デタラメな英語でのコミュニケーションを恐れるなという話

最近『Hive social』というSNSを始めた。Hive公式アプリはすでに総DL数200万以上とのことだが、まるで黎明期のTwitterを見ているようで、まだユーザーのほとんどが外国人、もっと言うと英語話者ばかりである。

幸いなことに僕には某スマホゲームで培った堪能な英語力があるので、日々の出来事を面白おかしく英語で投稿して楽しんでいる。外国人とのコミュニケーションは非常に楽しく、毎日の生活にハリが出て宝くじも当たり、異性にもモテるようになった。

もちろん嘘である。堪能な英語力なんて身につけていないし、別に日々の出来事を投稿してもいないし、何かを面白おかしく語るウィットも持ち合わせていないし、それ以降も全部嘘。某スマホゲームで必要に迫られてカタコトの英語を覚えたことだけが唯一の真実。

しかもそのカタコトの英語というのも、ちょっと冗談を言おうとがんばったりするとアメリカ人から「アァン、それはどういう意味だ?」と詰め寄られるようなレベルなのでまったく誇れるようなものではないというのが悲しい。

それでも僕はそのカタコト英語で何かを発信することがわりかし嫌いではない。なんなら日本語で何かを発信するよりもハードルが低いようにすら感じる。(まぁそれは外国語と比べて第一言語として求められるものが高いというだけの話かもしれないが。)

もちろん、昔はそこまで英語を身近なものとは感じていなかった。英語ペラペラには憧れるけどそのために今から努力する気にはなれないし、まぁ来世に期待しよう。多分にもれず、それぐらいのモチベーションだったはずだ。

少し考え方が変わったのは5年ほど前、仕事で取引先の営業さんと話していたときのこと。その営業さんは観光客の道案内くらいはできるようになりたいと英会話教室に通い、それなりの英会話力を身につけたという猛者である。

彼の話を聞きながら、すごい行動力だ、僕にはとてもできない、恥ずかしながら文法どころかSVCが何かすらよくわかっていない、なんてそんなようなことを言った気がする。すると彼は「文法なんてどうでもいいんですよ」などとのたまいだした。いやいや何を言っているのだろうかこいつは。まさかこの流れで自分の通っている英会話教室に勧誘するつもりか。そんな疑念が頭をかすめた瞬間、彼は爽やかに言い放った。

「外国人がカタコトの日本語で話しかけてきたとしても別にそれを笑ったりしないでしょう?」

その一言は僕にとても大きな衝撃を与えた。そう、言われてみればその通りだ。「トキョエキ、ドチイクデスカ?」なんて聞いてきた外国人に「勉強して出直してこい愚か者め」なんて言う輩はいない。大多数の人は優しい気持ちで親身になって応えるはずだ。

ただ相手に何か他愛もないことを伝えたいというときに、別に完璧な英語を使わなければならないなんてことはないのだ。少しぐらい意味が違ったっていい、単語の羅列だっていい。大事なのは伝えようとすること。文法なんて、接続詞も冠詞も複数形も現在進行系も別に適当でいいのだ。

これは間違いなく言い過ぎで決してそんなことはないのだが、とにかくこの日のことは僕に多大なる勇気と謎のおおらかさをもたらした。

もちろんこの考え方は相手が寛容であることを大前提とした甘えである。完璧な英語が使えるにこしたことはない。でも別にいいではないか。現在、高い英語力を求められる仕事をしているわけでもなければ、オフィシャルな場で英語スピーチをするような人生でもない。少なくとも僕が求めているのは、ただ言語の違う人間ともちょっと気軽におしゃべりをしてみたいだけなのだ。言葉を正しく使えないからという理由で口をつぐんでいたらいつまで経ってもなんにもできやしない。

だから、英語の正しい文法に過剰にこだわる必要はないと僕は思うし、そんな細かいことを恐れずに、相手に伝えたいことが伝わるように考えて、工夫して、言葉を紡ぐということの方が大切だと思う。

そうすれば、オンラインゲームやSNSでちょっと異文化に触れることができるくらいの体験には繋がるだろう。そういうことができた方が、きっと人生はおもしろい。

そんなことを考えながら、今日も僕は英語をきちんと修めた日本人が眉をひそめるような文法の英文をあくせく投稿するのだ。

受験生である我が息子に、父が適当英語の使い手だとバレないことを祈りながら。

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