Vol.1.A: いそまると寺井一択からはじめるパチスロ動画批評

 いそまるは稀代のスター(superstar)である。時代の寵児と言ってもいい。いかにそれが、このあまりに小さなコミュニティ内の話だとしても、だ。無名の若者が一躍スターダムへと成り上がったその軌跡に、我々は満腔の敬意を表すより他ないし、ゆえに彼を先の言葉で形容せざるを得ないのである。業界は彼を、より大きな舞台へと押し上げるべきだと私は思う。

 寺井一択は、天才(genius)だ。彼はこの業界で誰よりも面白いし、才能に満ち溢れている。それは、彼の能力が演者もしくは芸人(あくまで広義な意である)としてのものにとどまらず、動画の構成や演出の監督力にさえ及んでいる点にあるのだろう。彼は恐らく、さらに大きな舞台で輝ける素養をいそまる以上に持ち合わせているだろうし、この業界にとどまっていてはいけない人間だと私は思う。

 そう、寺井一択は天才なのだ。にもかかわらず、彼はこの業界で時代の寵児になれなかった。少なくとも、まだなれていない。どう贔屓目に見ても、あまりに多くの数値で彼はいそまるの後塵を拝していると言わざるを得ないのだから。逆に言えば、いそまるは寺井一択より優れた芸人とは言えないにもかかわらず業界No.1の地位を手中におさめ、今もなおその座に君臨している。

 この興味深い2人の関係、業界のトップを走る二名の特徴と決定的な違いを解き明かしてみると、我々はなぜスロパチステーションがこの業界で前代未聞の人気を博しているのか、ひいては、この業界とそのファン、そしてこの二人が目指すべき道についての論理的洞察にたどり着くことができる。

 端的にいうと、私はこの業界のリテラシーと知性、そしてモラルの欠如を嘆いている。そこにはファンも、業界人も含まれている。この「あまり知的とは言えない営み」に知性を求めるほうがお門違いだという批判は的を射ている。それでも私は、ほんの一縷の望みをかけてこの文を綴る。

 私は学問と教育に従事してきた人間である。物事を可能な限り客観的かつ論理的に批評する営みは、私の芸術観ならびに人生観の形成に大いに役立った。私が愛する文学と映画には、数多くの批評家が存在する。彼らは、そして批評という営みは、彼らの業界におけるコスモロジー(宇宙観、端的にいうと、自分がどのように外界をとらえているかという視座)の形成との業界そのものの発展に大いに寄与してきた。この業界には、そういう人間がいない。いるのは、ただ自分の感性に任せて演者や動画に罵詈雑言を浴びせるだけの愚者である。「負けたから」というだけの理由で台のレビューに酷評を書き連ねる幼児である。正直、気が滅入る。

 私は、このあまり知的な営みとは言えないこの娯楽を、知的に考察しようとする人間が一人ぐらいいてもいいのではないかと思っている。少なくとも、感想や感覚を言語化しようとする人間が少しぐらいいたって困らないのではないかと思っている。みんながそうなる必要はない。だが、そういう人間がもう少しでも増えたなら、この界隈はもう少し住みよい世界になる気がするからである。ただ「嫌い」、「うざい」、「気持ち悪い」と自分の感性を投げつけるのではなく、なぜそう思うのかを内省し、言語化し、それでもなお彼らが批判に値すると信じるのであれば、それを論じるかたちで業界人に訴えればいいのではないかと思うからである。これは何も、パチスロに限った話ではないのは重々承知している。でも、私はテレビを一切見ないし、パチスロ演者を除けば、いわゆるYoutuberなるものの動画を見たことがない。2だか5だかちゃんねるなどという類のものを見ることもないので、いわゆるネットの言語やノリが私にはわからない。鼻から門外漢なのだ。

 それでも、私は私なりにこの業界を愛している。他の「あまり知的とは言えない営み」には対して興味がないけれど、この「自分が愛する営み」における「同胞たち」にこうも親近感を覚えることができないのは、どこか悲しい。だから、私は「パチスロ動画の批評家」として殿を務めることで、少しでもこの業界の受信者の、ひいては発信者の批評力を向上できればと願うのである。これはその手始めとして綴った、おそらく人類史上初の、パチスロ実践動画批評である。

~続~

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