見出し画像

年末年始の帰省旅行で考えたこと

皆様、本年もよろしくお願いいたします。
年末年始は完全に休みモードに入っていたのと、そのあとに溜まった仕事に追われて、「週に一度」と言っていた更新もこのタイミングになってしまいました。

画像1

年末、どうにか仕事を納め、自家用車で北陸道を西へと走ります。今年は異常なほどの暖冬で、おととしの冬にはクルマが何日も閉じ込められた富山・石川県境、石川・福井県境も晴れ渡っていました。帰省にはちょうどよかったんですが。

画像2

奥さんが一足早く実家の和歌山県へ帰省していたので、後を追います。途中、京都府の宇治市に立ち寄り。18歳の時から15年間住んでいたので、わざわざ立ち寄るのも少し変ですが、ちゃんと訪れるのは3~4年ぶりだったので、気持ちは本当に「立ち寄る」という感じでした。そしてJR宇治駅から宇治橋通り商店街へと向かう道すがら、目立つのは外国からの観光客。その人たちをターゲットにした宇治茶のお店、カフェなどもものすごい数に増えていました。一昔前は京都のはずれの地味な観光地で、年配の日本人が少し訪れるくらいだったんですが、インバウンド効果というやつでしょうか。
そして少し路地を入ると、リノベーションされた古民家にセレクトショップや洗練された飲食店などが入った施設もありました。表通りの喧噪とは違って、こちらを訪れる人は若い日本人が多い印象でした。ただ古いだけではなく、ハード・ソフトとも新陳代謝が進んでいく街はとてもよい街だと思います。ただ万人に向けた展開は、イオンモールのような場所以外ではもう難しいと思うので、こうやってエリアごとに棲み分けされる形で、街の姿は変わっていくんでしょうか。

画像3

宇治を離れ、少し時間をとって歩いてみたかった、奈良市内の「ならまち」に投宿。夜は個人経営の洋食屋さんやバーをハシゴし、翌日はならまちをスタートして近鉄奈良駅から奈良公園、興福寺近辺を散歩してきました。30年ぶりくらいに訪れた興福寺の国宝館はリニューアルされていて、落ち着いた雰囲気で有名な阿修羅像などを鑑賞。昔はお寺に行っても退屈だったんですが、飽きずにいろいろ眺めていました。歳でしょうか。奈良の国宝だと、1,300年以上前に作られたものがゴロゴロしているので、そこから時を経て今に伝わるまで、どのくらいの時代の変化をくぐり抜けてきてきたのか、いくつも歴史の物語が綴れそうです。
途中で見つけた、奈良市営の「吉城(よしき)園」もよかったですね。大正建築で庭園が一望できる豪邸があって、縁側に座るとぜいたくな気分を味わえます。ヨーロッパ系の外国人観光客以外はほとんど人もおらず、知る人ぞ知る感じ。ただ調べるとここには高級ホテルの建設計画があるそうで、この眺めも時を経てまたお金持ちのもとへ帰っていくのか、と少し残念な気持ちに。計画は当初より遅れているらしいですがどうなるんでしょうか。

画像4

奈良から和歌山までは2時間ほど。富山から和歌山までぶっ通しで走ると6時間近くかかりますが、途中で何回か寄り道すると案外苦痛でもなかったりします。本当に急ぐときは困りますが(笑)奥さんの実家近くには、八朔が鈴なりの畑がたくさん。ひたすら茶色い景色がひろがる冬の富山とはかなり違う風景です。なぜか懐いてくれている義理の姪甥たちとも再会し、大晦日まで楽しく過ごさせてもらいました。
和歌山滞在中には、日本で一番短いローカル私鉄、紀州鉄道に奥さんと二人で乗りに行きました。元県民の奥さんも存在を知らなかった超マイナーローカル私鉄ですが、私は社会人になってすぐに職場の研修仲間との旅行で和歌山へやってきて、たまたまこの紀州鉄道に出会ったことが、鉄道趣味に進むきっかけになりました。真夏なのに冷房もない一両の古びたディーゼルカーが、ゴトゴトと田んぼの中を進んでいく光景は、今でもはっきり覚えています。それ以来、二十数年ぶりに乗車した紀州鉄道は、車両こそ新しくなっていましたが(信楽高原鐵道からやってきたそうです)、その他は駅が少し改修されていた以外は本当にそのままでした。子供やお年寄りがポツポツと乗っている様子も当時と変わりません。少しタイムスリップしたような往復1時間の旅でした。
※最近は「鉄道むすめ」がデビューするなど、新しい動きもあるようです。

画像5

和歌山では、奥さんいわく「県民なら誰でも知っている」という、グリーンコーナーへも行きました。お茶の製造販売会社が経営している軽食カフェみたいなお店で、名古屋で言う「スガキヤ」みたいな感じです。安いラーメンやご飯ものなど心惹かれるものがありましたが、お昼ご飯は済ませていたので抹茶ソフトで我慢。京都にはこういう「地元民にしか知られていないご当地グルメ」はあまり残っていないので(全国区になるか無くなるかのどちらか)、少しうらやましい気持ちになりました。

画像6

そのあと私の両親が住んでいる京丹波町へ。年末年始は両方の実家を回るのが恒例になりました。両親はリタイア後、宇治のマンションを引き払って、趣味の農業に打ち込める中古の家を買い、田舎暮らしを始めました。子供たちはまったく継ぐつもりがないので多分一代限りになると思いますが、健康な間はノビノビ好きなことをしてほしいです。ただ真夏に熱中症になりかけながら畑仕事をするのはやめてほしい(笑)。
年が明けて、京丹波町から北に少し行ったところにある、福知山市大江町の父方のお墓へ新年の挨拶に行きました。ここは子供の頃、お盆と正月になると必ず足を運んでいた懐かしの場所です。家を守っていた祖母が5年前に亡くなってからは足が遠のいていました。

画像7

今は住む人もいなくなり、たまに父親やそのきょうだいが空気の入換にやってくるだけになった祖父母の家。佇まいは昔のままですが、置いてある物が少なくなったり、庭の草木が枯れていたりと、緩やかに最期の時に近づいているようです。この家も、末っ子の私の父が年老いたあとは見る人もいません。城端でもあちこち空き家だらけですが、自分の身に少し関係する空き家を目の前にすると、どうすればいいのかわからなくなります。きょうだいで話し合って、当面は残された祖母の貯えを家の維持にあてるそうですが、鉄道の駅も近いし(京都丹後鉄道)、何か商売や地域振興に活用してもらった方が、ただゆるやかに朽ち果てていくよりもいいように思います。でも誰に貸す(or譲る)のか、修繕をどうするのか、集落の人たちの合意をどうやって得るのか・・・離れて暮らすきょうだいの間で意見を調整したり、法的な問題をクリアしたりと、気の遠くなるような手続と手間がかかるだろうな。私の父のきょうだいが、これを乗り越えていく姿が想像できません。この問題に向き合うには、とても大きな労力と覚悟が必要になってきます。
こんなやりとりや悩みが日々全国で持ち上がり、繰り広げられていることを考えると、単純に法律を変えれば済む、IT技術やAIを導入すれば済む、ものすごい知識を持った人が解決できる、という問題ではないのだとあらためて思います。ハーバード大の教授がテレビで話していた「適応課題」とはこういうものなんだろうな。

画像8

あとは集落がいっそう静かになっていました。昔は正月になると、どこの家も帰省した子供や孫でにぎやかでしたが、元々住んでいた人が年老いていなくなったのと、子供や孫も歳を重ね、自分たちの人間関係や生活がある中で、集落からは足が遠のいていくんでしょう。家が取り壊され更地になった場所も以前より増えていたし、田畑を囲む動物よけの電気柵ばかりが目立っていました。集落の中に残った小学校も来年には廃校になるらしいです。私が鉄道で地方を回ったり、地方での暮らしを考える「原点」となった場所なので、何とか踏ん張ってほしいと思いますが、外から見る立場だとそれ以上踏みこむことはためらってしまいます。
とてもリラックスして家族や近しい人と過ごせた年末年始でしたが、モヤモヤした気持ちも少し芽生えた帰省でした。

2012年に、京都から富山県の南砺市城端(なんとしじょうはな)へ移住してきました。地域とコンテンツをつなげて膨らませる事に日々悩みながら取り組んでいます。 Twitter⇒https://twitter.com/PARUS0810