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小説を書けない、って終わらない苦しみを終わらせたい

 私はここしばらくずっと悩んでいたのです。小説を書く、ということに。

 自分の小説が稚拙であることはわかっているのですが、それでもそれなりに頑張って来たつもりでした。二次創作はブックマークが1000件を超える作品も出て来たし、本もたくさん手に取って頂いた。一次創作ではコンテストで受賞し、電子書籍化が決定したので本当に嬉しかった。有頂天でした。

 特にその頃かもしれません。書けない、と認識し始めたのは。



 筆が進まないどころか、動かない。


 それでも一行書けば続きが出るものだ、とひねり出して、書き始めてもなんだか乗らない。そもそも、書きたい! 書き出さなきゃ死んじゃう! みたいなあの激情が何処にも無いんです。頭に空から文章が滝のように落ちてきて、ウワーー! って書かなきゃいけなくなる、あの感じ。一日何千文字でも書けてしまう勢い。それがもう、今は無い。

 それはこの嬉しい報告をした家族に、褒められた後で「もっとちゃんとした小説を書きなさい」とか「電子書籍出せたぐらいでは作家先生ではない」とか言われたからかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 とにかく、私は人生で一番のスランプみたいなものを抱えることになってしまったのですね。

 こういう時はインプットだ、と思って映画を見たり、脚本の本を読んだりしてみました。でも、なにかしっくりこない上に「自分は全く成長しない、なんてダメな奴なんだ」と自分を責めるばかりで。それなりに辛かったのですよ。

 


 ヒントは出揃った時に形が見える


 とはいえ、そんなしんどい時期にもたくさんの励ましのメッセージを貰って本当にありがたかった。全然書けない自分とも今まで通り仲良くしてくれる人もいらっしゃったし、ヒントを下さるありがたい方もいたんです。ありがたい。心の底からありがたい。

 もちろん私が読んだ本や、見た映画も全然無駄なんかじゃない。必ず私の心に届いています。ただ、届いているものが何なのか、形がわからない。それはクイズの答えを考える時のように、思考を巡らせ、ヒントを重ね合わせて、ある瞬間にはっきりとした確信に変わるものなんだろうな、と私は思っているのです。

 だから、色んなことが届かなかったわけではない。それら全てが重なり合って絡み合って、ある一瞬、何かをきっかけに人は気付くのだと、思うのです。

 それがたまたま、昨日読み終わった小説でした。



『つきのふね』を読んで


 この本を見かけて、あらすじを読んだ時。まず思ったことは、児童文学にしてはヘビィな内容じゃねえか? ということです。ちょっと裏表紙のあらすじを引用してみようかと思います。


あの日、あんなことをしなければ……。心ならずも親友を裏切ってしまった中学生さくら。進路や万引きグループとの確執に悩む孤独な日々で、唯一の心の拠り所だった智さんも、静かに精神を病んでいき――。
近所を騒がせる放火事件と級友の売春疑惑。先の見えない青春の闇の中を、一筋の光を求めて疾走する少女を描く、奇跡のような傑作長編!


 いささかヘビィじゃないですか。都会の中学生ってそんなヘビィなのですか。

 田舎の比較的平穏な中学校に通い友達との仲もそんなに悪くない、家庭の都合で若干病み始めて不登校というか授業をさぼって校舎で半径2mの円をぐるぐる回る遊びに没頭していたことはありますけど、売春も万引きも自分には関係の無い世界だったので、このあらすじを読んだ時にはどんな恐ろしい話を読むことになるんだと思いました。

 ところが読み始めると、なるほど児童文学なのだな、と思うのですね。上手く説明できないのですが、仄暗いけれど、確かに温かいのです。不安や苦しみは確かに存在するのに、この話は優しいとどうしてだか確信するのです。

 私は小説を書いておいてなんですが、本を読むのが苦手なんです。集中力がもたないというか。1冊の本を読むのに何週間もかかったりして、ちっとも進まない。

 ところが、この本は3分の1読んだ辺りから、一気に読んでしまったんですね。

『「感情」から書く脚本術』という本の冒頭に、「その小説を無作為にどのページから読み始めたとしても、面白いと思えるような作品でなければ考え直せ」みたいな話が有ります。私は、この小説を読みながら「どのページから読み始めても何が起こっているのか気になってしまうなあ」と納得したんですね。これはすごい作品を読んだ、私もこんな話が書けるようになりたいな、と。

 大変に感動しながら読み終わって、解説に進んだわけです。そうしたら、とんでもないことが書いてある。一部引用させて頂きますと

『永遠の出口』は現代小説としても、青春小説としても完成度が高く、評価も高く、彼女のこれまでの作品のなかでのベストだろう。それにくらべると、『つきのふね』は、完成度は低いし、まだまだ生な部分があちこちに顔をだしている。


 ええっ、と思うわけです。これで、完成度低いんだ、と。そしたらもう私なんてゴミを量産してきたようなもんだな、と一瞬思うんですけれど、そのままその後に続く文章を読むんですよ。


が、なんともとらえようのない、作者自身どうしようもない勢いがあって、それが読者を無防備にしてしまう。そんな力がこの本には有る。それがストレートに伝わるのは大人のほうではないだろうか。この作品については、多くの人から感想をもらっているが、大人のほうが絶対に、この作品に弱い。これは計算してできることでもなく、意識してできることでもない。ある状態から、大きく身震いして別の状態へ移る過渡期的な産物であり、ある時期、ある条件のもとに初めて起こる奇跡のようなものなのだ。『つきのふね』は、そのような、まるで夢のような作品だと思う。


 それでなんだか私はしっくりきたんです。

 私の書いた作品は絶対に稚拙で、小説もどきなんです。絶対に。それは間違いないと、私は思っている。私はね。でも、自分で読み返しても確かに面白いしドキドキするんです。

 それに、感想を贈ってくれた人達の褒めてくれる言葉が嘘だとも思わない。きっと本心から言ってくれている。わざわざ嘘の感想なんて送らない、課題じゃあるまいし。貴重な時間を割いてまで感想を送ってくれるぐらいに感動してくれたんだろうし、私の作品が、あるいは私個人のことが好きでいてくれて、それでずっと見てくれているのも事実なんだろうなと。

 きっと良くできている小説と、心が動くお話とはイコールではなくて、もちろんイコールに近づけるのが技巧というものだと思うけれど、たぶん、稚拙で上手く書けてない小説でも、そこになにか情熱が、抑えきれない何かが有った時、人にそのトゲが刺さったりするんだろうな、と。

 そう考えると、私が小説を書く時、たいていは「もう書かなきゃ死んじゃう!」というぐらいの何かに突き動かされていた。頭の上からダバダバ文章が降って来るから、ヒイヒイいいながらキーボードを打つ。そういう作業。出し切って出し切って、それで世にバーンと出す。

 それは一種「私の話を聞いて!」っていう叫びにも似ていたと思うのです。こういうことを考えた、だから読んで! っていうね。


 聞いてもらえなかった


 昔こういうことが有ったから今こういう人間なんです、っていうトラウマ形成説が、人生の役にあまり立たないことは承知の上で、ここは一度振り返ってみようと思うのです。

 私は父と母の下に生まれた唯一の子どもでした。母は子供が嫌いで、半ばネグレクトをしていたし、馬鹿な子供と話すのも嫌いでした。3人で出かける時、私は後部座席でいつもストローの袋を折りたたんで、黙って遊んでいました。

 でも「ねえ、そうだよね?」と突然話を振られた時、「何が?」と返すと叱られました。だから、ずっと両親の話に耳を傾けていないといけない。楽しそうによくわからない話を続ける両親の言葉をずっと聞きながら、30分ぐらいストローの袋を折っては広げ、折っては広げ、黙って座っていたのですね。

 母は馬鹿な子供の言葉に聞く耳なんて持っていませんでしたし、何か言うと酷いことになるから、私は彼女に何も話さなくなりました。父はとても優しかったのですが、バリバリのサラリーマンである彼は、幼い私に理路整然と話す事を求めました。内容の有る、プレゼンを求めたのですね。

 もちろん、昔のことなんてよく覚えていません。もしかしたら私が思っているより、気楽に暮らしていたかもしれない。それでも私は、自分の考えていることを口に出すのが苦手に育っていきました。気持ち、を素直に捉えることが苦手で、嫌なことを言われた時だって三日後に怒ったりするぐらいに鈍い。ある瞬間に突然、カーーッと頭に血が上ると口より先に手が出て、そりゃもうわけのわからない生き物だったと思うのです。

 褒める教育は間違いみたいなことをアドラーが言ってたような気がしますが、私は父から褒める教育を受けました。その結果、褒められるようなことをしなければ生きている意味が無いと考える子供が育ちました。私にとって生きる意味とは褒められることであり、褒められないなら何の意味も無い。しかもそれは、自分が尊敬する好きな人に褒められることであり、自分で自分を褒めることに何の価値も無かったのです。

 小説は私を褒められる子供にしてくれました。しかもそこでは、私が考えたことを思うさま自由に表現していいのです。私はそこで初めて、自分の中にある、抱えていたら気が狂いそうなほどの熱を昇華する方法を得ました。

 もちろん、技なんてありません。殆ど小説も読まないし、文章を書く練習なんてしていないんですから。私は日記を書くように自分の思ったまま考えたままをノートに、ワープロに、パソコンに、スマホに書き殴ったのです。それが時に人の心に刺さるのでしょう。私にその勢いが有ったから。

 それで褒められたのだから、私はとても幸せなのです。幸せでいっぱいでした。

 でも、今はとても苦しい。書けないから。褒めてもらえないから。褒めてもらえないなら、生きている意味も無いから。だけど、この理屈はきっと間違ってる。頭の中ではわかっています。書けない時は書かなくてもいい、そういう時は休むべきだし、褒めてもらえないからといって私の価値が変わるわけではない、人は今この世界に存在しているだけでこの上なく尊いのだから。頭ではね。わかっていたんです。

 でもね、この小説を読み終わって、確実に答えに近づいているという手ごたえを感じているんです。

 私は社会経験も薄い。恋だって2度しかしていないし、失恋は別にしたことはない。男と女の関係を作ったことも無いし、職場で派閥争いをしたり、華やかで恥ずかしい青春を送ったり、誰が何と言ったってこれが好きなんだというような気迫でのめり込んだこともない。推しの誕生日にケーキを買って泣いたり、ホストクラブでチヤホヤされたこともない。私に豊富なことは病院に通ったことぐらいだけど、それだって別にセンセーショナルな話題があるわけじゃない。何にも無いんですね。

 いや何にも無いっていうのもまた、認知の歪みなんですけれど。わかっています。わかっているんです。ようするにね、私にはエピソードの代わりに、たんまりと貯め込んだ自分の負の感情みたいなものが、風呂桶いっぱいあるのだけれど、それを文章にしてドロドロと外に出すためには、何か外から、新しい水を注がないとダメなんですよ。

 でも私ときたら、ここ最近、もっと書かなきゃ、もっと面白い話を、皆にウケる話を、勉強して、こういう技術を使って、ほらこうしたら面白いはず! みたいなことを考えて、悩んで書いて、褒められても褒められたと認識できなくて苦しんでを、繰り返していたんですよ。

 いや、そりゃ無理やろ、と。これまでだって熱いパッションだけで書いてきたのに、小手先の技術をどこまで捻ったって所詮、ちょろっと変わるだけだから。しかも新しい水は注がれてない。風呂から洩れた雫みたいなものをいじくりまわして、お話を書くんだから。そりゃ無理だよ、と。

 なんかすごく、納得したのです。そうしたら、スッと楽になって。あー、上手く書けなくてもいいじゃない、書きたい時に書きたいことを書けば、って。やっと、それが胸にストンと落ちた。これまで頂いてきたヒントが、ようやく私の胸に収まった。そんな感じがする。

 そんでもって、こんなエッセイでも何でもないクソ長い独白を書いて、読み返してなんとなくわかった。たぶん私は、自分を自分で褒めることを求めているんです。思ったより褒めてもらえなかった時も当然有るのです。そんな時、「みんなあんまり褒めてくれないけど、私はやりきったからな! 私はこの話が好き!」っていうあの満足感が私を支えていた。今はそれすらも無い。

 休もう。

 ようやくそういう覚悟ができたというか。物書きとして忘れられたって仕方ない。とにかく今は休め。もう一度、風呂桶から溢れた時に、そこに言葉を乗せたらいい。だから、今はもう、人生を楽しめ、と。

 だからもう、ゲームもひとしきりやっちゃう。気になってた映画も見ちゃう。あー、全然書いてない私ダメだなとか一瞬だって考えない。面白そうな本は読んでみるし、刺繍もやるし革細工も畑仕事も散歩もする。それでまた、元気が出たら書けばいいし。書けなくても別に生きてていいのだし。

 そう思ったらずいぶん楽になりました。実際、パッと考えずに楽しめる自分に変わるのは難しいとは思いますけど。でもそういう気持ちになっただけでも、十分な変化なような気がするんです。


 ま。

 こうして書いてるんですけどね。

 つまり、書くことは私にとって、めっちゃ楽しいことなんです。

 それを思い出しただけでも、僥倖。

 

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