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関羽は名将だよね。樊城の戦い時系列まとめ

三国志の正史は紀伝体なので、時系列がわかりづらい。ので頑張って時系列をまとめてみた。あまりに時間をかけたので、メモとして残そう。もしもご意見などあれば。

まとめて分かったのは、関羽に相対した将兵は皆、関羽を、高く評価していること。最大評価に近い。
孫権、呂蒙、陸遜も、内政もしっかりし恩徳、威信ともに荊州を覆っているとして、恐れ正面から高く戦うべきではないとし前々から計略をたて、かなり綿密に作戦行動に出ている。ちょっと引くぐらいだ。
むしろ、呂蒙、陸遜コンビ、完璧すぎる。完璧な占領作戦。これを不意打ちで食らったら絶対勝てない。曹操でも無理だと思うぞ。

外交、補給の失敗を関羽に求める意見は多いけれど(匿名掲示板とかでも)
これは呉の外交姿勢が変わった事が大きいのであって関羽のせいでは無いと思います。「関羽の武力を使って曹操を撃退」から「関羽の武力はほっておくと危ないので、今のうちに討伐すべき」に変わったあげく、名将名軍師が国を挙げて関羽を油断させる為に全力をつくしてます。
補給に関しては、軽視したわけではなく、銀英伝のアムリッツアと同じく、于禁の降伏で突然、当初の補給計画より二倍以上に、補給負担が増えてます。正史にもその因果関係が書かれています。丸々降伏ですし、飢えさせるわけにはいかないですしね。ここら辺を関羽の責任とするのは、少し酷だと考えています。

何が言いたいかというと、関羽がヘタレというより、呂蒙すげー。

関羽が北上したのは、仮節鉞を得てからと考えます。それ以前も北伐をしていますが直属部隊だけでは兵力が足りず撤退しています。
大規模北上が出来たのは、仮節鉞を得て、荊州同僚軍(糜芳、士仁等)を指揮下においたからこそ、同僚の関羽の処罰を恐れて離反したのも、仮節鉞の権力におびえたと考える方が自然だと考えます。
故に関羽北伐は独断ではなく許可を得てなのではいだろうか。

関羽の北上は七月以降ではないかと個人的推論に基づき修正

----ここから時系列
三国志正史(ちくま)●魏書、〇蜀書、△呉書

かつて     △糜芳は南群で失火し、関羽に咎められる事を恐れ、
         孫権と誼を結んだ
      ? 〇孫権が関羽の娘と孫権の息子との婚姻の打診、一蹴する

二十二年  ? △呂蒙が魯粛の後任として荊州(陸口)に駐屯
      ? △呂蒙が孫権に関羽を討伐する策を上奏
      ? △呂蒙、表面的には関羽に対して以前にも増して
         手厚い心遣いで友好関係を結ぶ
        〇法正、劉備に漢中進軍を進言
二十三年  ? 〇劉備、漢中進軍
      ? 〇武都へ呉蘭、雷銅を派兵するも撃退される
      ? 〇夏侯淵と対峙
     九月 ●曹操、兵を観閲し、劉備を征討しに西へ出発
     十月 ●曹操、長安到着
      ? ●曹仁、樊城駐留し関羽を征討
        (関羽、侯音との連携失敗、兵力が足りずに撤退?)
        ●侯音、宛で反乱
        ●曹仁、宛(侯音)を包囲
二十四年 正月 ●曹仁、侯音を斬る
      ? 〇劉備と夏侯淵の主戦場が定軍山に
        〇夏侯淵、劉備(黄忠)に斬られる
     三月 ●曹操、漢中で劉備と対峙
     五月 ●曹操、撤退、長安に帰還
        〇劉備が劉封、孟達等を上庸へ派兵
        ?劉備が漢中王となり関羽に前将軍内定の報が流れる
         (個人的推論)
        ?関羽北伐計画を立てる(個人的推論)
     七月 ●曹操、卞氏王后に立てられる
        〇劉備、漢中王となる(初旬)
         1日とか、キリの良い日ではないかな?
        〇関羽に前将軍、仮節鉞に任命
      ? 〇関羽、出陣(江陵から樊城へ)
         大雨に対応できたのは船での進軍だったからなのでは?
        △関羽、公安、南群に守備兵を多数留める
        〇関羽、樊城(曹仁)を包囲(中旬)
        ●曹仁を助けに于禁を関羽討伐へ派兵(中旬以降)
     八月 ●于禁捕虜へ、ホウ徳斬る
        △于禁軍を江陵へ輸送
        〇糜芳(南群)・士仁(公安)、関羽との不仲により、
         軍行動をサボタージュ
         関羽は兵数が少なく、包囲の決め手を欠きイライラ
        〇関羽、糜芳・士仁の処罰を発言
        △孫権、呂蒙の献策で病気を理由に呂蒙を更迭
        △後任、陸遜、関羽に樊城の戦いを称揚し、
         へりくだった手紙を送る
        △関羽は段階的に守備兵を北上させる
        △関羽軍、于禁軍の多数の捕虜の為、食料不足になる
        △関羽軍、呉の湘関で兵糧を奪い取る(実力で借りた)
        〇関羽の威で曹操領内の群盗などが一斉に蜂起
        〇曹操、遷都を考えるも、計略により孫権に北上を促がす
     十月 ●曹操、洛陽に帰還
        ●孫権から関羽討伐の要請あり、曹操南下する
        △孫権、関羽征伐軍を出陣させる
        △呂蒙、尋陽から、商人に化けるなどをして隠密急行し、
         関羽軍本体は気づかす
        △呂蒙、江陵を占領、関羽軍の父母を捕虜にし
         丁寧に扱い慰撫する、于禁釈放
        △陸遜、宜都などを占領、その後夷陵に駐屯、
         蜀から軍を警戒
        △孫権、公安派兵、士仁降伏
        △呂蒙、南群進軍、糜芳降伏
      ? 〇徐晃が樊城の援軍として到着
        △曹操は関羽に孫権が江陵を攻めているのを矢文で伝える
        〇関羽、撤退、江陵を目指す
        ●曹操、徐晃が関羽を敗退させていたため、摩ヒに駐留
        △関羽、呂蒙と使者のやり取りをする
         呂蒙は関羽使者に関羽軍の家族を厚遇している所を
         見せつける
        △孫権軍、関羽軍の父母を捕虜として手厚く対応し
         敵愾心を失わせ関羽軍四散させる
        △関羽、孫権本軍が来ることを知り東陽より西進、
         麦城で籠城。
        △孫権、関羽に降伏勧告
        △関羽、降伏を偽り、空城の計で逃走
        △関羽軍、兵が散り散りとなり十数騎従うのみ
        △孫権、朱然と潘璋を派兵し関羽の退路を遮断
        △潘璋の司馬、馬忠が関羽を捕縛
        〇孫権、関羽・関平を臨祖で斬る
        △孫権、はやり病の為、荊州の租税を免除
        △曹操、孫権を驃騎将軍、仮節、荊州牧に任命、
         呉の朱光等を釈放
        △孫権、呂蒙を南群太守に任命
         ほどなく呂蒙病気を発し亡くなる
二十五年 正月 ●曹操、洛陽到着。関羽の首が届く
        ●曹操、崩御(二十三日)
     二月 ●曹丕、皇帝となる
        〇劉備、皇帝となる

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