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楠木正成(くすのきまさしげ)を祀る神戸 ・湊川神社 菊水紋の御朱印

菊水紋の御朱印

菊水紋は、皇室の紋章である菊と流れる水をあしらった紋章で、楠木家の家紋です。

楠木正成を祀る湊川神社の御朱印と御朱印帳には、楠木家の家紋の菊水紋が入っていて高貴さを備えた絵柄となっています。

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御本社の御朱印

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楠公墓所の御朱印

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楠木正成(くすのきまさしげ)とは

超簡単に楠木正成とはどういう人なのかを説明します。

鎌倉時代末期、政治の実権を握っていた北条家の執権・北条高時の治世は乱れていた

後醍醐天皇政治の実権を朝廷に取り戻そうと画策し、楠木正成も配下に置く。

楠木正成後醍醐天皇に忠誠を尽くし、鎌倉幕府打倒に貢献した。

・鎌倉幕府打倒時には仲間だった足利尊氏は、後醍醐天皇に反旗を翻し室町幕府を創設したが、楠木正成最期まで後醍醐天皇に奉じ、足利尊氏との戦いで現在の湊川神社の地で自刃に追い込まれた。

・このことから楠木正成は忠烈士として崇められている。

楠公墓所ができるまで

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湊川神社境内には楠木正成の墓所がありますが、1336年に楠木正成が最期を遂げてから、墓碑ができるのは350年の歳月が経ってからのことです。

現在の墓所の位置 湊川神社ホームページより

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「太閤検地」

豊臣秀吉の「太閤検地」によって、楠木正成が葬られているお墓の存在が明らかになったですが、この時は免租地とされ囲いがされたのみで、墓所は建てられませんでした。

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五輪の供養塔を建立

現在墓所のある神戸市は当時、尼崎藩領内にあり、1643年に尼崎藩主となった青山幸利の手により松と梅が植栽され、後に五輪の供養塔が建立されました。

このことは、名所図絵や紀行文などにも描かれ、楠公墓所が世に広く認識されるきっかけになりました。

徳川光圀による墓碑建立

徳川光圀公は、大日本史の編纂で知られていますが、編纂の過程で皇室に対して敬虔尊崇の念を強くし、隠居後、楠木正成の墓碑を建立します。

墓碑の完成以来、楠公墓碑は多くの名所図絵などんも描かれるようになり、多くの参拝者が訪れるようになりました。

楠公墓碑は、楠木正成が最期を遂げてから、350余年の時を経て、徳川光圀によって建立され、吉田松陰、坂本龍馬、西郷隆盛などの幕末の志士の精神的支柱となり参拝に訪れています。

湊川神社創設の動き

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薩摩藩の島津久光が湊川に楠社創建することを朝廷に請願、尾張藩の徳川慶勝が京都神楽岡での建立を請願します。

結局は1868年、神戸裁判所の役人であった伊藤博文らの朝廷への楠社創建の建議が明治天皇から認められ、伊藤博文は湊川神社を立てる土地を定めました。

伊藤博文らの建白書が認められた後に、水戸藩の徳川慶篤が湊川神社の創建を水戸藩に一任してほしいと朝廷に請願しますが、朝廷は許可せず、広く国民の力を結集して造営することと定められました。

そのようないきさつを経て、湊川神社創建は皇室はじめ全国民から2万2千円の費用や各地から献納された用材180本などにて造営されました。

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湊川神社境内地一帯は田畑が広がる農地でしたが、神社を中心として周囲の開発が進み日に日に繁栄していくようになります。

そして、日本最初の水族館、芝居小屋、寄席、料亭などで賑わい、湊川神社一帯は神戸随一の繁華街へと発展していきました

楠木正成 最期の地

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1336年5月25日、足利軍との湊川合戦の末、正成とその一族が殉節を遂げた場所は湊川神社の奥に位置し、自刃を遂げた民家があったと伝えられています。

もはやこれまでと覚悟の正成はじめ一族郎党73人が2列に並び、念仏十編を唱え一斉に腹を切ったと伝えられています。

そして正成と弟・正季(まさすえ)は、「七生滅賊」を誓い合い、刺し交えて、神戸・湊川の地で忠烈士としての生涯を閉じました








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