「君にはもう新しい世界を作る力がある(上)」の物語を紹介していきます(2)
「はい」
鉄平がまっすぐ先生を見上げて答えた。鉄平の目には涙が光っていた。鉄平は自分の軽率を心底恥じて、俊子に済まないと思っているのだろう。こういう純な気持ちをストレートに体と心で感じる鉄平はかけがえのない奴だと聡は思う。津田先生は大きな掌を広げて両端の鉄平と恵の上腕に掛けて六人の教え子を自分の腕の中に抱きこんだ。そして普段のあの笑っている目で、一人一人の目を上からのぞきこんで、
「よし、教室に戻ろう」
と言って、皆を靴箱の方に押し出す風にして、自分は職員室の靴箱の方に行った。聡たちは先ほどの緊張から解放されてはいなかった。無言で靴箱の前に敷かれている木製のすのこの上で上履きに履き替え始めても、いつもなら足がすり減ったすのこが、人が歩くたびに上下に揺れ、ガタンガタンと不規則に音を立てるのを面白がるのに、皆の関心はそこにはなかった。教室に向かって先に歩く鉄平も、のっぽの恵も押し黙っている。教室の引き戸を開けたとたん、それまでの無意識の緊張と集中にそぐわない暖気が顔にあたり、一斉にこちらを振り向いた好奇の眼差しが懐かしい日常性に引き戻した。恵がさっと俊子の側に行ってじ~っと目を覗きこんだ。俊子はいつもの優しさで首を傾げた。鉄平は何を思ったか俊子をあのぎょろめで凝視したままであった。新介と聡と義久は鉄平の悪ふざけが始まったと苦笑しながら、いい加減にしろよと言いかけて、止めた。鉄平の顔が歪み大粒の涙が頬を伝わって流れ始めた。そして、聞き取りにくいことを何か言っている。よく聞くと俊子ごめんなと言っていた。流石に俊子もうつむいてしまった。事情を知らぬ教室の友達は鉄平と俊子を交互に指さして大笑いしているが、清子は違った。
「どうしたの、さっきまでストーブの周りで元気に騒いでいた人が、外から帰った途端、俊子さんに熱い眼差しを向けて、俊子さんが困っているじゃない。一体全体、何があったのか教えてちょうだい。私たち友達だよ。隠し事はなしにしましょう」
清子は怒ったような言い方になったのをまずいなと思った。清子と俊子とはクラスの人気を二分していた。俊子は白ポチャのおっとりさん。清子は知的な感じのする活発なお転婆娘を自任している。急に俊子だけが人気者になった気がした。
「隠すことは何もないよ」
聡が言った。
「さっき外で先生に叱られた。先生の言葉が難しくてまだ理解できていないことが多いけど、ひとつだけ僕たちがとんでもない過ちをやったことは理解できた」
「何、それ」
「もしかしたら、俊子の目や顔を傷つけたかもしれなかったんだ」
「僕が悪かったんだ。僕の飛ばしたロケットが俊子の側を通ったんだ。」
恵が言った。鉄平がすぐさま、
「恵!それは違うよ。誰のロケットがというよりか、どこに飛ぶか分からないものをロケットだと言って、誰にも『危ないよ!』と言わないでストーブの上に乗せたことが悪かったんだよ。六人が皆、悪かったんだよ」
「今回は俊子の側を通った。もし、俊子が顔を動かしていたら、眼や顔を直撃したかもしれない。そしたら、俊子は一生それで生きてゆかねばならないかもしれない、お前たちは馬鹿者だと言って叱られた」
「あっそう、それで新介の左の頬が赤いのか。鉄平君は色黒だから分からないけど」
清子が笑った。聡を見つめたけど何も言わなかった。聡は、清子を見ていると清子はもう大人の女性だと感じる。ときおり眠れぬ夜、こっそり父親の書棚から抜き出して読む小説、理解が難しい物語が多いが、それからは鉄平らとの語らいとは何か違う世界がありそうな気がする。清子は何か違う世界を知っている人種のように思える。そして聡をその世界へ誘っているように感じる。もっと成長しろよと言っているように見える。見当違いかもしれない。確かなことが分かっているのではなく、モヤモヤっとした魅惑のようなもの、知らない世界があるのを直観する。清子のお父さんは高校の音楽の先生と言っていた。三歳くらい離れた弟が一人いたが、幼い子どもだった。同じ家庭環境で育ちながら、どうしてこんなにも成熟度が違うんだろうか、男と女の違いなのだろうか。読む本、聴く音楽、映画、付き合う友人の影響であろうか。僕だって、単身赴任しているお父さんの書斎に出入りして、勝手に書棚から本を読んだり、CDを聞いたり、画集を見たりする。パソコンでインターネットを利用する。人は生まれて以来五感から外界の刺激を頭脳に取りこみ、ひたすら記憶していく、そしてそれを使って思考する。想像する。創造する。あるとき、取りこんだ情報から記憶にない全く新しい「感じ」を経験することがあるのではないか。これは合目的的に人間が作ったアルゴリズムでは実現できないものではないだろうか。つまりAIには真似できない人間であるが故に経験し、楽しむことができるものがあるのではないだろうか。清子の目の動き、身体の動き、息の仕方、声音、こういったものの重なりが、聡を刺激する。ときには、清子は聡の反応を見ながら、楽しみながら、あるいは苦しみながらかもしれないが、行動しているように見え、清子がいるっていいなと思う。そうかと思えば、あらっそこにいたの?というような馬鹿にしたような行動をする。この不連続性は一体なんだと腹が立ち、清子は聡よりはるか大人の、苦労の多い女であるかもしれないと思う。自分だけの秘密を楽しんでいると、教室の後ろの方から声がした。
「ねえねえ、先生の言葉が難しくて分からなかったと言ったけど、何を言われたの。俺、興味があるんだけど」
皆が振り向いた。山下だった。聡は天才君に向いた。
「先生に、ストーブの上で何を乗せていたのか聞かれて、五人が作ったロケットの中でどれが一番飛ぶかの実験をやったと答えた。そしたら先生が、どのようにロケット設計したのか、飛行高さはいくらを狙ったのかと聞かれた。科学の実験だから、計画した値があるだろう。このくらいの高さまで飛ばすという値、ロケットを飛ばす方向、ロケットが落下するまでに飛行する距離や滞空時間はこのくらいにするという計画した値があるだろうと言われた。そんなことを考えてもいなかったし、設計という言葉も初めて聞いたし、何をどうすべきだったかも本当の意味がよく分かっていない。ということなんだよ」
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