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【読書メモ】 「90年代の若者たち」島田潤一郎

読んだ。「90年代の若者たち」


・本を読んだり、映画を観たり、音楽を聴いたり、テレビを見たり。こうしたぜんぶは、自分を満たすためだけではなく、だれかとつながりたいから、やっているのではないか。

・ぼくのなかになにもない。ほんとうに話したいことなど、なにひとつない。でも会いたいし、しゃべりたいから、口角泡を飛ばしながら、SMAPのことや、マンチェスター・ユナイテッドのことを話す。

・かっこいいものは、突然目の前にあらわれ、幼い子や若い人を魅了し、遠くへ連れ去る。そこには知識や経験は関係なく、センスさえも要らない。

・自分たちが幼い遊びをしていることは理解していたが、こわれてしまった自意識のなかでは、部活に夢中な男の子たちよりも、ヤンキーたちよりも、自分たちがいちばんかっこいいということになっていた。

・CDの爆発的な普及をきっかけに、時間の厚みにたいする感覚が失われていった。すべてが、フラットになっていった。

・大学生のぼくは、いつでも「ほんとうのこと」を求め、「ほんとうの自分」に出会いたいと願っていたが、それはぼくの頭のなかにしかない、「ロッキング・オン」に出てくるミュージシャンのような自分だった。

・若いころは音楽と文学に夢中だった。そんなふうにいえば聞こえはいいが、本とCDがなければ、うまく生きることができなかった。

・なにが線路で、なにが赤で青で黄色かは、意味がわからなかったけれど、歌詞カードを見ながらこの歌をうたったいると、不思議と涙が滲んだ。オザケンがいれば、ぼくは大丈夫、とすら思った。

同世代のぼくの友人が「サニーデイは男の子の甘い感じがして、苦手だった」といっていたが、20歳のぼくはその「甘い感じ」に完全にやられていたのである。

・フィッシュマンズの音楽は好きだけど、ぼくはそれと同じくらい、佐藤くんのルックスが好きなのだった。あんなにかっこよく帽子を被れるひとはいないし、あんなにも明るい色の短パンが似合うひともいない。
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・それまで聴いていたロックという音楽が、アーティストとリスナーとの心と心の強い結びつきによって担保されていたとしたら、キリンジは最初から荒野へと逃げるようであった。理解されてたまるかり美しいメロディと美しい声で、そういうのである。
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・パッとしない若者たちは、目の前の現実を破壊したいと願うか、あるいは、現実のすべてと縁を切って、地下に深く潜り込みたかった。

・社会の空気は90年代から2000年代に入り、大きく変わっていた。90年代が音楽の時代だったとするならば、ゼロ年代はインターネットの時代だった。ぼくたちはもう、同人誌をつくらなかった。

・人生で痛い目に遭い、失恋をして、ときに誰もいない場所へ逃げ出したくなったり、死にたくなったりした。ずっと好きだった子と初めて手をつないだときのよろこび。大好きなひとが死んでしまった日のこと。今日この場にいるひとたちはみな、そうした人生の節目節目に、聴いてきたのだ、と思う。

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