待たせしました。やっと竹井警部との話が終わったよ」
「おいおい、やっとってことはないだろう。そんなに邪険に扱うなよ」
 竹井警部は帰り支度をしながら羽賀さんにそう言った。
「竹井警部。だったらちゃんと相談料払ってよね。いっつもこうやって突然押しかけて羽賀さんに相談して、それで何食わぬ顔で帰っちゃうんだから」
 ミクさんが強い口調でそう言う。
「おいおい、そんなこと言うなよ。な、羽賀よ。オレとお前の仲だからさ」
 竹井警部は羽賀コーチの肩をなれなれしく叩きそう言った。羽賀さんは苦笑い。
「じゃ、今日はありがとな」
 竹井警部はそう言って事務所を後にした。
「ははは。まったく竹井警部は」
「羽賀さん、そろそろもうちょっと商売気を出した方がいいですよぉ」
「わかった、わかったよ。ところで笠井さん、今日は?」
 今のやりとりを聞いて、羽賀さんに話をするのをためらってしまった。そうだよ、普通はこういった相談は有料なのだから。突然押しかけて、今日一日の話を聞いてもらおうなんて虫のいい話だ。それに話ならミクさんに聞いてもらったし。
「あ、いや。ミクさんと話をしたらすっきりしましたから。もう大丈夫です」
「え、でもせっかく来てくれたんだから。あ、ミク。笠井さんにお茶を出してくれるかな」
 ミクさんは、はぁいと返事をしてお茶の準備に取りかかった。
「あ、いえ。お構いなく」
 私がそう言うのにもかかわらず、ミクさんはお湯を沸かしてお茶の準備。恐縮しながらも、羽賀さんが勧めるままにソファに腰を下ろした。
「で、お仕事の初日はどうでしたか? 是非聞かせてください」
 羽賀さんにそう言われては話さないわけにはいかない。結局、今日一日あったことを話してみた。さらに、先ほどミクさんと話して出た結論も一緒に話をした。
「そうですか。奥さんに手紙を書くことにしましたか。それは是非やってみてください。ところで一つ質問していいですか?」
「えぇ、何でしょうか?」
「この先、その職場で何の不満も持たずに進めていく自信ってありますか?」
 今度はミクさんとは違う視点の質問。
「自信って言われるとちょっと。でも慣れなきゃいけないんですよね。これが仕事ですから」
「笠井さん、もう一つ質問。笠井さんにとって仕事って何なのですか?」
「私にとっての仕事……」
「えぇ。思いつくまま口にしてみて下さい」
「仕事……食べる手段。お金を稼ぐために必要なこと」
「それから?」
「やらなきゃいけないこと。国民の義務」
「他には?」
「他に……やっていないと不安なもの。やらないと認めてもらえない……そんなところでしょうか」
「なるほど。笠井さん、私が今感じていることをお伝えしてもよろしいでしょうか?」
「はい。何でしょうか?」
「笠井さんの言葉から感じた言葉。それは『義務』です。やらなければならない。そうであるべき。そこからは苦しみしか感じられません。どこにもワクワクするもの、楽しむものが聞こえてこないんです」
「でも、仕事ってそんなものじゃないんですか?」
 思わずそう反論した。だが羽賀さんの次の言葉でその考えが間違っていることに気付かされた。
「笠井さん、ボクと仕事を一緒にしていたとき。あのときは義務感でやっていたのでしょうか?」
 言葉が出なかった。あの頃羽賀さんと一緒に技術屋として仕事をしていたときは、心からその仕事を楽しんでやっていた。
 だが今は仕事に対してその感じを持つことはできない。今は早く元妻に仕事を始めたことを報告し、それを認められ、そして子どもたちに会いたい。だから仕事をする。
「だったら、私にどうしろと?」
 どうしていいのかわからなくなってきた。仕事はしなければいけない。でも昔のように楽しく仕事ができる職場なんか見つかるわけがない。
 そこで不満を持たずに仕事をやる自信なんてあるわけがない。羽賀さんは私に何をさせたいのか? その真意がわからずに、今は迷いの渦の中で頭を廻らせるしかなかった。
 羽賀さんは私に何をさせたいのか。その答えは何となくわかっている。わかっているけれどそれを口にしたくない自分がいる。
 額にじんわりと汗。この沈黙の重さに耐えかねて、結局私の方から口を開いた。
「羽賀さん、どうやったら今の仕事を楽しんでやることができるのでしょうか。羽賀さんが言わんとしていることはわかります。昔羽賀さんと一緒に仕事をしていた頃のように、仕事自体に楽しさを求められればいいんですよね。お金なんて結果でしかない。羽賀さんはそれが言いたかったのでしょう?」
 羽賀さんは私の言葉ににっこりと微笑んでこう質問してきた。
「幸せってどこにあるか知っていますか?」
「え!?」
「笠原さんが思っている幸せってどんなときでしょうか?」
「幸せって……そうですね。まずそれなりにいい生活をしているときでしょうか。お金もそれなりに持っていて、何不自由なく暮らしている」
「それから?」
「そして……今はもういませんが、やはり家族と一緒にいるとき。これは幸せを感じていましたね」
「他には?」
「それから仕事です。自分の好きなことに没頭できる。このときはどんなに忙しくても、どんなにつらいと思っても、その充実感を味わうことができて幸せでした」
「だったら、その幸せになる条件って何なのでしょうか?」
「幸せの条件、ですか? そうですね、お金も必要だし、家族も必要、そして仕事も必要。こんなところですか?」
「では今手元に一千万円あったとしましょう。それで幸せでしょうか?」
「まぁ、無いよりはいいかもしれませんが、ちょっとそれだけじゃダメですね」
「ではそれにプラスして家族がいたとしましょう。ただし、奥さんとはほとんど会話も交わすことがない。戸籍上の家族がそこにいる。これでは?」
「そうなると、幸せと言うよりも不幸を感じますね。温かさがない」
「ではここに仕事をプラスしましょう。その仕事はお金を稼ぐことはできるけれど、言われたことをただこなすだけのロボットのような仕事。これでは?」
「ますます不幸になる気がします」
「もうお気づきだと思います。幸せの条件ってなにか物や環境が整うだけじゃダメなんです。幸せになるために必要なもの、それはたった一つだけでいいんです」
「たった一つ、それって何でしょうか?」
「幸せになる条件。それは『自分が今幸せである』と感じる心です」
 羽賀さんのその答えに、半分はあっけにとられ、半分はあきれてしまった。
「何当たり前のことを言っているんだ、そんなふうにお考えじゃないですか?」
 羽賀さんは私の心を見透かしたようにそう言ってきた。
「ははは、まぁ確かにそう思うでしょう。でもね、これは真実ですよ。そうですね、一つ実験してみましょう。ミク、確かこの前もらったお菓子があっただろう。あれ一つ出してくれないか」
「はぁい」
 そう言ってミクさんは戸棚からお菓子を出して羽賀さんに渡した。
「笠井さん、広島名物のもみじまんじゅうってご存じですよね。あれ、中のあんこに何種類もあるの知っていますか?」
「えぇ、確か普通のあんこだけじゃなく、チョコレートとか抹茶とか」
「実は舞衣さんのお父さんからもみじまんじゅうをもらったので、お一つどうかと思いまして」
「え、それはうれしいですね」
「笠井さん、今どんな気持ちですか? 幸せを感じましたか?」
「え、えぇ。そりゃもみじまんじゅうを頂けると思ったらうれしいですよね。確かに幸せを感じたと思います」
「ところで笠井さんはもみじまんじゅうではどんな餡が好きですか? ミク、どんな餡があるんだっけ?」
「えっとね、粒あんとこしあん、チョコレートと抹茶、チーズにカスタード。この六種類かな」
 ミクさんはもみじまんじゅうの箱に入っていたパンフレットを読みながらそう答えてくれた。
「私はオーソドックスな粒あんがいいですね」
「では強いて嫌いな餡と言えばどれでしょうか?」
「う〜ん。チーズは好きだけどまんじゅうに入れるのはちょっと」
「では、私が笠井さんにお渡しするもみじまんじゅうがチーズだったらどうでしょう?」
「え、ちょっと遠慮してしまうかな」
「このとき、笠井さんは幸せを感じることができますか?」
「いやぁ、正直あまり幸せとは感じませんね」
「ミクだったらどうだい?」
「私、チーズ大好き!」
 ミクさんは満面の笑みで幸せのオーラを発するように答えてくれた。
「さて、同じ条件でも笠井さんは幸せだと思えずミクは幸せだと思った。この違いって何なのでしょうね?」
「そうか。幸せって外部の条件で決まるものではないのですね。それをどうとらえるか。つまり幸せを感じることができれば、そのときが幸せだということなんですね」
 自分でそう答えて、先ほど羽賀さんが言った当たり前の言葉を繰り返していることに気付いた。
「羽賀さん、言いたいことがだんだんと見えてきましたよ。私が今の仕事に対して幸せを感じられるかどうか。それは給料や仕事内容で決まるのではなく自分の気持ち一つでどうにでもとらえることができる、ということなのでしょう」
「その通り!」
 羽賀さんは拍手をして私の言葉をほめてくれた。
「では正解のご褒美にこれを進呈しましょう」
 そう言って羽賀さんは手にしたもみじまんじゅうを私に渡してくれた。
「あ、粒あんですね!」
 私は思わず喜びを口にした。
「笠井さん、今幸せ感じてますか?」
「はい、幸せです!」
「うん、ボクも笠井さんのその笑顔を見て幸せですよ。どうせならもうちょっと幸せを感じてみましょう。ミク、お茶のおかわり入れてくれないか」
「はぁい」
 はは、確かにこれにお茶があればもっと幸せだな。そう思いながらわたしはいただいたもみじまんじゅうをパクリとひとかじりした。
 一息ついた後、私はある質問を羽賀さんにしてみた。
「羽賀さんはどうして今の仕事を始めたのですか? それこそ私と一緒に仕事をしていた頃はそれなりにイキイキとして、幸せそうに見えていましたけれど」
「そうですね。あの頃の仕事はボクにとっても幸せを感じることができたと思いますよ。でもね、今の仕事の方がもっと幸せを感じることができるんです」
「そうなんですか。でも失礼とは思いますが、四星商事の頃って結構なお給料をもらっていたんじゃないですか?」
「まぁね。でもやっぱりお金じゃ味わえないですよ。今の幸せは」
 羽賀さんはそう言ってお茶をひとすすり。
「そうか。そうですよね。なんだか頭ではわかってはいるのですが、どうしてもお金がたくさんあった方が幸せだって気がして」
「これは仕方ないですよ。だって私たちはそう思いこまされている環境に生きていますから。人間の思考って、環境に左右されてしまいます。だから同じ物事を体験しても、幸せと感じられる人とそうでない人がいるんです。ほんのささいなことに感謝を表すことができる人は、常に幸せを感じられる人だとボクは思っています」
 その言葉に大きくうなずいた。羽賀さんの言葉は続く。
「感謝できる人は、周りの人からいつも『ありがとう』という言葉をかけられている人が多いです。それが当たり前になっているから、自分も感謝の言葉をかけるのが当たり前になっている。そして不満を持っている人の周りには、いつも不平・不満・愚痴を言っている人が多いんです。それが当たり前の世界にいるからそこにしか目がいかなくなるのですよ」
 なるほど、そうか。言われたとおりだなと素直に受け止めることができた。
「ところで笠井さんはどちらの世界にいたいと思いますか?」
「そりゃぁもちろん。いつも周りに感謝できる方に決まっているじゃないですか」
 何を当然。私はそんな気持ちで羽賀さんの問いに答えた。だが次の質問で、私は愕然とせざるを得なくなった。
「では奥さんに対してはどうでしたか?」
 私は言葉に詰まってしまった。ここ数年、由梨恵に対して「ありがとう」なんて言う言葉をかけた記憶がない。いや、由梨恵に対してだけではない。あの事故以来「ありがとう」なんて言葉を発した記憶がないのだ。
 それどころか周りには不平や不満ばかり漏らしている自分に気付いた。あの事故も会社のせいにしたり、由梨恵との不一致も自分が悪いとわかっていながら、口から出る言葉は「おまえのその考え方が」という不満ばかり。そして今日もそうだ。新しい会社に勤めたことへの感謝も無しに、職場の不満を羽賀さんに聞いてもらおうと思っていた。
 私が住みたい世界は「感謝」なのに、現実には「不満」の世界にいる。羽賀さんの質問はそのことに気付かされた一言だった。
「羽賀さん、私は……」
 自分が何も感謝していなかったことを言葉にしようと思ったが、なかなか言葉にはならない。だが羽賀さんはそれをわかっているかのようにこんな言葉をかけてくれた。
「笠井さん。今自分が思っていること。これを自分で認めてください。今までの自分はそうだったんだってこと。これを受け入れてください。」
「受け入れるって、どういうことですか?」
「過去に起こしてしまった事実。これを変えることはできません。ですが、その事実を否定しようとすると、今まで自分が歩んできた人生そのものを否定することになります。自分を否定してしまうと、自分が嫌いになってしまうでしょ。自分が嫌いな人が周りを愛せるわけがありません。そうじゃないですか?」
「羽賀さん、そうですよね。だから私は妻にあんなことを平気で言ってしまったんですよ。あれはあのときの自分が嫌いだったから。その理由を周りのせいにしてしまいたかったから。だから由梨恵にあんなひどいことを……」
 私は話しながら涙がにじんできたことに気付いた。だがそれをぬぐうこともなくただ下を向いているだけだった。
「笠井さん。その事実を受け入れてください。それも自分なんだって」
「でも、過去に起こした事実は変えられませんよね……」
「笠井さん。過去に起こった事実、これは確かに変えることができません。ですが過去に起こしたことに対しての解釈。これは変えることができます」
「え、どういうことですか?」
 パッと顔を上げて羽賀さんを見つめた。
「ほら、笠井さんが昔話をしてくれたことがあったじゃないですか。中学校の頃野球部で練習がきつくてとてもいやだった。でも最後の大会で優勝こそ逃したけれど三位という成績を残せて、あのつらかったことがすべて吹き飛んだって」
 そういえばそんなことを話たことがあったな。
「中学時代に野球の練習をしていた笠井さん。そのころの解釈は監督に対して、練習に対して嫌な思いしかなかったんですよね。ですが今の解釈はそれが良い思い出になっている。練習がきつかったという事実は変わらないのに、それに対しての解釈が変化していますよね」
「なるほど。事実は同じでも解釈で過去は変えられるということですよね」
「そう、その通り」
 羽賀さんはそう言ってお茶をひとすすり。そしてお代わりをミクさんへ要求した。
 羽賀さんの言わんとしていることは理解できた。どうしてもあのことだけは良い解釈に変えることができない。
「羽賀さん、でもどうしても解釈を変えることができない事実って言うのもありますよね。どう考えても良い方向に変えることのできない事実が……」
「でもそこから何かを学ぶことはできた。そうじゃないですか?」
「え、学ぶこと?」
「そう、学ぶことです。奥さんに対してひどい言葉をかけてしまった。その事実は変わりません。ですがそのおかげで『そう言った言葉を人にかけるべきではない』ということを学んだ。そうじゃないですか?」
「え、えぇ。そう言われればそうでしょうが」
「笠井さん、ここでちょっといい情報があるですよ」
 羽賀さんは急に声のトーンを落として、内緒話でもするかのごとく私に顔を近づけそう言ってきた。私も羽賀さんにつられ、顔を羽賀さんに近づけ次の言葉を待った。
 そして羽賀さんは小さな声でこう伝えてくれた。
「実はね、世の中に困ったことなんて一つもないんですよ」
「えっ!?」
「世の中に起きている出来事。これは全て自分を成長させるために起きていることなんです。その困り事が大きければ大きいほど、成長のスピードは勢いを増しているってことになるんです」
「どういうことですか?」
 ここから羽賀さんは普通の声の大きさで話し始めた。
「では笠井さんに質問。人が普通に歩く時って、何か抵抗を感じますか?」
「え、普通に歩くとき? いや、何も感じませんけど」
「では駆け足で走るとどうですか? 何か感じるものはありますか?」
「そりゃ、風を感じることができますよね」
「それでは自転車に乗ったときは?」
「さらに強い風を感じることができます」
「それなら車に乗って、窓から手を出したときはどうですか?」
「かなり強い風を感じますよね。空気抵抗ってやつですか。あれを感じることができますよ」
「では高速道路での空気抵抗は? さらに新幹線で窓を開けることができたらどうでしょうね? そして飛行機では?」
「スピードが増せば増すほど、空気抵抗は大きくなります」
「その通り。実は人の行動も全く同じなんです。自分が目標に向かって歩いていくときには必ず『障害』が発生するものです。先ほどの空気抵抗と同じですね」
 うん、確かにその通りだ。
「その障害は自分の成長スピードと共に大きくなっていくんです。順調と思えた人生に突然大きな困り事が降りかかってくる。実はその困り事こそが人生の成長には欠かせないものなのです」
「でも、そんな困り事が迫ってきたら前に進めないじゃないですか」
「確かに、抵抗に負けてしまえば翼も折れて飛び立つことができなくなります。ですが飛行機が上昇するのにその抵抗が必要なのはご存じですか?」
「えぇ、揚力ってやつを発生させるには空気抵抗が必要ってことでしょう」
「そう、人生の障害も自分が飛び立つには必要不可欠なものなのです。では仮にその空気抵抗に負けて翼が折れてしまったとしましょう。そしたら笠井さん、どうしますか?」
「う〜ん、エンジニアの私としてはどのような理由で翼が折れたのかを解析して、さらに再設計してチャレンジしますかね」
「はい、それが『学ぶ』ということなのです。ここで学んだからこそ、次に同じことが起きても乗り越えられる自分がいるのです。だから人生に困ったことってホントはないんですよ」
 そうか、今自分に降りかかっていること。これをどのように乗り越えるのかをしっかりと正面から受け止める。これで私は成長し、さらに上昇することができるのか。羽賀さんのたとえ話でそれがようやく理解できた。
「羽賀さん、私も上昇できるでしょうか?」
「できるでしょうか、では今のままですよ。上昇すると決意してください」
「上昇する決意、かぁ」
 決意。この言葉が今の私にとても重くのしかかっているのは間違いなかった。
 けれど、そんなぐずぐずしている場合ではない。私はもっと幸せに楽しく生きなければ。いつまでもこんな生活を続ける意味はないのだから。
 とにかく、明日から仕事を頑張ろう。仕事をしていれば、何か楽しいことも見つかるはずだ。そう思うと、だんだんと心が軽くなり、それと共に足取りも軽くなっていくことに気づいた。
 だが、その軽さも寝る前までの出来事で終わってしまった。
きききぃーっ、ドンっ!
「うわっ!」
 一体何が……目を開けると、そこは血の海。目の前にはうなだれる老人。
「だ、大丈夫ですかっ!」
 そう声を上げようとした。が、それは声にならない。
 肺が熱い。どうやら胸を強打したようだ。
 車の外に飛び出ようとしたが、それもままならない。ドアを開けようとしたが、全く開く気配がない。
 そして徐々に広がっていく痛み。目の前が赤く染まる。どうやら額から血が流れているようだ。
 目の前の老人が顔を上げる。目はぎょろっとして、その顔の肉が徐々にそげ落ち、私を恨みの目で見つめている。そして老人はうめき声を上げる。
「おまえが……おまえが……おまえがオレを殺したのかぁぁぁっ! おまえに幸せになる権利なんかなぁぁぁぁぁいっ!」
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
 私は布団から飛び起き、時計を確認。まだ夜中の三時。パジャマは汗でびっしょり。のどもカラカラ。私は冷蔵庫へ向かい、冷たい麦茶を一杯のどに流し込んだ。
「しかし、久しぶりに見たな。あの事故の夢を……」
 私が見たのは自分が引き起こした事故の夢。会社の仕事が切羽詰まっており、ほぼ徹夜に近い状態で仕事を終えた私。その帰りに引き起こした事故。
 原因は私の居眠り。カーブでセンターラインを曲がりきれず、対向車線へはみ出した。そして軽のライトバンに乗った老人と正面衝突。
 双方とも車は大破。私の車にはエアバッグがついていたため、身体は無傷で済んだ。だが不幸なことに、相手の車はエアバッグもついてない、古いタイプのライトバン。そのため、老人は正面からの衝撃に対してほぼ即死の状態だったと聞く。
 あのときに見た、目の前に広がった情景。これは忘れようにも忘れることができない。その情景が、事故を起こした直後はよく夢に出てきた。
 だが、その夢も半年ほどで見なくなっていた。そんなことがあったことすら忘れかけていたのに。
「しかし、最後のセリフは気になるなぁ」
 あの夢の中での最後のセリフ。あれは今回初めてだ。
「おまえに幸せになる権利はない、か……確かにそうかもしれない」
 夢で聞いたこのセリフだけが妙に頭の中に残っている。
 業務上過失致死。これが私に下された判決。幸い、過去の事故歴がなかったのと家族を今後養わなければならないという状況を裁判官が加味してくれ、私は禁固二年、執行猶予三年の判決をもらった。つまり、三年間何も法律を犯すことがなければ普通の生活でいられるのだ。
 だが、その普通の生活も今は地獄に近い。由梨恵と別れ、実家のあるこの土地に移り、昔とは天と地ほどの差がある仕事に就いている。
 事故のことを知らない人に囲まれているのが幸いかもしれない。なにしろ事故を起こしたすぐ後は、周りからの同情の目と批判の目、両方に囲まれて暮らしていかなければならなかったのだから。
「結局、人を殺した人間には幸せになる権利はない、ということなのか」
 私はもう一杯のどに麦茶を流し込み、座り込んでぼーっと考えてみた。
 過去に起きた事実は変えられない。だけどその解釈は変えられる。それは間違いないだろう。だが、ここまで重たい事実の解釈をどう変えろと言うのだ。誰が見ても人を一人殺したという事実を、良い方へ解釈はできないのではないか。
 私は頭が混乱し始めた。一体どうすればいいのか。
 羽賀さんが言った「決意」なんてできるわけがない。こんな事をしでかした人間が幸せになってはいけない。そうじゃないか。
 結局その日は、目覚ましが鳴る時間まで悩み続け、眠たい目をこすりながらの出社となった。
「笠井さん、笠井さんっ」
「ん、あ、あぁ。ごめん。ウトウトしてたみたい」
「笠井さん、今日は社長がいないからいいけど、社長がいたら大目玉ですよ」
 仕事中、私は睡眠不足からついウトウト。それを徹ちゃんに起こされる。これが午前中に何度続いただろうか。
 まだ自分の仕事になれていないこともあり、結局ホームページのデータアップが終わったのが午後一時過ぎ。
「笠井さん、今日は早く帰って寝た方がいいですよ。明日は社長はいるから、居眠りなんかしていたらむちゃくちゃ怒られますからね」
「あぁ、そうさせてもらうね。悪いけれど先にあがります。お疲れ様」
 結局楽しいことなんか見つける暇もなく、今日の仕事が終わった。疲労とむなしさだけが残る時間であった。
 帰りの電車の揺れ心地。これに誘われてやはりウトウト。私はそのまま夢の世界へと引きずり込まれていった。だが、そこで見た夢はまたあの事故の夢。
「おまえに幸せになる権利なんかなぁぁぁぁぁいっ!」
 このセリフでハッと目を覚ますと、目的の駅。しかもドアが閉まりかけようとしていた。
「降ります、降ります」
 私はあわてて体をドアに滑り込ませ、なんとか降りることができた。
 ふぅ。まったくなんて一日だ。しかし、これからどうすればいいんだろうか。自転車置き場へと足を運ぶ。と、そのとき私を呼ぶ声が。
「笠井さん、笠井さんっ」
 くるっと振り返ると、なんと羽賀さんが自転車にまたがって私のことを呼んでいた。
「やっぱりこの時間でよかったんだ。待っていたんですよ。笠井さん」
「え、私を待っていてくれたんですか?」
「えぇ。ミクから一ヶ月は一日四時間の勤務になっているって聞いていたから。だから帰りがこの時間じゃないかなって思って」
 それを聞いて、なぜか頬に涙が。今まで心の中でひとりぼっちだった私に救いの手がさしのべられた。そんな気がした。
「笠井さん。ど、どうしたんですか?」
 羽賀さんは私が泣き出したのを見て、あわてて駆け寄ってくれた。
「い、いえ。急に心がホッとしたものですから……」
 涙を拭きながら小声でそう答えた。
「なにはともあれ、ちょっとどこかに移動しましょうよ。そうだ、時間があるのならレイクサイドパークまでサイクリングしませんか?」
 羽賀さんはそう言ってくれた。私も少し気を紛らわしたい気分。その誘いに乗って、羽賀さんの後をついて行く形で自転車をこぎ出した。
 しかし、自転車をこぎながらも頭の中では「幸せになる権利なんかない」というセリフがこだましていた。
 私は本当に幸せにはなれないのだろうか。それとも、羽賀さんの言うとおり幸せになろうという決意を持った方がいいのだろうか。羽賀さんの背中を追いながら、この疑問が頭の中をぐるぐると巡っていた。
 レイクサイドパーク。ここは湖に面した公園。湖をぐるっと一周する道が整備されているのと、途中にちょっとした遊具の置いている公園がある。市内からそれほど遠くないため、昼間は小さな子どもを連れたお母さんたちが集まる場所にもなっている。
 私と羽賀さんは休憩所になっている東屋に落ち着いた。
「笠井さん、どうぞ」
 そして羽賀さんは事前に用意していた缶ドリンクを差し出した。中身は地元産のお茶。少し渋みを効かせた濃い味が売り文句のものだ。
「ありがとうございます」
 そういって羽賀さんからお茶を受け取り、渇きを覚えたノドに一気にお茶を流し込んだ。
「笠井さん、幸せになる決意、できました?」
 羽賀さんが突然そう尋ねてきた。幸せになる決意。それは昨日羽賀さんとの会話の中で出てきた言葉。
 決意をしないと幸せになれない。それは理屈ではわかっているのだが、どうしてもあの事故のことが、そしてあの夢に出てきた言葉「おまえに幸せになる権利なんかない」が私の心を引きずっていた。
 羽賀さんの言葉に何も答えることができず、ただうつむくばかり。その時間がどのくらい続いただろう。遠くで子どものはしゃぐ声が聞こえる。
 この沈黙を破ったのは、羽賀さんのこの一言だった。
「笠井さん、もう我慢しなくていいんですよ」
 羽賀さんは視線を湖の方に向け、私に横顔を見せながらそう言った。羽賀さんのその言葉に、私の頬に再び涙が。
「は、羽賀さん……。わたし……わたしは……」
 涙で声にならない私の言葉。
「笠井さん、ちょっと歩きましょうか」
 そう言って羽賀さんが立ち上がる。私は黙って羽賀さんについて行く。
 五十メートルも歩いただろうか。
「ここは春になると桜が満開で気持ちがいいんですよね」
 羽賀さんは独り言のようにそう言った。以前は家族で花見にこの公園に何度か足を運んだことがある。今は緑の葉が多い茂ってはいるが、それはそれで気持ちのいいものだ。
「こうやって見回してみると、気がつかない幸せってたくさんありますよね。景色はいいし、空気もおいしいし。よく見ると野生の動物も見ることができるし。もうちょっと先に行けば、ちょっとした花壇もあるしね」
 そう言われて、あらためて周りを見回した。羽賀さんの言葉で、今までは見えていなかったものが見えてきた。
「笠井さん、今どんな感じがしていますか?」
「え、えぇ。なんだか気持ちが落ち着いたというか。今まで見えていたはずなのに見ていなかった世界を感じることができます」
 この質問で、私は重い口をようやく開くことができた。羽賀さんはにっこりと笑ってこういってくれた。
「さっきまでの笠井さんって、足下のアスファルトしか見ようとしていませんでしたからね。せっかく公園に来てそんなのを見ても楽しくないでしょ。だったらもっと楽しくなるところに目を向けてもらいたいなって思って」
 確かに羽賀さんの言うとおり。私はこの公園に来ても、景色を楽しむわけでもなくただ地面を見ていたような気がする。そして、その地面の先には、あの事故の光景がありありと目に浮かんでいた。
「羽賀さん、ちょっと話を聞いてもらってもいいですか?」
「えぇ。だったら歩きながら話しをしませんか。体を動かしていた方が言葉も出てきやすいですから」
 そう言って、羽賀さんと私は歩きながら話しを始めた。
 話の内容はあの事故のこと。今までこのことを人に話すのはためらっていたのだが、今日だけはどうしても話したいという気になった。
 羽賀さんは私の口から出た言葉に、相づちやうなずきを交えながら、ただ淡々と聞いてくれていただけ。しかし、下手な感想や横やりを入れてもらうより、その方が話しやすい。
 そして最後は今日見た夢のこと。あの夢で言われた言葉「おまえには幸せになる権利がない」。これが頭から離れず、一日中もやもやした気分であることを告げた。
「そうですか。その言葉が頭から離れなかったんですね。その気持ち、ボクにもわかります」
 その言葉を聞いたときは、うわべだけで同意してくれたのだとばかり思っていた。こういった話しでは「あなたの気持ちはよくわかります」というのは常套句だろうから。
 しかし、そうではないことを次の羽賀さんの言葉から知らされた。
「ボクもね、ある意味人を一人殺しているんですよ。笠井さんと同じように自動車事故でね」
「えっ!?」
 私は羽賀さんのその言葉にびっくりした。そこから羽賀さんから聞いた話はこうだった。
 婚約までした彼女と彼女の父親のところに行ったとき、父親からは猛反対。そのときに彼女が車で飛び出し、後を追って羽賀さんが助手席に乗り込んだ。しかし、彼女は途中運転を誤って対向車と正面衝突。羽賀さんは奇跡的に助かったが、彼女は帰らぬ人となった。
「そうだったんですか……そんなことが」
「えぇ。ボクが直接殺したわけではないのですが、罪はそれと同等です。自分が引き起こしたことでこうなったのですから」
「でも、よくそこから立ち直れましたね。今の私にはとても羽賀さんのように振る舞うことなんかできません。亡くなった方に申し訳なくて」
「亡くなった方は笠井さんに今どうして欲しいと思っているでしょうね?」
「どうして欲しいって……」
「笠井さんに不幸になって欲しいでしょうか? それで亡くなった方は満足するでしょうか?」
「ひょっとしたらそう思っているかも……」
「では笠井さんが逆の立場だったら?」
「そうですね……私だったら、私が生きるはずだった分をその方に精一杯生きて欲しいと思います。ここでその方を恨んでも仕方ないですから」
「ボクもそう思いました。死んだ由美も同じ思いなんじゃないかって。生きている自分にもっともっと幸せになって、満足した人生を歩んで欲しいんじゃないかって。だからボクは決意したんですよ」
「決意って?」
「はい。死んだ由美の分まで幸せになる。そしてその幸せを持って多くの人を幸せにしていく。人に幸せを分け与えるためには、まずは自分が幸せにならなきゃいけない」
 羽賀さんのこの言葉で、何かが見え始めた気がした。羽賀さんの言葉はさらに続く。
「ボクには幸せになる権利はないかもしれません。しかし、幸せになる義務はあるんです。死んだ由美のためにも、そして多くの人を幸せにすることで私の犯した罪を償うためにも。ボクは、いや、ボクたちは幸せにならないといけないんですよ。それが死んだ方への一番の供養だと思っています」
 羽賀さんはここで立ち止まり、しばらく天を向いていた。私も羽賀さんに習って同じようなポーズ。
 私の目に見えるのは、真っ青な空。そしてわずかではあるが白い雲が綿菓子のように浮かんでいる。その雲はゆっくりと風に流され、私の視界の左から右へと移っていった。
 その雲を見ながら、先ほど羽賀さんの言った言葉をかみしめていた。
「ボクたちには幸せになる義務がある」
 確かにそうだ。不幸だ、不幸だと思っていては絶対に幸せになることなんかできない。
 今日の夢で出てきたあの言葉「幸せになる権利なんかない」。これは確かにその通り。だから私は幸せになる義務を負って、羽賀さんと同じように多くの人を幸せにできるようにしていかなければ。
「羽賀さん。私、わかりましたよ」
 私は羽賀さんの方を向いて、そう言葉を発した。
「今、この瞬間から決意します。私は、私は……」
 次の言葉を出そうと思ったが、なかなか出せない。まだ何かが私に思いフタをしようとしている。だが、私は頭の中でそのフタを一気に吹き飛ばした。
 そしてこう言った。
「私は幸せになる決意をします」
 羽賀さんは私ににっこりとほほえんで、そして握手を求めた。その握手に応えるべく、私は両手で羽賀さんの手を包み込み、そして力強く握りしめた。
「笠井さん。これから歩き始めるんですね」
「はい。これからが本当の出発です」
 私と羽賀さんは、そうして再び空を見上げて、自然の空気を一杯に吸い込み、そして力強く歩き始めた。

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