信楽焼タヌキはなぜ”街中で目に留まらない”のか? part2
こんにちは、けいおうタヌキ研究所です。
前回は久々の投稿で「なぜ街中のタヌキが人々の目に留まらないのか?」について考察した。
今回はそのpart2、後半戦となる。
前半では「そもそも視界に入らないから目に留まらないのでは?」という理由について考えた。
ただし、どうもそれだけが原因ではないように思える。
(信楽焼タヌキってなんぞ?って方はこちら)
早速前回の続きから考察を続けよう。
◽️3.仮説(2) 視界に入るが、注目しない/意識に残らない
仮説(2)の場合、少なくとも「信楽焼タヌキが目の前にいる」ことは認識されている。
一方で、視界に入っているのにもかかわらず、タヌキに注意や関心を向けて写真を撮ることも、「タヌキがいる!」と反応することも、狂喜乱舞してタヌキ踊りに生涯を捧げることもないのである。
一体なぜだろうか…?
こちらは以下2つの要因を考えてみた。
信楽焼タヌキに「慣れ親しみすぎている」
信楽焼タヌキの「注目すべきポイントに気づかない」
つまり、タヌキの見た目が地味だから目立たないとか、反対に派手にすれば注目されるとか、そういったタヌキ側の問題だけではない。
タヌキを見る人側に原因があるということだ。
原因1.タヌキに「慣れ親しみすぎて」関心を持たない
こちらは幼い頃からタヌキを目にしているから、当たり前のもの≒今更目を向けるべきではないもの、と認識されているという可能性だ。
幼少の頃は身の回りのもの全てが疑問で溢れているはず。
当時は見るもの見るものに「なに?なんで?」をぶつけていたのではないだろうか。
おそらく、信楽焼タヌキもそんな中の一つであったと思う。なんとも奇妙な様相に、両親や知人へ「あれはなんだ」と聞いたはずだ。
一方、「あれはタヌキだ」と納得してから、多くの人はそれ以上の疑問を持たなくなったのではないだろうか。
すると、視界に入ったとて「あれはタヌキだな」と自己解決し、それ以上の疑問を持たなくなる。
つまり、慣れ親しまれることで注目すべき対象だと認識されなくなっていくのである。
ちなみに近しい存在として、街中で見かける以下の置物はいずれも不思議な姿をしている。
ガーデンノーム
招き猫
だるま
これらを街で見かけても、大半の人は気に留めていないように思える。
なぜ妖精が家の前にいるんだろう? とか、なぜ猫が手招きするんだろう? など、考えることもほとんどないのではないだろうか。
どんな奇妙なモノでも「慣れ」と「納得」によってそれ以上の関心を失い、注目されなくなってしまう可能性が高そうだ。
(反対に、海外で見たことがない人形がいれば写真を撮るし人形の正体を検索もするだろう)
原因2.タヌキの「注目すべきポイント」に気づかない
ただ、いくらタヌキに慣れ親しんでいるとはいえ、大きすぎる/小さすぎるタヌキや、明らかに変わった表情のタヌキがいたら注目されるのでは?
当初は私もそう考えていた。
しかし、実際はそんなタヌキたちですら注目されることは少ない。
そこでもう一つの要因として「注目すべきポイントに気づかない」ことを挙げたい。
これは、興味ないアイドルグループに抱く「みんな同じ顔に見える」という感覚に似ているかもしれない。
つまり、人々が「関心のないもの」を目にする時、押し並べて一つのカテゴリに括ってしまうために「個体の差異≒姿形や扱われ方の違い≒注目すべきポイント」に気づかないのではないか、ということだ。
近しい例として、私個人の場合は鉄塔が思い浮かんだ。
幼少の頃は目にする鉄塔すべてが東京タワーに見えて、見かけるたびに両親に伝えずにはいられなかった。
一方で現在は、街中で鉄塔を見かけても別段興味を持つことはない。「鉄塔があるな」程度の認識しか持たなくなっている。
本来は鉄塔にも大きさや形に多くの種類があり、置かれる場所によって目的も異なるだろうことが予想されるが、そうした点には疑問を抱かず押し並べて「鉄塔」と認識しているのである。
これを多くの人々にとっての信楽焼タヌキへ当てはめれば納得できる。
関心のない人々にとって、目に入るタヌキはすべて同じ「タヌキの置物」であり、見た目や置かれ方の違いのような「注目すべきポイント」を認識することはない。
結果として、街中でタヌキを見かけても「タヌキがいるな」以上の感想を持たないのである。
彼も「タヌキの置物」だし
彼も同じ「タヌキの置物」なのだ。
◽️4.信楽焼タヌキが目に留まらない理由は…
ここまで、タヌキが目に留まらない理由として仮説(1)そもそも目に入らないから、仮説(2)視界に入るが関心を持たれないから、という理由の詳細をそれぞれ考えてみた。
これらをまとめると、タヌキが目に留まらないのは多くの人々が以下の流れを踏んでいるからだと思われる。
そもそも街中の情報量が多すぎて「タヌキが視界に入らない」
視界に入っても、タヌキに慣れ親しみすぎて「注目すべき対象だと思わない」
加えて、タヌキ自体に関心もないから、「注目すべきポイント」にも気づかない
特に3つめについては、以下の図のように表現できそうだ。
つまり、タヌキへの関心が薄いほどタヌキという存在は抽象化され、すべてが「タヌキの置物」という言葉で一括りされるのだ。
(さらに言えば、人によっては信楽焼タヌキはタヌキですらなく「居酒屋を示す記号」の一つにすらなっているのかもしれない)
ファネルが下に行くほど信楽焼タヌキに対する解像度が上がっていく。
タヌキへ関心さえ生まれれば、見た目や扱われ方の違いにも自然と気づいてもらえるようになるだろう。
ともすれば、やはり信楽焼タヌキが人々に注目される世界を目指すにはタヌキの見た目や特徴を変えるだけではダメで、タヌキを見る人々側の認識自体を変える必要があるだろう。
◽️5.ここで生じるもう一つの疑問
最後に、1つ疑問が残る。
「あの置物は何?」
タヌキである。まぎれもなくタヌキである。
しかし、あらためて動物のタヌキを見てみてほしい。
そしてもう一度信楽焼タヌキを見てみよう。
本当にタヌキだろうか?
否、明らかに見た目が違うではないか!
二足歩行でずんぐりしていて、笠や徳利を持って微笑みかけるその姿。どちらかと言えば人間らしい見た目をしている。
一体、我々はどうやってこの置物を「タヌキ」だと認識したのだろう。
最初はどこかで謎の置物があると気づき、これはなんなんだと疑問が生まれたはずだ。それがいつの間にか当たり前のものになった。
テレビ番組なのか、街中で見かけて両親に教えてもらったのか、何かしらの「信楽焼タヌキファーストコンタクト(SFC)」があるはずだ。
ちなみに私のSFCは小学生の頃に家族で行った地元の中華料理屋だった。
皆さんのSFCの記憶と、その時に抱いた感情を覚えていたらぜひ教えて欲しい。
記憶にない方は好きなスーパーファミコンのカセットを教えてください。
◽️5.おわりに 謎多きタヌキ
そういえば、平成タヌキ合戦ぽんぽこでは、タヌキが人として人間の世界に溶け込む形で物語を終えていた。
街中に堂々と置かれながら、人の目に留まることはない信楽焼タヌキ。まるでそれは、人間世界に溶け込む選択肢をとったタヌキ達の、その容態を表してるのかもしれない…。
最後になるが、今回は「タヌキが注目されない理由」を考えた。
一方で、この世界には「人々の注目を浴びるタヌキ」も存在する。
その中には、記事内で述べた「見た目を変えるだけでは注目されない」という仮説に反するタヌキも見受けられる。
そこで次回は、そんな「注目を浴びる信楽焼タヌキとその理由」について考えてみたい。
本記事をもってタヌキ無関心層からタヌキ関心層へ進化を遂げた方は、ぜひけいおうタヌキ研究所と共に研究を始めましょう。
信楽焼タヌキをもっと知りたいという方向けの入門はこちら↓
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