「記憶にございません!」 三谷幸喜

憲政史上、最も自由な総理。総理の恩師からの言葉に、ぐっときた。
記憶をなくすということは、たしかに人格が変わることだ。
記憶というしがらみから解き放たれることは「自由」といっていいのかもしれない。だけど、それは君たちは「記憶」に縛られているんだよという揶揄のような気もしてならない。
人の本質というのは「記憶」だと思う。私たちは、「目」からの情報に大半を縛られている。だからなのか、記憶が同じで見た目の違う人と、見た目は同じで記憶が違う人とを二項対立で比べがちであるが、それは「目」からの情報ありきでものごとを考えただけに過ぎない。最初から目の見えない人や生き物からしたら、記憶が違う時点でもはや別人である。
つまり「記憶」にはそれだけの人の行動と、周囲の関係性を決定づけるインパクトがある。逆に言うと、インパクトのある行動、決定を行うためには記憶にしばられているとできないということになるし、記憶によって思考を方向づけてしまっていると、柔軟で奇抜な発想というものは出てこない。
「記憶」のインパクトをあらためて考えさせられた良い機会となった作品でした。

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