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声を失ってからとりもどすまでの2年少々ー失っても平気ではなかった

それはコロナ禍と同時に始まった

君は覚えているだろうか、2020年2月、私がこんな恐ろしい経験をしたことを(えらそう)。

結局その後、声は戻ったような戻らなかったような、微妙な経過をたどります。時はダイヤモンドプリンセス号が横浜港に停泊し、入院中ずーっと「この客船はどうなるんや」と心配していた、コロナ第1波のころ。私の声は、コロナと同時に失われました。
はじめのうち、「半年~10か月程度様子を見て」と言われて「8月には治るんや!」と思っていたわけです。ところが、多少は改善したものの、半年を過ぎたころに頭打ちになります。
そのころから、耳鼻科の外来は、「頸部外科」から「音声外来」へチェンジ。医師に加えて、初めて言語聴覚士による音声リハビリ外来通いが始まります。

リハビリと気合で保つ声質

神経を触ってしまったことで、私の左側の声帯は「動かない」のがやっと。その代わり、右側の声帯ががんばり、発生時は右の声帯だけで声門を閉じようと動くようになりました。でも、声帯のすべてを閉じることができず、どうしてもすきまが開くために、しゃがれ声になる「嗄声障害(させいしょうがい)」が残りました。
これを、頸部の筋肉をうまく使って「声の出し方」で何とかするのが音声リハビリです。
音声リハで好転しない場合は、これまた外科手術である程度元に戻る、と言われていました。その内容は、頸部に局所麻酔を打って意識ある中でのどぼとけにある軟骨に穴をあけ、声を出して様子を見ながら穴から人工物を入れて、開いた声帯を閉じる、という、「ないわァ!」感あふれるものでした。なんとしても、この手術だけは避けたい! 
ということで、必死にリハビリに励みましたよ。
するとどうでしょう。リハビリのコツを教えてもらうことによって、発生後しばらくの間の声質はみるみる良くなっていきました。この「コツ」が、合唱をやっていた時の発生方法とほとんど同じで、高校生から司法修習生までずっと続けてきた合唱が、ここで生きることになりました。言語聴覚士の先生には、「あなた、よほど歌がうまかったのね」といわれるなど、「私の青春はこの日のためにあったんや!」と、本気で思いました(なんか違う)。

最終的には、数分話すくらいであればまったく正常にしか聞こえないところまで戻りました。
ところが、全然長続きしませんでした。話し始めてから、クリアな音質を保てるのは15分程度、それ以上話すと声がかすれ、必要以上に大量の空気が漏れていくので、酸欠もいいところです。幸いにして時代はコロナ禍、それまでにはなかった「ウェビナー」というすばらしい講演方法がスタンダードとなったため、相当助けられました。ささやき声でも届きますし、ちょっと長い講演の場合はPowerPointでコツコツと動画で撮りため、当日に流す、という涙ぐましいこともしていました。

あかんもんはあかん

私が、講師仕事をしない人であればそのままでも全然良かった。そう言えるくらいまでリハビリの力で回復しました。でも、長時間持たないのは弁護士の仕事をするには致命傷です。
2021年、春。コロナ禍は第4波。ワクチンがすんでのところで間に合わず、多くの高齢者が感染し、不安な自宅療養を迫られました。パルスオキシメーターや高圧酸素濃縮器が貸し出された件数が一番多かったのも、第4波でした。

私は観念しました。
もう、あかん。
これは、手術や。
でも、当時は腹腔鏡もせなあかん。

とりあえず、腹腔鏡手術をした後で、元気になったら声帯の手術をする、ということに。
しかし!
腹腔鏡手術を機に、なんでか知らんけどこれまた声の調子がさらに好転。術時の人工呼吸器挿管で腫れたのが良かった・・・という分析でした。予約していた声帯の手術をいったんキャンセルするほどの好転を見せたのです。


とはいえ、そんな回復は一過性のものでした。
やっぱりあかん。
やっぱり、どうしても、15分以上話せない。
去年、本を書いてしまったこともあって研修依頼が寄せられるようになるものの、声が気になって「話せません」なんてことが重なり、もったいないことこの上ない。

2022年3月。コロナ禍は、オミクロン株の流入によってとんでもない感染者数になった第6波が明けるころでした。
「頸部に局所麻酔を打って意識ある中でのどぼとけにある軟骨に穴をあけ、声を出して様子を見ながら穴から人工物を入れて、開いた声帯を閉じる手術」にビビり倒すこと2年超。ようやく私は、「今度こそ、手術してください」とお願いしたのでした。

「頸部に局所麻酔を打って意識ある中でのどぼとけにある軟骨に穴をあけ、声を出して様子を見ながら穴から人工物を入れて、開いた声帯を閉じる手術」

とはいえ、15分限定でほぼクリアな声が出るので、どうやって正しい位置に合わせられるのかと心配されました。そこで、「声を悪化させる大作戦」が決行されます。それは

 ①術前1時間にとにかくしゃべる
 ②声質が悪化する高さをあらかじめ調べ、術中にその高さで発声する

①として、手術予定時間前に苦楽を共にした言語聴覚士がやってきて、その日の神戸新聞1面をひたすら音読する、という苦行をマジで実行しました。
前日に②を調べたところ、地声と裏声の転換点である「F(ファ)」の音が私の弱点であることをつきとめました。
要するに、「Fの音程で神戸新聞1面をひたすら音読する」という、いったい何の宗教やねんというツッコミあふれる苦行を、手術直前までしていたのでした。いやー、個室取っといてよかったよ、大枚はたいたけど。

さて、「頸部に局所麻酔を打って意識ある中でのどぼとけにある軟骨に穴をあけ、声を出して様子を見ながら穴から人工物を入れて、開いた声帯を閉じる手術」・・・にも一応「甲状軟骨形成1型」という名前がついているらしいので、そう言いましょうね。
一応、なんとなく栄養補給用の点滴をつけて手術台に乗る私。6~7人のスタッフが、あいさつし、手順を確認し、執刀の先生が甲状軟骨の位置を確認して、首に麻酔の注射を打っていきます。
すると、麻酔が聞き始めるや否や声が出なくなりました。あとで解説を聞いたところ、ここで筋肉が動かなくなったために声が出なくなったんだ、とのこと。ずっと、頸部の筋肉が全力で腕立て伏せをするように発生していたから、15分で「あ、もうダメ」となって、声質が悪くなったんだろう、ということでした。とはいえ、リハビリの力だけでここまでの声のクオリティを保っていたのは非常に珍しがられていたのですが、そのことが、麻酔ひとつでガタガタになってことによって実証された、勉強になった、とのことでした。
あ、つまり、「Fの音程で神戸新聞1面をひたすら音読する」苦行、一切要らんかったことないですか。
麻酔が効いてきたところでメスが入る。首筋を熱いものが流れる。
・・・血、っすよね、これ。
そして、わりとすぐに電気メスだか何だかわからないけれど、焦げたにおいがするぅぅぅ。
「これがドリルなんだ」と思っていたのに、相当の時間焦げたにおいと闘ってから、「これからドリルしますねー」と言われるなど。麻酔しているので痛くはないですが、先のとがったもので穴をあけられている感覚はあります。すっごい強く押すので、「刺さる刺さる刺さる刺さる刺さる刺さる」とすげー不安でした。
そして、穴があき!

「じゃあ休憩しようか―」

ご、ごめん、要らん!その休憩要らん!
頼むからさっさと終わらせて閉じてくれ!!
と、思っていても、先生方も疲れるよね。
「どうですかー、気分は大丈夫ですかー」と聞かれたので、「こ、こわいです・・・」と答えると、「ええっ、もうだいぶ開いてるよ」という、具体的に想像するとかなり怖い回答が返ってきてよけいに怖くなる私。

5分程度の休憩後、手術再開。
さっき開けた穴から人工物をぐいっぐい入れる!
すると!
ここでぇ!
「Fの音で叫べ」登場!!
言語聴覚士の先生が、私の耳元でスマホの鍵盤アプリで「F」をたたき、「はい!この音で『アー』って言って!」と言われ、もう何が何だかわからないまま、魂のロングトーンを放つ私。
「おお!出てる出てる!」
と場内がざわついた気がしましたが、私にはそれが出てるのか出てないのかもうどうでもいいから、この『頸の”ひらき”』状態を早くなんとかしてぇぇ!

この、「入れる」→「ロングトーン」を何回か繰り返し、調整して、「終わったよー。これから閉じて終わりだからねー」と言われ、縫合作業。開けるときはあんなに大変だったのに、縫合するのはあっという間でした。

闘いすんで、日が暮れて。

手術から3週間

手術からだいたい3週間が経ちました。
術直後は全然声が出ず、まるでトランペットに全力で息を注入しているかのような感覚だったので「おいおい、閉じすぎたんと違うか」と心配していました。ただ、これは術後の腫れによるもので、1週間もするとほとんど2020年2月の最初の手術前のような状態になりました。
今、1か月前にどう苦しかったのか、思い出せないくらい普通です。
そういえばこの間、鼻歌が歌えていました。手術前は考えられないことです。さすがに高音はしんどいですが、アルトくらいなら合唱団に復帰できそうな勢いです。

この好調が、連続で話し続けたときに何分もつのかはまだわかりませんが、かなり劇的によくなっているのは確かです。

2022年5月、コロナ禍が始まって初めて行動制限のないGWを経験しても、都市部の感染拡大の兆候はあまり見られません。コロナ禍と同時に失った声が返ってきたので、コロナ禍も一緒に終わるような気がしています。
気がするだけです。

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