【土曜日は一首評】 狂ってる?それ、褒め言葉ね。わたしたちは跳ねて、八月、華のハイティーン/青松輝『4』
青松輝。東京大学理科Ⅲ類の現役大学生で、YouTube上では「ベテラン中学生」(ベテランち)として活動する。グループYouTuber「雷獣」の、ほとんどリーダー的な存在でもあり、その傍らで東京大学Q短歌会に所属し、青松輝名義で歌人としても活躍している。
なにを隠そうぼくは、青松チルドレンだ。
去年の夏、雷獣の動画「【灘卒】メンバーの中に国語の天才を見つけました」で現代短歌の存在を知った。中澤系も伊舎堂仁も、ここで出会ってから、ずっと好きな歌人だ。
さらに第一歌集『4』は、ぼく自身が大学入学後作歌をはじめてわりとすぐごろに刊行されたし、自分が短歌の評論にハマり始めて砂子屋書房の「日々のクオリア」とかを読むようになってすぐに、同サイトで門脇篤史による青松輝の一首評が投稿された。
自分が短歌を向き合っていくなかで、青松の存在はつねにあったよなあと、心の底から思う。
去年、雷獣の動画を何十回とみて「短歌おもれー」となっていた自分に言ってやりたい。「おまえは今後短歌をほんとうにやるし、今では青松輝の一首評をインターネットに載せてるよ」と。
なにしとんねん、って答えると思う。
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まず初句・二句にまたがる〈狂ってる?それ、褒め言葉ね〉。
SNSで短歌をやっている人たちは、それなりにインターネットに精通しているひとが多いと思う。そうなるともはや説明不要のコピペだろう。2009年時点で中3で、2ちゃんねるに書き込んでいるというと、かなり早い方だ。インターネットの、とくに奥底にある「グロ画像スレ」に行きついた青年が、背伸びしてその“インターネット風”をやってみている。精一杯尖った言葉を選んでいる様子が、なんとも気恥ずかしくなってくる。
(※ ぼくは2005年生まれで、当時のインターネットをリアルに実感してきた世代ではない。だから歴史的史実としてしか当時のインターネットを知りえない。
ただ、ネオ麦茶事件としても知られる「西鉄バスジャック事件」が2000年、のちに単行本化・ドラマ映画化された「電車男」が2004年、電子掲示板の書き込みに端を発した「秋葉原通り魔事件」が2009年といったことを考えれば、当時のインターネットがこういったイメージになるのも想像に難くない)
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こんなにも有名なコピペからがっつり(12音)引用して詠んでいるのだから、(このコピペからよく持ってきたという勇気が評価されるということはあれど)基本的に二句目まででは短歌の評価を決定しえない。三句目以降が平凡な主張になってしまえば、この短歌はなんでもない短歌だ。だから三句目以降の〈わたしたちは跳ねて、八月、華のハイティーン〉という突き抜け方は、まずそれができる腕力があって、さらにそこに作者として確信がない限りなせないすごい業だと思う。
ここで、三句以降のような名詞を連ねて取り合わせていくやつ(この手法に名前がついているとしたらそれを言えた方がカッコいいんだけど)は、短歌のなかでしばしばみられる。個人的に好きな歌人さんのものだと、
とか、
みたいなやつ。
はっきり言ってしまうと、こういった短歌への評価がぼくの中であんまり確立できてない。
まえにM-1グランプリで、ナイツ塙だったかな、が、ある漫才ネタに対して「夢の中みたいなネタはなんでもありになってしまうから比較にならない」みたいな審査コメントをしていたのが自分の中ですごく印象的で。ぼくの中ではこういった短歌はそれに近い感覚を抱いてしまう。
飛躍がわかんないんじゃない。文と文の取り合わせ、は解るし、好き。雪舟えまさんの〈目が覚めるだけでうれしい 人間がつくったものでは空港が好き〉とかは、好き。とにかく言葉をぽいぽいと加えていく感じが、よくわからないのだ。
もちろんこれは、作歌における設計思想として「こんなやり方、認めないゾ!」みたいなことを言いたいのでなくて、明らかに自分の技量不足・読み不足にあって、そのうちわかってくるんだと思っている。わかったら途端におもしろくなって、自分の短歌でもやりたくなってくるんだと思っている。
ところで掲出歌はまさにこの手法をしているんだけど、それでもここまで突き抜けてこられると、凄いと思っちゃう。
まず〈わたしたちは跳ねて〉〈八月〉〈華のハイティーン〉のモチーフの選び方。それぞれがそもそも詩的であって、割と青春性を孕んだモチーフのように思える。さらにこれらを決定的にクールにしてるのが、「はねて、はちがつ、はなの」にみられる頭韻。おとをさらっと操ってしまうこの感覚が、今のぼくにはまだなくて、こういうおとの力を有効に使えてこそ短「歌」だよなあとしみじみ思う。
花のセブンティーン、という言葉。死語になりつつこそあるけれど、聞いたことがないわけでもない。18歳は大学生であり、自動車免許やクレジットカードを作れるし、18禁サイトにもしがらみなくアクセスできる。セブンティーンというのはその一つ目前にして、子どもとして守られる最後の年齢。たしかに、華だ。
〈華のハイティーン〉はおそらくそこからのアナロジーであって、既存の言葉にはない。ハイティーンとは10代後半のことで、たしかに今の時代からすれば「華の『17歳』」といいきるよりも、17歳周辺に華があるというほうが合ってる気はする。造語をさらっとこの感じで使えてしまうことばへの確信がよい、歌壇へのフレッシュな態度すら感じる。
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〈わたしたちは跳ねて、八月、華のハイティーン〉という青春性に着地したこの一首において前半に引用される〈狂ってる?〉のコピペ。こうなると、作中主体にとってもこの2ちゃんねるのコピペはその青春性の線上にあるのだろう。そう、青松輝には、2ちゃんねるやSNSがある青春時代を経てきたぼくら世代の思想を、ひとりで引っ張っていきうる心強さがある。
青松が、やっぱり好きだ。
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