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ありふれた地方に住む、ありふれた若者とその家族の特別な物語。

「どこぞの、あの子が、今度、何かするらしいよ」「誰っち、あそこの息子かい?」「そうそう、今、福岡の大学に行きようあっちよ」「おお、そうなん、もう、そんな歳かね?」「もう、今年卒業じゃないんかね」

田舎まちでは、特定の人物を話題にするとき、このように話が始まる。

「母里(ぼり)の大ちゃん、今、作品を制作しよって、あそこで展覧会しようらしいよ」「大ちゃん、母里さんの息子の?」「そうそう。今、九産大に行きようけど、こっち帰ってきて、母里さん手伝いようらしい」

ここで言う「母里さん」は、母里聖徳さんという福岡県水巻町出身の彫刻家であり、NPO法人アイアートレボの代表として、筑豊地域を中心に、アートプロジェクトを企画してきた人物である。

母里さんは結婚を機に、田川にやってきた。母里さんの拠点は、奥様のご実家である料亭「あをぎり」だった。「あをぎり」は昭和9年に建てられた歴史のある料亭で、田川市のちょうど真ん中くらいにある。

2014年、僕らが取材した人は、その「母里さん」ではなく、その息子の母里大徳(ぼりひろのり)さんだ。

母里大徳さんは、前述のとおり「ひろのり」という名前だが、みんなから「大ちゃん(だいちゃん)」と呼ばれているので、僕らもそう呼んでいる。

大ちゃんは、ありふれた地方のありふれた若者だ。

そして、大ちゃんは、田川という地域の地理的中心地で育ち、彫刻家の父親と120年以上の歴史を持つ料亭「あおぎり」の女将である母親の子として、美術と文化に触れながら、育った若者でもある。

今から、ありふれた近所の若いお兄ちゃんの、特別な物語を紹介していく。そして、これは、ありふれた地方に住む、ありふれた家族の、特別な物語でもある。

美術に向かうきっかけは、ゲームボーイを買ってくれなかった世界的アーティストとは無関係だった。

ー大ちゃんって、今、何歳だっけ?

あと少しで22歳です。生まれたのは父親の地元の水巻町らしいですけど、すぐに田川に来たそうです。なの で、ほぼこっちですね。田川小学校、中央中学校、そして「天下の田川高校」です。 でも、高校は大嫌いだったんですけどね。

※田川地域で唯一「大学に進学するための高校」であった田川高校は「天下の田川高校」と呼ばれていた。

ー1996年から2006年 の10年間、田川では「コールマイン田川」というプロジェクトをやっていたけど、その時は、何歳くらい?

その時は、4歳から14歳ですかね。そのときの記憶は、まあ、ありますけど、それが今の自分にとってこんな影響が…っていうのは全然なくて。

でも、僕の中で、あの時期に川俣正という人が、この家を出入りしたり、親父と話し合ったりしてたことについて、今、いろいろと考えることはありますね。

※「コールマイン田川」とは、世界的なアーティストである川俣正が田川で行ったアートプロジェクトのこと。母里聖徳さんは、このプロジェクトの中心人物だった。

ーなにか覚えていることはある?

どうでもいいことなんですけど、川俣のおいちゃんに…

ー川俣のおいちゃん?

今、そんな風に言ったりはしないですよ!でも、当時は本当にそう呼んでたんです。友達みたいなに思っていたとか、そんなことでもないんですが、当時は本当にそう呼んでたんですよ。

それで、ゲームボーイがほしくて「買って」って親に言ってたら「このおいちゃんが一番お金持っちょうき」って言われて、それで川俣のおいちゃんに「買って!買って!」って言ってて、でも、結局は買ってもらえなかった。

ーへー、面白いエピソードですね。

川俣さんが美術の世界で凄い人だっていう認識がなかったです。中学生の僕にとっては、川俣さんはただのおいちゃんで、なにやっている人なのか、結局、わかんなかったです。当時は、コールマインプロジェクトがアートプロジェクトっていうことも全くわかってなかったですし。

美容師が美術の世界へ入るきっかけに

ーお父さんが彫刻作家であることも知らなかったんだよね?

はい。すべては高校3年生の夏まで、全く知らなかったです。田川のhacoとか小倉のSOAPとかで何かやっていて、あと趣味でオブジェを作ってるみたいな、そんな感じの認識しかなかったですね。

だから、同級生とかに、親父のことをあまり話したくなかったんですよ。反抗期もあったし。お母さんは「おをぎりの人」って言えたけど、お父さんのことは・・・言いたくなかったですね。

ーそれで、どうして知ることになったの?

高校の進路選択の時、僕は、ファッションとか美容とか美容専門学校とかに行きたいって話をしてました。そしたらお父さんから「その方面に進むなら美術を勉強した方がいいんじゃないか」って言われて。

お母さんにも同じようなことを言われて…でも、反抗期だし、言うこと聞くわけないんですよ。「美術とかしたくないし、専門学校に行けば、すぐに美容師になれる」とその時は思いました。

でも、お父さんからは「美術的な感覚を身に付けてから行った方がいいぞ」って、ずっと言われてて。そんな時に、お父さんがチクスキの社長の江藤さんに頼んで、ファブリックのメイクアップアーティストのmadokaさんと話をできる機会をつくってもらって…

※チクスキは、筑豊地域で発行しているフリーペーパー。

※ファブリックは、田川市と飯塚市にある美容室。

ーそんなことがあったんやね。

そこでmadokaさんに「メイクをやっていて、上に行けば、結局、美術的な感覚が必要になってくるし、私が君の立場だったら大学で勉強させてもらいたい。君のお父さんの言うことは全然間違ってないよ。いいお父さんじゃん」みたいな感じで言われて。それが大きなきっかけになりましたね。

それで、家に帰ってすぐ「俺美術の大学行く。何をしたらいい?」って聞いたら「それならデッサンしなきゃ」って言われて。親もびっくりした感じでしたね。それから、絵の勉強をすることになりました。それが高校3年の夏休みですね。

青春時代、ありふれた若者が、田川の中心で何を叫んだ?

ーでも、そもそもファッションとか美容師とかへの道はなぜ?

動機は不純です。今もそうなんですけど、高校生の時って、モテたいんですよ。今は、男女関係なくモテたいけど、高校生の頃は、やっぱり女の子にモテたいじゃないですか。僕、全然モテなかったんです。美容師とかモテそうなイメージじゃないですか。だからです。安易ですよ。

ーちなみに、高校生の時は、部活とか入ってた?

スポーツをやってました。いや、やってたというより、囓ってたみたいな感じですね。スポーツ、かっこいいなって思ってて。よく分からない「美術」より「スポーツ」でしたね。

小学生の頃は合気道とか。中学では、剣道とか卓球とかをやってました。高校でバスケをしたけど、キツくて一年で辞めました。色々やったんですけど、どれも結局続かなくて…

ーへー、バスケやってたんだ。

でも、練習がキツくて・・・僕、根性がないんです。やり始めたスポーツを続けた経験がないことは、僕のコンプレックスの一つですね。

ー学校が休み日は何してたの?

友達と家に泊まって何か喋ってましたね。女の子みたいな感じですよね。

ーゲームとかやってたの?

いや、中学生の頃はしてましたけど、高校に入ってからは全然やってないです。

ーそしたら、友達と家に泊まって、いったい何の話をしてたの?

「モテたい」みたいなことをみんな言ってました。いつも「結局、俺たち、モテるようなこと、何にもできてないな」みたいな話をしてましたね。

ーそこでも、やっぱりモテたいというのが話題だったんだ。

そうですね。モテたいというか、注目されたいという気持ちは、ずっとありますね。

父親との関係の変化と大学進学

ー大学では何を専攻したの?

彫刻を専攻してます。

ーそれは、彫刻家であったお父さんの影響?

いや、影響とかではないんです。僕の行ってる大学の芸術学部美術学科では、1年生の時、油絵も日本画も、全部経験するんです。それから2年生に進学する時に、コース分けをします。

一年生の終わりにコースを選ぶんですけど、その時は、今よりもまだファッションとか美容とか方に進む気持ちがあったんで、僕は美術学科彫刻コースを選びました。

立体的な感覚を養った方が良いと思って。メイクも、髪の毛も身体っていう立体の一部だし。

-「メイク」も「髪の毛」も立体の一部って、確かにそうやね。それで立体を学べる彫刻コースに進んだんやね。

立体を勉強した方がいいっていうのは、親からも教えてもらいましたけど、自分でも思ってました。親は「とりあえず、立体をやっておけば、平面も出来る、立体でいいと思うよ」って言ってて。

的確なアドバイスだなと思ったのもあって、それで彫刻に決めました。でも、親が彫刻家だからって意識は全然ないですね。

ーその頃には、お父さんの言うことを素直に受け取れるようになってた?

はい。だいぶ、変わりました。特に高校3年の時、デッサンを始めてから、親父との会話が増えたんです。夏休みから高校を卒業するまで、毎日、絵の勉強のために、直方の阿部塾に行ってたんですけど、描いた絵は帰る時に必ず写メってたんです。家に帰って、それを親に見せて。

ーお父さんから「見せて」って言われたの?

そうですね。でも、僕自身も見せたかったんです。塾に行った一番最初は、石膏像を描いて。それを写メって。家に帰って「今日、石膏像描いた」って言ったら「写真あるん?見せて」ってお父さんに言われて。

恥ずかしかったんですけど、見せたら、すごく褒めてくれて。「そげん良いの?」って自分で思って。とても嬉しくて、それから会話が増えましたね。

お父さんとは、その日描いたデッサンを見ながら絵画の話をしたり、美術の話もしました。それ以降、日常会話も増えたと思います。

ー大ちゃんが描いた絵をダメ出しされたことはある?

初めて見せた時、お父さんは、描いた絵自体が「良い」とか「悪い」とかじゃなくて、「対象を捉える感覚が良い」って褒めてくれました。

でも、ダメな時は「全然捉え方がダメよ」って言ってくれて。あの人、教えるのが上手いって思うんですよね。褒めながら、ダメな時はダメって言ってくれるし。

ーお母さんにも絵を見せてた?

見せましたけど、お父さんほど見せてはないです。お母さんに見せても意地悪なこと言ったり、上から目線で「いんじゃない?」とか言ったりするだけなんで。

ーお母さんも絵を描いてたんよね?

描いてました。お父さんとお母さんって、確か、阿部塾で出会ったんですよ。二十歳のときくらいに。

ーそうなんだ。初めて知った。

もしかしたら、秘密にしてたのかもしれないですね。言ってしまった・・・

父親の手伝いを通じて知った黒田征太郎さん

ーお父さんが企画するイベントのお手伝いを始めたのはいつくらい?

最初は黒田征太郎さんの「GOTTON」の時です。あの時は高校3年の夏でしたね。ちょうどデッサンを始めた時でした。

親父から「美術を始めるんだったら、これを手伝ってみろ」って言われて。その時に観た、黒田さんのライブペインティングのパフォーマンスは衝撃でした。「ああ、これが美術かぁ」って思って。

※「GOTTON」は2009年7月11日に福岡県飯塚市で行われた「GOTTON LIVE FESTIVAL」のこと。著名なアーティスト黒田征太郎さんがライブペイントワークショップを行った。

ーあのイベントでは、6枚の大きな木製パネルの上に、たくさんの参加者がアクリル絵の具とかで自由に描いていたよね。参加者には子どもからご高齢の人まで、たくさんいて、それぞれが感じたまま、自由に描いていた。そして、出来上がったその絵の上から、黒田さんがその一枚ずつに、大きく「G」「O」「T」「T」「O」「N」って描いていくパフォーマンスよね。

正直、黒田さんが描いているパフォーマンスには、感動しなかったんですよ。だけど、その後の周りの反応にびっくりしたんです。

黒田さんが書き終わった後、「おー」とか「さすがだなー」とか「すげー」とか歓声が上がって。お父さんも「すごかったなー!」って言ってて。

これがすごいん?って。みんなが凄く感動しているのに、衝撃を受けて。黒田征太郎さんは、その時から好き、というか憧れです。やっぱり、かっこいいです。

作っている作品がどうとか、そんな細かいことじゃなくて、人としてかっこいいと思うんです。アレをやっててモテてるんで、憧れます。実は、明日、宮崎まで黒田さんを観にいくんですよ。

ー黒田さんは、大ちゃんが作品を作るようになったきっかけになっているんやね。

きっかけですね。今、僕が作品みたいなものを作るのも、ペイントみたいなことするのも、黒田さんが関わったあのアートイベントがあったからです。影響されてるだけなのかもしれないですけど、やっぱり、黒田さんはかっこいいです。

アートプロジェクトを通じて出会うアーティストたち

ー話を聞いた今、大ちゃんの作品やパフォーマンスを思い出すと、今まで以上に、作品がおもしろく見えるね。

たくさん見てほしいし、作品を分かって欲しいです。そういえば、黒田さんだけじゃなくて、中村貞仁さんにも凄く衝撃を受けてます。高校3年生の時にhacoでのインスタレーションの展示を観に行ったんですが、それが凄くて。

ー展示スペースを全部大きな絵で埋め尽くした作品やね。

当時、デッサンの勉強を頑張ってたんです。そんな時に、サダさんの凄い展示を観て、そこで、サダさんが美術教育をほとんど受けてないって聞いて、衝撃でした。

それで、それから一週間、デッサンに行かなくなりましたね。美術教育を受けてないのに、あんなに凄い作品を作るサダさんに、凄く憧れました。だから、僕が影響を受けてるのは、黒田さんとサダさんですね

ー中村さんは、黒田さんと少し違って、どちらかと言うと内に秘めているタイプだよね。

はい、そうですね。

ーお父さんのアートプロジェクトを手伝ってると、沢山の人と出会うでしょ?

お父さんのことは、大学1年生の時に、がっつりイベントに関わるようになって、だんだん分かってきました。

それは、お父さんはかつて彫刻家だったこととか、ちょっと前から作品を制作していないこととか。

そして、今、お父さんは、直島とか越後妻有とかみたいなアートプロジェクトをしようとしていることとか。そういうのが、だんだんと分かってきましたね。

ーお手伝いしていく中で、お父さんと色んなものが繋がったんやね。

はい。お父さんがやっているアートプロジェクトには、黒田さんがいて、レインボー岡山さんがいて、安倍泰輔さん、ユキンコアキラさん、國盛麻衣佳さんがいて。

こんなに一緒にやっている作家さんがいるなら手伝いたい、見てみたいって思って。そこで、出会った作家、全員に衝撃を受けました。

ーちょっと前に福岡現代美術クロニクルって展覧会があったけど、その中で田川が紹介されている展示は、どれもお父さんが関わっているイベントやったね。川俣正さんが関わった「コールマイン田川」も紹介されてた。

その展覧会を観に行った時には、お父さんのことや、川俣さんのことも分かってて「紹介されるだけのことはやって来ている」と認識してたので、驚きはなかったですね。

ーお父さんはそうやって田川のアートを作ってきたけど、大ちゃんはこれから田川で何かをしようという想いはある?

いや、それが、僕は自己中心的なんで。田川に何かを残したいとかよりも、自分が何をしたいかってことばっかり考えています。自分でも自分のことばっか考えてんなって思います。

ー大学卒業後は?

卒業後は、何も言えないです。就活もしてないし。家を出るかとか、出ないかとか、色々と有耶無耶だし。僕、結構しゃべる方なんですけど、将来のことは全く分かってないんで、何も言えないんですよ。

ーもうすぐ大学を卒業するよね。卒業制作は進んでる?

いや、ネロボタニカとかで展示した作品と川崎町商店街で展示した作品を出そうかと思ってます。

※ネロボタニカはボタ山をイメージしたテナントビル。

ー制作について、作品のコンセプトはいつも考えてる?

考えますねー。注目されたいっていうのがあるから、アートが分かる人じゃなくて、普通に僕の友達だったり、おっちゃんおばちゃんだったり子供だったり、色んな人に反応してもらえる作品が作りたいって思ってて。

現代美術って普通の人からは遠いんで、普通の人にも分かってもらえるようなものが作りたいって思ってて。

大衆ですね。僕達のこれからはそういう風にしなければいけないんじゃないかって、僕の中にはあります。アートをもっと需要のあるものにしなきゃいけないって思ってます。

川崎商店街で作品を作っている時も、おばちゃんに話しかけられたり、車で通る人がわざわざ停車して、作品を見てくれたり、そういうことがあったんで。

ラブヘビとか、光る作品とかも、目立つし、沢山の人に注目してもらえるっていうのがあります。まだ、突き詰めた表現は出来ないですけど。

※ラブヘビはアートプロジェクトの中で、大ちゃんが制作した作品。

ーでは、最後の質問です。あなたにとってヤマってなんですか?

僕にとってのヤマですか。そんな好きな山もないしな。えー、やっぱ自分すね。自分なんすよ。先のことを喋ってても、例えば、美術のこととかでも、こういうことをした方が良いとか、何となく、自分では色々と分かってるんですよね。

でも、分かってても僕は肝心なところで逃げているんですよ。美術のことを考えたら、僕は田川に居ちゃいけないし、現実的なことを考えたら就活しなきゃいけないし、働いた方がいいし。

自分の頭の中ではわかっているし、自分の弱いところもわかっているんですけど。それと戦っていかなきゃいけない。やっぱ、ヤマは自分っすね。

2014年4月に発行「ネゴトヤ新聞vol.2」より)

取材:炭坑夫の寝言

写真:長野聡史

編集/デザイン:佐土嶋 洋佳

イラスト:マルヤマ モモコ

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