2018年9-10月に本を読んで考えたこと

思い出そうとしている。しかし、この2ヶ月については、自分が何をやっていたのかを上手く思い出せない。断片的なメモはあるし、日記はつけていたから、日々を重ねていたことは確かなのだけど。そこには日々しかなかったのかもしれない。まとまった物語に還元が出来ないような時間の流れ方だった。

それにしても、この2ヶ月はこんなに仕事以外の本を読んでなかったんだろうか。記録が少なくてびっくりした。人事論とか仕事の本は結構読んだ記憶は確かにあるのだけれど。

■思弁的実在論と現代について(千葉雅也)
何か、現実と哲学の接続する断面を見つけられるのではないかと思って読んだが、自分の学習が追いつかず、読んでもなんだかはっきりわからなかった。学習の問題だけではなく、精神状態の問題もあったのかもしれない。

■ビットコインはチグリス川を漂う
結局は出自から逃れることはできない。というのが、最近考えていることの一つだ。その成り立ちや歴史のコアな部分は、その存在をどこがで規定している。仕事で、(自分は関わっていなかった)あるプロジェクトへの会社としての熱の入り方を見ながら思っていた。
物事も集団も個人も出自からは逃れることが出来ないだろう。だからこそ、やがては過去になる日々を、丁寧にかたち作りながら重ねなくてはいけない。
また、僕らは案外正しく歴史を理解していないと言うこともよく考える。歴史なんて結局為政者によるでっち上げなのだとしたら、その意図やその裏側に隠れた本当の史実を求めなくてはいけない。そうでなくても、僕らは歴史をシンプルに理解しようとし過ぎる。
(閑話休題で、最近の漫画って、こういう「隠された歴史」系の話が多い気がするけど、何かを反映してるんだろか)

というわけで、ビットコインに心酔しない立ち位置から、それを含むお金の歴史の俯瞰図を示して、現代から未来への足がかりを見せてくれる本だったと思う。

現代、あるいは未来。マネーはレジも財布も通過せずに、ただ立ち寄り点なしに遠くまで一気に移動したがっているらしい。
そんな話はどこかでも聞ける話だが、歴史をしっかり経た上で語られる未来の話は単なる技術論空想話とは違う知的快感がある。
ただ、落としどころの一つに「評判」(ある種の評価経済?)があって、妙に残念だった。僕は評価経済とか、価値の流通の未来に評判を価値換算するようなあり方があるのが、どうも心地よくない。もし本当に必要なのだとしたら、人気投票や人格コントロールにならないないかたちで、どうにか評価評判が経済に果たす役割を作れないのだろうか。そこをケアして考えたい。

(テクノロジーによって)「交換媒介物、価値の貯蔵手段、会計単位、価値の尺度としてのマネー従来の機能はそれぞれ切り離すことができ、それぞれの機能を異なる手段で実行することができるという考え方」が整理したというのは面白かった。
テクノロジーは混合されていた機能を分解させることが出来る。プレーンな機能分解出来るというのはマネーの話だけではないだろう。例えば、郵便とか。

■余談(9月くらいに書いたメモ)
所有の概念が一つの分岐点なのかもしれない。
それは、狩猟民族が農耕民族に変わる瞬間に起こったことだ。これまで獲ったものを分かち合うことを前提にしていた人々が、生産カロリーの増大によって、蓄えを作り、やがて格差を作った。蓄えとは所有のことだ。それは宗教や技術発展も生み出した。
プナンの人々には所有の概念がなく、ものは勝手に使い合ってしまう。お金も返さない。子どももどんどん養子に出される。そういえば、ヤノマミ族の子殺しもそうか。
今、時代の変化の中で所有の概念が変わりつつある。中古市場もシェアリングエコノミーにもその息吹が見て取れる。
例えば、シェアリングをすることを前提に共同購入し、それをブロックチェーンの仕組みなどで(広義の)平等に使用し合うようなサービスもすでにある?かもしれない。
ただ、これは狩猟の時代のように死が身近な世界ではないだろう。死を身近なものでなく、社会の隠された領域に押し込めたものの、死というものの本質の前では僕らは進歩をしていない。

■余談(10月上旬のメモ)
一般論として。面白くない理由に、意味や内容がよくわからない、というのがあるなら、一度それが本当に面白くないのか疑った方が良いと思う。、
なんか面白い読書が出来ていない感じがするが、それは上記の理由ではない。だからといって逆でもない。
もしかすると、そろそろピンチョンの重力の虹にもう一度チャレンジすべき時なのかもしれない。過去、2回読もうとして、2回とも上巻で挫折した。時は満ちただろうか。

■余談(10月下旬のメモ)
ガンダムのことは一度どこかでまとめないといけない。

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