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この世でもっとも美しい風景は早朝の江津湖と私の心の中にだけ存在する ” 旅先で『日常』を走る ~spin-off⑬~ "

2023年2月24日、金曜日。仕事の都合で滞在している長野県松本市にある『信州まつもと空港』から、夕方の便に乗って私は九州に向かった。

今回の渡航の目的は、日曜日に大分で開催される『大分うみたまごシーサイドたすきリレーに参加するためである。じつは、去年のこのレースにも総勢6名でエントリーしたのだが、その時は全国的な新型コロナウィルスの感染増加によって、開催が中止になってしまった。それでも、有志4名が大分に集結して雨の中を走るオフ会を開催したのであった。去年は現地に来ることができなかった2名もリベンジを心に誓い、今年の大会に改めてエントリーをした。

飛行機は19:35頃に福岡空港に到着した。ちなみに、信州から大分への航空便は存在しない。

まずは、中州川端から天神の街をぐるりとブラついてみる。学生っぽい若者たちのグループが目につく。まだそんなに遅い時間帯ではないが、けっこうお酒が入っている様子が見受けられる。コロナ禍の頃とは打って変わって、週末の夜らしい賑わいがすっかり戻ってきているようだ。

小腹が空いていたのでどこか適当な店に入りたかったのだが、どの店も行列ができている。小一時間歩き回って、ようやく天神の屋台に一席だけ空席を見つけることができた。

瓶ビールと本場の豚骨ラーメンを堪能したところで、次の目的地に向かう。とはいっても、ここから直接大分に向かうわけではない。天神バスセンターで高速バスに乗り込み、熊本に向かうのだ。

1997年、社会人になった私は4月1日付けの辞令で熊本に赴任することになり、半年ほど熊本市水前寺で暮らしたことがある。右も左もわからずうろたえるばかりの若者に対して、熊本の大人たちはただただ親切に温かく接してくれたのだ。私にとって、熊本は第二の故郷だと今でも思っている。

日付をまたぐ直前にバスは水前寺公園前の停留所に到着し、私はすぐ近くにあるホテル『エクストールイン』にチェックインした。

若干睡眠不足気味ではあるが、翌朝はがんばって早起きした。ランニングウェアに着替え入念に準備体操を済ませたら、さっそくホテルを出て走り出す。

今日のルートは江津湖一周。
江津湖とはこのホテルの裏側に広がる湖で、地域に暮らす人たちに愛されている憩いのスポットだ。などと知ったような口で説明している私だが、じつは水前寺に暮らしていた頃は江津湖の存在を知らなかったのだ。

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新卒で入社して早々、ゴールデンウィーク前に店長の辞令が下った私は、その後1年半ほどをほぼ休みなくパラメーターを仕事に全振りして過ごした。水前寺に借りた部屋は新築で過ごしやすい間取りだったので、とても気に入っていた。しかし仕事を終えて部屋に戻るのは毎日25時前で、翌朝は8時25分発の電車に乗らなければならなかったので、寝ていた記憶しかない。
さすがに数少ない休日に水前寺公園には行ったが、インターネットが普及し始めたくらいの時代に江津湖のことを認知する余裕はなかったのだった。

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思い出話はさておき、江津湖に向かって進んでいこう。

右手には、江津湖を水源として市内を抜ける加勢川が流れている。普段の生活では見ることのないくらい「透明」な川面に、心が洗われる。

水面を軽快に進んでいく鴨の姿が目立つ。

散歩をしている人は散見されるが、ランナーの姿は私のほかには見当たらない。

そのまま進んでいくと、釣り人の爺さんと彼を取り囲む数名の年配の男女、そして猫と鷺が目の前に現れる。

釣り人が釣った魚を猫たちに分け与えるのが、ここでのお約束のようだ。

そのまま道なりに進んでいくと、いよいよ湖が見えてくる。

ここが上江津湖だ。

澄み切った空気と、静寂を破る鳥たちの鳴き声。司会一面に広がる果てしなく透明な水面。この時間帯の江津湖を全身で享受するために、朝寝坊の私はがんばって早起きしてきたのだ。

” 昔はこの一帯は沼沢地だったが、加藤清正が西側に清正堤を築き、湧水を堰き止めたので江津湖になったという。(中略)上江津湖のスイゼンジノリ発生地は、国の天然記念物に指定されている。熊本の正月料理に使われる水前寺もやしもここの湧水で育てられている。水前寺から江津湖周辺にかけては、「水前寺江津湖湧水群」と呼ばれる非常に清冽でたくさんの湧水が存在する。”

熊本市ホームページ

今日は2月にしてはやや暖かめの気候で、ふと脇を見やると梅の木が花を付けていた。

江津湖に足を運ぶのは、今日で4回目になる。

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最初に足を運んだのは2019年10月。ラグビーのワールドカップが開催されていて、熊本でも試合が組まれていた。高校時代にラグビー部だった私は、せっかく日本で開催されるのならぜひ生で観てみたいと願った。どうしても熊本の試合を観たかったわけではないが、1万円の席に空席があった会場は熊本と大分しかなかったのだ。当時大分にはほぼ縁もゆかりもなかったので、熊本で『フランスvsトンガ』の試合を観ることにした。

試合はトンガが大健闘して、大盛り上がりだった。結局フランスが薄氷の勝利を収め、下通のパブではフランスサポーターたちが『ラ・マルセイエーズ』を夜通しがなり立てていた。
私がその日に宿泊した宿がエクストールインだった。その時、部屋に置かれていた『近所のお散歩マップ』的な紙を見て、江津湖に行ってみようと思いついたのだった。江津湖の存在自体はこの前の年に知る機会があって、せっかく水前寺にあるのなら一度行ってみたいと考えていたのだ。

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これまでの3回は上江津湖を散策したのみだったが、今日はランニングということもあって下江津湖まで足を伸ばすことにした。

上江津湖と下江津湖の間は、また加勢川でつながれている。いったん湖を離れて川沿いを進んでいく。

ほどなくして、緑地公園のような敷地に入ることができた。

上江津湖と比べて、視界に入る人の姿が少ない。市街地から離れているからだろうか? 前日に雨が降ったようで、足元に水たまりや泥濘が目立つようになった。気を付けて進もう。

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初めて江津湖に訪れた後、私は長崎・福岡・大分と旅を進める算段をしていた。当時「全国47都道府県すべてで走る」を自らに課していた私は、長崎では島原を走り、福岡では昔住んでいた(じつは、熊本の次には福岡に赴任していた)部屋の近くを走る予定だった。残るは大分。どこを走ればよいのか見当もつかない。そうだ、所属するランニング部の大分に住んでいるメンバーに聞いてみよう! 
これが、私と大分の接点のきっかけになったのだ。ちなみに大分在住の彼も高校時代ラグビー部だったらしい。

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遊歩道を進み、川の上を横切る橋脚をくぐっていく。

さっきまで透明だった川面が、やや朱を帯びている。

ふと前に視線を移すと、まさに日が昇っている最中だった。

熊本は日本の中でもかなり西方に位置するので、日の出の時刻も遅いのだった。

しばしその美しさに見惚れた後、気を取り直して走り出す。しばらく進むと、左手に観覧車が見える。「なんの施設だろう?」 気にしながら進んでいくと、その入り口に行き当たった。

熊本市動植物園南門。おそらく裏口なのだろうが、こんなところに動物園があったのかと、元住民としては新鮮な驚きを感じた。

と、よそ見をしてはいけない!

アスファルトの路面が突然レンガ調に変わり、しかも凹凸が生じている。私の左足のつま先がその突起に引っ掛かってしまい……
思いっきり転倒してしまった。膝が痛い。血が出てる。患部が痺れている。「ここでリタイヤかな?」脳裏によぎる。汗拭き用にポケットに入れてきたハンカチを患部に当て、しばらく様子を見る。どうやら、まだ走れそうだ。

無理のないペースで進めば大丈夫だろうと、ふたたび走り始める。

下江津湖は上江津湖よりも一回り大きく、停泊されているボートの姿が目立つ。また、大学のボート部が使う手こぎのボートが何艘も陸に置かれている。

下江津湖を半周回ったところで、車道に上がる。

土曜日の朝はスロースターターだ。車の流れは緩やかで、人影もまばらな道を進んでいく。

湖の南端を通り抜けたところでふたたび一段下がり、湖沿いを進む。

このあたりでは少しランナーの姿が見える。一部舗装されている道もあるので走りやすいからだろうか?

下江津湖をほぼ一周したところで加勢川に渡る橋を渡る。その後、一旦住宅街の路地に入り込む。

この道を抜け、上江津湖に戻る。

右手の広場にはキッチンカーやテントなどが置かれている。日中はここで気持ち意識高めなイベントが行われるようだ。

道端に『ノルディックウォーキングコース』の看板が見える。この一帯が協会公認コースとのことだ。私も上江津湖に赴いた2回目と3回目は、ノルディックウォークでこのあたりを散策した。

早朝のランニングも心地よいが、この静寂と透明感を満喫するにはノルディックウォークも楽しい。

すっかり日が昇った上江津湖では、鴨の姿も消えて水面は凪いでいる。その透明感を満喫しながら、足を止めて小休止しよう。

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社会人としてのスタートを切った熊本に、その後も人生の節目になると通い詰めるようになった。父の還暦旅行を無理やり九州に決めて、二人で熊本城に登ったり、40歳の誕生日をここで迎えたり。悩み事があるとふらっと訪れて街をふらつきながら思索にふけったり。
私は来月で50歳を迎える。自分が歩んできた人生に特に不満があるわけではないが、この先の人生を今までの貯金を食いつぶすだけで過ごしたくはない。そんな意気込みで、現在は長野で研究と仕事を両立させて暮らしている。しかし、4月以降どの道をどのように進んでいくのか、まだなにも決めていないのだ。

まあ、すべてを準備万端整えたとしても、思った通りの人生を歩めるわけではない。それくらいの真実は、50年も生きていれば身に染みて理解している。やるべきことをやった後は、ただ運と巡り合わせを待つしかないのだ。
だからこそ、自らの過去を振り返り現在地を見定めて行く先に目を凝らす。そのために、今回もわざわざ熊本まで足を伸ばしたのだ。

さあ、あとは加勢川沿いのさっき通った道を戻ればゴールが待っている。
宿に戻ったら、ビュッフェスタイルのブレックファーストが私を待っているのだ。

そして、チェックアウトした後はサウナ『湯らっくす』でゆっくりと汗を流し、

熊本在住経験のあるランニング仲間推薦の『スリランカくまもと』でランチを摂る。

その後は18:30に予約されているディナーに間に合うように、のんびりと大分に移動するのだ。

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宿に戻ると、ロビーの壁に『江津湖てくてくマップ』が掲示されていた。

「この施設のスタッフの方々は心底江津湖が好きなのだろうな」と、一見しただけでも分かってしまうハンドメイドな作り。そういえば私が初めて江津湖に行った時、宿のアンケートにその旨を記載して渡したら後日自宅に自筆の丁寧なお礼状が届いたことを思い出した。

食事を採った後、部屋に戻る。
ランニングタイツに目をやると、左の膝小僧の部分がダメージジーンズのような裂け方をしていた。タイツをまくってみると、なかなかの擦り傷が一面を覆っていた。

こんな状態で明日のレースは大丈夫なのだろうか? まあ、心配は無用だろう。

別にタイムを競いに行くわけではなく、大分に住む、そしてこのレースに合わせて全国各地から集結する仲間たちに会って、楽しい話と旨い鶏肉を堪能することが目的なのだから。



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