見出し画像

『橘アヤコは見られたい』のカオスをOP+フェスで早く見たい

佐藤周は、学生時代からの友人でありライバルで、いつも彼が作る映画を複雑な気持ちで眺めていた。期待、不安、嫉妬、羨望…純粋に作品を観れてはいないだろう。作品評価には必ず僕の「主観」が入る。友人に傑作をものにしてもらいたい、という願いと、自分より面白いものを作ってほしくないという本音が入り混じった気持ちで、スクリーンやテレビを見つめてきた。

彼の新作『橘アヤコは見られたい』は、企画がOP PICTURES新人発掘プロジェクトの優秀賞を獲って製作された“ピンク映画”である。R-15指定の本作とは別に、R-18指定の『若妻ナマ配信 見せたがり』は既に上野オークラ劇場で公開されている。僕は前回の新人発掘プロジェクトにおいて『悶絶劇場 あえぎの群れ』(R-15版タイトル『やりたいふたり』)でピンク映画デビューしており、友がその後に続く形となった。前述した期待と不安が入り混じる。自作を超えてほしい、という気持ちと、下回ってほしいという本音…。

そんな複雑な感情を抱えて公開を待っていたら、本人から「予告編を作ってほしい」という依頼が来た。そうなると話は別だ。今度は予告ディレクターの「主観」で映画を見る。このカットは使える、これはネタバレになるからやめとこう、これとこれ繋いでミスリードするか…。映画を見るというよりも、短い時間でこの映画のウリを的確に伝えるにはどうするか、という考えに脳が支配される。結果、純粋には楽しめないし、映画自体を観客としてどう見たか、という答えは未だ出せずにいる。そうして出来上がった予告がコレだ。

予告制作後に高橋ヨシキさんからコメントが届き、冒頭にくっつけた。あまりにも的確で示唆に富んでいるため、この文だけで良いんじゃないか、とさえ思う。予告の中にもあるように、この映画は「主観映像」だけで構成された「POV映画」である。

「POV」とは何か。Point of View=主観を意味するこの言葉は、近年では映画の撮影手法を指す言葉として定着し、海外ではアダルトビデオの“ハメ撮り”を意味する検索ワードとしても一般化している、らしい。フェイクドキュメンタリー作品を多く手がける白石晃士監督の著書『フェイクドキュメンタリーの教科書: リアリティのある“嘘"を描く映画表現 その歴史と撮影テクニック』には、POVという用語の定義について、「POVはあくまで主観映像全体のことを言う」「フェイクドキュメンタリーはPOVに内包された一部の手法」と書かれている。

人物の目の主観も、悪霊主観も、飛ぶ弾丸主観も、そして、カメラの主観も、すべてPOVになるので、意味合いとしてはもの凄く広い言葉です。

主観はすべてPOV。しかし、POVと聞くとイメージするのは『REC/レック』シリーズや『クローバーフィールド/HAKAISHA』のような、劇中カメラの映像によって構成された映画である。POVとフェイクドキュメンタリーは混同されがちだが、劇中にビデオカメラが存在しないPOV映画もある。今、あなたがこの文を読んでいる時に目に浮かんでいる映像もPOVなわけで、『マニアック』『エンター・ザ・ボイド』といった映画は、カメラは出てこないが登場人物が肉眼で見たであろう“映像”で構成されており、これもPOV映画。もっと言ってしまえば全ての映画は撮影現場にいるカメラマンのPOV、とすら言えてしまうのだが、それをPOVと感じさせないのが「劇映画」の文法である。

佐藤周監督はこの「POV」という言葉の汎用性の高さを利用して、「複数の登場人物視点」と「劇中カメラの映像」に加え、ネタバレになるので「ある視点」としか言えない映像まで混在させた、よくばりPOV映画を作ってしまった。どうかしている。撮影現場は混乱しただろうし、脚本がどう書かれているのか非常に気になる。この企画は、人間の深淵を覗くホラー映画でありながら、POV映画とピンク映画という、受け皿が広い2つのジャンルに支えられていると言っていいだろう。普通に考えると、劇中カメラの映像に統一した方がリアリティが出るし、特定の登場人物視点だけにした方が没入感が出る。一周まわって「劇映画」にして状況をちゃんと見せよう、と判断することもあるだろう。ホラーを撮る監督の多くは、観客の感情をどちらかに誘導したいはずだ。

本作はどこにも誘導してくれない。夫婦の不和なのか、妻の狂気なのか、夫の心の闇なのか、復讐劇なのか、幽霊話なのか、愛の物語なのか‥。物語を語る「主観」がコロコロ変わる。観客は、映画を見ながら「これがカメラで撮られた映像なのか、登場人物の視点なのか、それとも…」と考え続けることになる。これは、高橋ヨシキ氏もコメントで示唆するように、極めて現代的な感覚だ。また、佐藤周がハンディカメラと定点カメラを駆使して「ガチ」で心霊を撮ろうとする男たちのドキュメント『新耳Gメン』シリーズの監督を多く手掛けていることも興味深い事実である。佐藤周監督にとって「撮る」と「見る」は、ほぼ同義であり、自分が「誰かに見られている」という感覚もリアルなものとしてあるのだろう。それは、多くの現代人にとっても同じ。この文章をスマホかパソコンで読んでいるあなたは、画面を見ている今まさに“レンズを向けられている”。それを誰かが見ていないとは限らない…。

実は僕は、この映画の本当の恐ろしさにまだ気づけていない。それは予告ディレクターの「主観」でこの映画をテレビモニターで見ながら、カット単位で「使えるかどうか」のジャッジをし続けてしまったからだ。是非、スクリーンを見つめることで、主観映像のカオスに身を置きながら確かめたい。今度はいち観客の「主観」でこの映画を見つめたい。

『橘アヤコは見られたい』はテアトル新宿で開催されるOP+フェス2020で上映後、順次、全国で公開予定。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?