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褐色細胞腫闘病記 第4回「絶望エアロビクス」

駅前に新しく建設されたそのエアロビクス教室は大盛況だった。
田舎にしては珍しいデザイナーズマンションが一棟借り上げられ、様々なカルチャー教室が各階に展開されている。

私は今回で2回目だが、正直、初回で既にこの運動に音を上げていた。動けば動くほど動悸がして、冷や汗が出た。私のクラスは初心者クラスなのでそれほど難しい動きはない筈だが、ありえないほど疲労し、心底苦しかった。

真っ赤なレオタードを身に着けた先生がやってくる。
初回の時の先生とは違う。これは美人だ。真矢みきにちょっと似ている。
「ハァイ♪ みなさぁんこんにちわぁ~っ♪ 今日も一緒に頑張りましょ!」
真矢先生から元気いっぱいのオーラがシャワーのように振りまかれる。
ううう、頑張らなくては。私は深呼吸をして呼吸を調える。

「はい、では皆さん、始める前に1分間脈を測りますよ。脈が100以上ある人は今日はお休みしてください。無理は禁物ですよ♪」
え、初回では脈は測らなかったんだけどなと思いながら、私は黙って脈をとる。左手首に右手の3本の指を当てて1分間。
・・・120、121、122、123、124。
「はーい、1分です。100以上あったら今日は運動禁止です。どなたかいましたか? 挙手してください」

え?え? 100以上が異常なのですかそれは本当ですかあの今私124回触れたんですけど私どうかしてますよねダメですよねこれって数え間違いですかねありえませんよねどうしたらいいですか・・・ぐるぐるぐるぐる思考が巡る。

早く挙手しなければ。でも、先生の笑顔は「ま、いないだろうな」前提の満面の笑顔だ。ここはこの空気、前向きの空気をしっかと読まなければ。一連の流れを止めるとみんなに迷惑がかかる。
私はぐるぐるの思考の中から「数え間違いですかね」だけを抽出し、自分にピタリと纏わせる。

「さあ、呼吸を調えながら、ゆっくり手足を動かします、まずは大きく息を吸って~ハイ、両手を思いきり前に!  そしてぐーっと引きます、そうですそうです。みなさんいいですねぇ♪」
軽快な音楽に乗せて、だんだん動きが速く大きくなる。
「ハイ、ワン、ツー、スリー、フォー、ワン、ツー、スリー、フォー!
そうそう、その調子!  皆さんいいですよっ♪」
真矢先生の張りのある声が教室に響き渡る。

走る。止まる。その場でジャンプする。足を上げる。腰を伸ばす。ああ、苦しい。いつまでこんなこと続けなければならないの。もうやめたい。つらい。苦しい。でも、ダメ、弱音を吐いてはダメ。早く健康にならなくちゃ。運動をすれば頭痛からも解放されると医者は言った。動悸もなくなると言った。早く元に戻りたい。苦しくない生活を取り戻すんだ。早く普通に冬にはセーターを着て、動悸息切れめまい頭痛をごまかす生活から抜け出すんだ。

唐突に、目の前が回る。
気持ちが悪い。ああああ・・・吐く!
私はトイレに走る。
思いきり嘔吐する。便器に広がった吐瀉物の色は緑色だ。
ああ、みんなができることを私はどうしてこうもできないの。
闇が広がる。人の声が遠く聞こえる。私はゆっくりとトイレに倒れこむ。
「キャーッ!  大丈夫ですか?」誰かが私の顔を必死で覗き込む。

私のその時の思考は本末転倒で、「運動ができないから体が変になっているんだ」という考えに取り憑かれた。
私の脳はマイナス思考でしかものを考えられなくなっていた。
それほど、正直、毎日参っていた。
大学病院に行っても診断がつかない私の日々の苦しさ。
運動すれば治るというならなんだってやると誓ったのに、なのにその運動自体がこんなにつらくてできない。
「情けない」・・・その時の感情は、ただそれしか存在していなかった。

だが、もうこの時点で既に私の病気は手遅れなほど進行していた。
後から分かったことだが、この状態で運動負荷をかけるのは絶対禁忌、下手したら頭の血管が切れて即死でもおかしくはなかったと言われた。

救護室で寝かされていた私は「大丈夫です」を念仏のように唱えながらタクシーを使って帰宅した。とても自分で運転はできなかった。
家に帰って薄着に着替え、何気なく血圧計を腕に巻いた。

ブーーーッ…そういえば、この血圧計壊れていたんだったよな。
私はぼんやりと数字を待つ。

「185-165」

…はい?

ダメだこれは、完全に壊れてる。もう買い替えなくては。
その時、家の電話が鳴る。私は血圧計を外して立ち上がる。
立ち上がると、誰かが私の後頭部にハンマーをおろす。いや、違う。
これは、またあの頭痛発作だ。
・・・痛い。

痛い 痛い 痛い 痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!

ぐわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ! いたたたたたたたたたたたたた!!

私は頭を抱え、床にゴロゴロと転げまわった。ドラマで大げさにこんなことしている人を何度も見たことがあるが、まさか自分が頭抱えてゴロゴロ人間になるとは思ってもみなかった。
そして気が付くと床が真っ赤だ。どうやらこれは鼻血だ。ああ、もう駄目だ。私は死ぬだろう。痛い!

・・・どれくらい頭を抱えていただろうか。
頭痛は遠のいた。ああ、良かった。
しかし、このままエアロビを続けていてもいいんだろうか。

どうしたらよいかわからなくなって、私はロキソニンを飲む。
どうせ大して効きはしない。でも、これしか今の私にはすることができないんだ。絶望という二文字が目の前をよぎる。いやいや、何を言ってるの。なんともないって言われたじゃんか、2人の医師がそう言ったんだ。

床の鼻血を掃除し、私は何事もなかったようにふるまった。
今日のことは家族には黙っていた。それに来年私は結婚する。
誰にも心配をかけたくない。

私はもう一度深呼吸をして、自分に言い聞かせる。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
明日はサイクリングに行こう。お弁当を作って出かけよう。エアロビはダメだったけど、のんびりサイクリングなら大丈夫なはず。
ぶるん、と大きくかぶりを振って、私は心の奥に潜む不安の芽を思いきり振り落とした。





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