見出し画像

小さい富士さんへ

個人的な物語を始める前に、前提条件を話させていただけるならば、富士葵は2017年12月8日より活動を始めている、キズナアイを始めとするバーチャルYouTuber(VTuber)の先駆者のひとりである。

今では当たり前になっているけれど、当時先端的なクラウドファンディングを使った資金調達を行いモデルをバージョンアップ(お化粧直し)をさせ、人気を博した。自分はこのクラウドファンディングを調べていてチャンネルに興味をもったものだ。歌姫と評価されていて自分もフリージアを聞いた時に浄化されるような気持ちになった。今では音響も古いものかもしれないけれど、思い出補正で一番音質が良い曲に聞こえてしまう。

2018年5月にはメジャーデビューを果たすなど、歌方面での活躍が顕著だった。オリジナル曲をはじめ、カバーアルバムは各種配信サービスにて10冠を達成するなど破竹の勢いだった。

その後はVTuber文化は成熟し、真新しさや驚きは減っていった。富士葵chも事務所からの独立、活動方法を模索しながら、愉快な動画やライブ、新曲発表など紆余曲折を経て活動を継続している。

VTuberはSFのような先進性のある遊びだった


正直に言うと、芸能、ゲーム配信や雑談生主、歌、ライブ活動には、個人的に興味はあまり無く、機器の発達により容易に達成できる技術でしかなくなってきたVTuberの世界は、昔のような遊びができず興味を失いつつある。

にもかかわらず富士さんを見てるのは何故なんだろう。

一つには身近な存在のように思えるからだろうか。アイドルのような遠い存在ではなく、本当に身近に感じるパーソナリティ。努めてファンとの距離を近しいものにしようともしてる。親戚の子くらいな気持ちになってしまい、活躍が嬉しくなる。

そして富士葵から派生する二次創作物。様々な角度から表現が創作されていく様は愉快でたまらない。今後も創作を刺激する魅力的な媒介であってもいただきたい。

もう一つは苦労しているから。かもしれない。きっと見えない所では失敗もたくさんしてるのだろう。試行錯誤しながら手探りで先端を歩いている姿に勇気をもらっている。未来が不透明な現在にあってその姿は共感しかない。

だからこそ、ライブで放った「小さい富士葵を持って帰ってほしい」その言葉は自分にとって凄く意味があった。共感をもった人物の物語はリアルだ。
面倒くさがりな自分にとって、小さな動機を生み出してくれる。

自分の小さい富士さんは鬼滅影響で顔無い感じ(絵はトレス)

朝を起きる。おはようと挨拶する。企画を書く。実務をする。事務をする。都度に必要な連絡をとる。掃除をする。ガソリンを入れる。他人様に合う。世の中には細かく面倒がたくさんある。そんな時、スーツの内ポケットに入れてるアクキー富士さんに触り、逃げないように自分を奮い立たせることができている。

本当の富士さん、ノジョさんがどうなのかはわからない。世界は深夜のラーメンが一番おいしいし、自堕落は最高の娯楽だ。理想の人物像を仮託しているのも重々承知。でも、まぁ。自分の中にあって常に鼓舞してくれる小さい富士さんは確かに居るんです。

冷静に考えると困難に立ち向かい苦労する富士さん達を見ていたいという、酷いファンなのかもしれない。キレイな言い方をすれば、素晴らしいコンテンツを楽しみつつも、その副産物に物語を感じているファンなのだろうか。

ほんと、富士さんを見るまでは、サイリウムを振り回して応援する自分なんか想像できなかったのだ。(オタクなのだから素養はあったはずだが)自分が興味ない世界に、興味を持たせ続けさせてくれる存在は貴重だ。富士さんに興味を持ち続ける限り、VTuberに始まる新しい文化に興味を持ち続けるだろうし、自分には無い世界が見れるかもしれない。

その先にどんな未来があるんだろうか、見てみたい。

なんというか、ありがとう。


などと書いてると、まんま公式でモーパイしながら魅力解説をされてしまった。素敵。そうそれ。タイミングが良すぎる。なんか恥っず。38万分の1の気持ちをAoi ch.に。

ファン主催の企画『富士葵ちゃんと振り返る Advent Calendar 2022』に参加した、にぎやかし穴埋め記事です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?