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クリスチャンの完全 と 義認 神の義

マタイ5:48 それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

ルカ6:36 あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。

さて聖書は完全になれと言っています
二つの聖句を比べると完全と憐みとは関係がある事が解ります。

完全と言っても自分の義で完全になるわけではなく キリストの義によって完全になりますのでお間違えにならないように行いにおいても信仰においても同じです

昨今言われているような 行いと信仰が分離した教えは間違っています

完全主義の完全ではありません

 我々はキリストの恵みにより完全になれるのです

救いの時はこういわれています
マタイ11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。

しかし神の国に入るには以下のように言われています

第一コリント6:9 それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、

この二つの聖句の間に聖化というプロセスがありますその答えは

黙示録14:12 ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。
つまり十戒を守り イエスの信仰神の義を信じるのは義認 日本語訳では同じに訳されていますので解らなくなっています イエスの信仰を持つ鍵は義認です義認は体験でもあります義認が解れば聖書は神の義が書かれた本ですから一つのカギですべて開くことが出来奥義を知ることが出来ます
つまり完全への道は義認が重要なテーマになります

義認とは神の義とは何か

神の義とはイエスの信仰です 

私たちはイエスの信仰によって救われるわけです 自分の信仰によって救われるわけではありません


このイエスの信仰を私たちが信じる事が義認です
シンプルに解りやすく言えばそうなります
義認の繰り返しによって聖化されキリストの義に至りますが 義認に義は必ず伴いますそれが
At one ment イエスと同じになると言う意味合いなのです繰り返しますがイエスの義 イエスの信仰によって正しいものとされるのです このイエスの信仰の実を実られたのが14000人です

エペソ5:27 また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。

この栄光の教会が144000人の教会の事です
これは無形か有形かはまだわかりませんがその準備は今されつつあります

罪と義認

同じように罪を離すことも義認と同じ内容です
つまり 罪はサタンがあなたにさせているのではなく 本当はあなたが好きでそれを選んでいるのですそれに早く気が付いてください
あなたが自由意思で罪を選んでいるなら神様は手出しができません あなたの意見を尊重されているからです 罪を投げ捨てる覚悟と激しい戦いがそこで起こります パウロはこう言っています

へブル12:4 あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。

しかし 罪を捨てキリストに頼るなら罪から逃れることが出来ます

この罪を捨てることは選択によるのです
つまり意志を捧げるという事になります

こういった奥義に関しては教会は口を閉ざしていますがそういった時が来るのを待っています
これが144000人の教会の事です

預言の霊(イエスの証)はこう言っています

名ばかりのアドベンチストや堕落してしまった各教会の中に、神様の正直な 子供たちがいる事を私は見た。 そして、災害が注がれる前に、牧師たちや一般の人はこれらの教会から呼び出され、真理を喜んで受け入れる事も私は見た。 サタンはこの事を知っているので、第三の天使の大きな叫びの前に真理を拒んだ人たちが、「神様は我々と共にいる」と思い込むように、このような宗教団体の間に大騒ぎを引き起こす。 正直な者を惑わして、「神様はまだ各教会のために働いている」と思わせるのがサタンの狙いである。 しかし、光は照らして、正直な者は皆、堕落してしまった各教会から出て来て、少数残っている人たちと一緒に立つ事になる。

黙示録12:17 龍は、女に対して怒りを発し、女の残りの子ら、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者たちに対して、戦いをいどむために、出て行った。

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