ユートピアについて その38…空想旅行記から非ディストピアフィクションへ

反ユートピアから逆ユートピアへ…ディストピアフィクションの構造

 ユートピアという語はモアに端を発する空想旅行記風の体裁をとるもののほか、より純化された政策提言集や、社会改革のための空想的プランをも含む広い範囲の著作物を意味する。(著作物に限らなければ、「空想的社会主義」の語に見られるように、「実現可能性を考慮しない絵空事」「青写真」という揶揄を含んだ、いっそう広い意味をも持つ。)これらのうち、現代のディストピアフィクションの直接の祖先と見做しうるものは少ない。多くは叙述の調子があまりに無味乾燥であり、ディストピア=最悪社会に対峙する者の衝撃や決意を赤裸々に語るものではない。鼻祖であるモアの『ユートピア』はひとまず措くとしても(これにしたところで端々に見られる言葉遊びを除けばその筆致はひどく乾いている)現代のディストピアフィクションの多くは小説であり、この小説という形態は欧州では十八世紀になってようやく誕生した新興ジャンルであって(そして現代の日本人が小説という場合もしばしば南北朝~唐宋の伝奇小説ではなくこちらを想定している)、人物の心理の動揺に密着してこれを叙述するという方法はモアから二世紀余り経ってようやく生まれてくる。そして小説の方法が逆ユートピア=ディストピアと結びつくまで更に一世紀以上の時間を要する。
 いわゆるディストピアの類型が固まる以前の「反ユートピア」的フィクションとしては、初期の小説である『ガリヴァー旅行記』や、そこからさらに百年ほど後に出た、数々の「ユートピア」的作品を揶揄する『エレホン』等がある。しかしこれらは従来のユートピア的作品と同じく外部からの旅行者による記録、著述の体裁を取っており、著名な「ディストピア」作品の中でもアレックスや侍女オブフレッドに最も典型的にみられるような、一人称の語り手が状況に翻弄される様子をリアルタイムに赤裸々に語り起こすという近代小説的な構成をとるものではない。
 心理主義に代表される、状況と格闘する人間の心理的動静を克明に叙述する近代小説の方法論が反ユートピア的フィクションに合流した作品のうち、初期の著名なものとしてはエフゲニー・ザミャーチンの『われら』が挙げられる。これは『若きウェルテルの悩み』『パメラ』等の書簡体小説の系譜上にあるもので、西暦26世紀の「単一国」に住む宇宙船技士の日記という体裁で書かれている。したがって、書き手である技士の心理を直接的に書いているが、語られる出来事と語りの間の時間的な開きが大きい。とはいえ本作は逆ユートピア=最悪社会に住む一個人の視点から、これに対する反発と抵抗の軌跡を描き語ったという点で、従来の旅行記型反ユートピア作品と一線を画している。
 要点は、いわゆる三人称と一人称のどちらで書かれているかではなく、ディストピア=最悪社会に包囲された主人公の戦いが描かれているか否かにある。茂市順子は『時計仕掛けのオレンジ』を扱った論考の中でディストピアフィクションの典型的な構造を要約している。

ディストピアの主人公は,よそからやってきた訪問者ではない。つまり新世界と客観的に距離を保つことのできるアウトサイダーではなく、その社会で生きる一人の人間である。読者はこの主人公の主観と彼/ 彼女に起こる出来事を通してその社会について知ることになる。自分の置かれている環境に不満足で、煩悶し、憤り、もがき苦しむ主人公の価値観や道徳観は、大抵読者のそれと似ているように設定されている。故に、Huxley のSavageが望む「不幸になる権利」やOrwellのWinstonが信じている 「人間としての精神」というものが、読者が望み信じていることと合致することになる。つまり、ディストピアの内部で起きる倫理的に納得のいかないようなことや非人道的な事件に対し主人公たちが反射的に希求するものが、読者にとっては眼前の悪夢的な世界に立ち向かう力であり、恐ろしい未来に進むことを食い止めてくれるものと映るよう、設定されているのである。

茂市順子「「多相化」するディストピア -A Clockworks Orange(1962)再考-」2008年、『明治大学教養論集』432号、p. 83.

 ここで三つのことが言われている。一つは、ディストピアフィクションの主人公は外部からやって来て一時的に滞在する旅行者ではなく、長くその社会に住んでいる住民であること。今一つは、主人公は「理想社会」の内部者であるにもかかわらずその社会に疑問を抱き、これに敵対的な態度や行動を示すこと。そして最後に、主人公が反抗の中で抱く新たな善の理念は読者である西側世界の価値観と一致し、ディストピアフィクションは全体として読者の持つ善の理念を支持し強化すること。
 第一の点について、『すばらしい新世界』のバーナード・マルクスをその典型として挙げることができる。彼はフォード紀元の未来世界に生まれ、物語が始まる時まで画一的な超弩級の快楽主義社会から出ることなく過ごしてきた。第二の特徴については、同作では野人ジョンがその役目をいっそう強く果たすものの、バーナード・マルクスも快楽主義社会に適合できない人間として描かれており、この要約にあてはまる。そして第三の点について言えば――『すばらしい新世界』は事実上二人の主人公を持っているためにこの役割についてだけは完全に野人ジョンのものとなるのだが――フォード紀元の未来世界に反抗する彼が抱くのは自殺をも含めた個人の自由の観念であって、イギリスで書かれた本作の当時の読者も、そして現代日本の読者の多くも、野人ジョンが身を賭して示した善の理念に共鳴する。ディストピアフィクションは、全編を通して描かれる「最悪の社会」の執拗なディティールとは裏腹に、その含意において読者の知る善の理念=「最善の社会」像を強化し、鼓吹する機能をも持つことになる
 一方に悪であるディストピアの体制があり、他方に善である主人公(と、それに共感する読者)がいる。主人公が敗北するにせよ、勝利するにせよ、前者であれば読者はディストピアに対する恐れと主人公に対する哀れみを抱き、後者であれば素直に喝采を浴びせる。おどろおどろしい「最悪の社会」の様子を描いてみせても、それは実のところ、読者の予め持つ善の理念を裏切ることはなく、その理念を改めて検討する機会をも与えない虚仮威しである。少なくとも、このような善悪二元論をベースにディストピアフィクションが読まれるとき、読者はただ悪と戦う善を応援していれば足りる。

ディストピアフィクションに対する疑義…現代のSFからの作例

 近年真面目な問題として指摘されるのは、「社会を支配する悪を見出し、善の代表者としてこれに対し戦う」という典型的なディストピアフィクションの構造は、陰謀論者の世界観に極めて近しいものとなるという点である。新型コロナウイルス感染症の拡大やロシアによるウクライナ侵攻よりも前から、SF小説の中には、従来のディストピアフィクションの態度を相対化する作例が見られてきた。以下に二例を挙げる。
 小川哲の『ユートロニカのこちら側』はディストピアフィクション風の舞台設定を用意しつつ善悪二元論的な態度に対する冷ややかな視線を提示し、最終的に微温的な家族の物語へ着地させている。全五章から構成される本作は、前半部で「ユートピア」であるアガスティア・リゾートが描かれ、同時にあらゆる個人情報を経営母体の企業へ売り払うことで生計を立てる住民という独特の社会の姿を読者に提示する。それはモアの『ユートピア』をいっそう深化させたプライバシーの消失であり、16世紀初頭に悪しき私有財産の否定という企図から描かれた私的領域の消失は、現代の読者の目にはプライバシー権の侵害という最悪のものと映る。己の情報を企業に売る市民は、企業にとって有益な情報を出力するようにその生活規範さえも変えていくが、それもまた近代的自由の観点からは非難の目で見られるものである。しかしながら第四章にて画策される反アガスティアのテロリズム計画は失敗する。のみならず、失敗するテロリズムに至る反アガスティアの態度は日本における進歩的党派(すなわち、近代的価値観の善性を第一原理として、ディストピアフィクションの主人公に声援を送ると想定される者)と重ねられている。第四章において両者に共通する態度は「すでにそれを支持している者同士の結束を固めはするが、公共的な合意をとりつけることができる類のものではない」と要約される。ここで揶揄される本邦の進歩的価値観は、高原英理が「修正全体主義」と呼んだところの、帝政日本末期の国家主義に対する反動として出現した進歩主義――「民主主義と自由平等への疑いのなさ」、「世界は左翼的発想による社会変革の方向に向かっていてそれはもう止められない」という「固定観念」――を彷彿させる。
 近代的人間像や善の理念が恒久的なものでありえないなら、モアの『ユートピア』がディストピアに見えるようになったのと同じく、従来のディストピア観やディストピアへの態度も別様に見えるようになりうる。
 酉島伝法『るん(笑)』はこの視座をいっそう推し進めたもので、いわゆる疑似科学やスピリチュアリティにまつわる知識が一般的となり、読者のよく知る医療や世界観の体系が不合理なものとして排斥される世界を描きながら、それに対抗しようとするところの、読者と同じ価値観を持つ人物を登場させない。読者はひたすらに異様な世界を覗き見ることになるのだが、その世界に叛旗を翻し、読者の確信を再確認させる人物や出来事は排除されている。
 酉島はTwitter(現X)上でディストピアフィクションの構造について次のように語っている。

 補足すると、『るん(笑)』がいまの状況を描いているように見えるのだとしたら、この国で連綿と続いてきたスピリチュアル、疑似科学信仰、知識に対する忌避感みたいなものの流れ全面的に展開したから。

 ふとしたきっかけで誰も知らない真実を知って不正と戦う、というのはエンターテイメントの王道的な物語構造で、実は陰謀論とも親和性が高い。真実を知っている優越感と、それを広く伝えるという正義感の両方が満たされる。

 それもあって『るん(笑)』では誰も謎を追わないアプローチをとった。そういう世界を内側から当たり前に描くことで、なにか見えてくるものがあるのではないか、とも考えていた。という感じです。

酉島伝法、ツイッターアカウント@dempow、2021年7月21日、2023年3月30日参照。

 ディストピアフィクションは、読者が既に持っている価値観を強化する以前に、「誰も知らない真実を自分だけが知っている」という事実自体が強い快楽を与えるものとして機能する、と酉島は指摘する。ディストピアフィクション的物語構造は、それを受容した者に優越感を伴なう快楽を与えるとともに、真実を知った者を行動へと駆り立てる鼓吹の機能をも持つ。「行動へ駆り立てる」という点について言えば、本邦の神真都Q(やまと-)の構成員が新型コロナウイルス感染症に対するワクチンの集団接種を妨害しようと集団行動をとった一件はその典型といえる。

Qアノン日本版メンバーか、4人逮捕 ワクチン接種の会場に侵入容疑、朝日新聞、2022年4月7日、朝日新聞デジタル、https://www.asahi.com/articles/ASQ4745CSQ47UTIL018.html(2023年9月16日閲覧)

 ディストピアフィクションの物語構造が必然的に神真都Qのような市民社会に悪影響を与える団体の発生を帰結するのか、そしてまたそのような現状を方法はどうあれ打破しようとする勢力をただ不合理と一言で評価して済ませてよいのか(そのような態度はかえって抑圧的な社会を帰結するのではないか)、という反論は考えられる。他方で、『ユートロニカのこちら側』でも指摘されていたこととして、現代の西側の同時代的危機は、当局による抑圧よりも、主権者とされる人民ひとりひとりによるプライバシーや自由の自発的放棄にこそあるのではないか、と言うことができる。通俗的なアイコンとしてのビッグブラザーは冷戦期における「善と悪の戦い」の象徴だった。2023年現在の西側世界の危機は、ウラジーミル・プーチンでも習近平でも、ドナルド・トランプでもなく、ドナルド・トランプを選んだ人民とかれを選ばなかった人民の間の断裂ではないのか。

 同じことを繰り返し書いている、進歩がない。
 ここから続きを書いていくにあたっては、そもそも陰謀論一般についてどのような性格があるのか、また2023年現在台頭するQアノンを初めとする陰謀論団体はどのような特徴を持つのかという点について書籍なりウェブ上の記事なりにあたらなければならないが、それができていない。本節の冒頭でディストピアフィクションと陰謀論的世界観の関連性について書いたが、今回の記事ではそこには触れられそうにない。
 陰謀論を扱う書籍を置いている図書館が自宅からやや遠い位置にあり、最寄りの図書館に取り寄せようか自分の足で行こうか迷っている。
 ただ、最近になってモア論を数冊と『22世紀の民主主義』を購入したので、そちらから目を通していくこととしたい。ヘクスターはユートピア島の制度の厳格さをモアの人間観に見出したが、専門的なモア研究の文脈ではどのような判断が為されているのか? この点を確認してみたい。

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