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今さら『輪るピングドラム』(TVシリーズ版)感想。カルトとは、信仰とは、生存戦略とは。

カルト宗教2世について扱った作品だと聞いたので、だいぶ今さら感あるなと思いながらも観始めたけど、調べたら一昨日から劇場版後編が公開だそうでむしろタイムリーまであった。
アニメの感想というよりは宗教的・哲学的な問題に終始している部分もあるけれども、良ければお付き合いいただければ。

オススメしてくれた人には申し訳ないけど総じて「ハマった」かと言われると別にそこまでではなくて、観る前から感じていた個人的に合わない部分(特にliminal空間での暗喩を多用するとか)はまぁそれなりに合わなくはあったんだけど、少なくともこうやって6000字弱も文章を連ねるぐらいには色々なことを考えさせられたし、伝えたいテーマについてはしっかり受け取った上で「観て良かった」とは自信持って言える作品だった。特に今の御時世には。
とりあえず今は劇場版の前後編もちゃんと観たいねという気持ち。

なんというか、個々のどこがというよりは、全体のバランスの取り方が上手いなー、という感想が先に来る。これ例えば高倉家の前半の話だけ、とか切り取り方によってはまんま00年代セカイ系っぽい感じになると思うんだけど、その美味しいところをつまみつつもっと拡張して群像劇のような形に落とし込んでるのは構成が上手だなと。

カルト宗教、それこそペンギン帽子のように「きっと何者にもなれないお前たちへ告げる」という態度で役割を与えることと信仰をトレードオフにしてるんだけど、別にそれってカルトに限った話ではないんだよな。
「何者かになりたい」という態度で子育てに対して臨んでいる人もいれば、同じ態度で勉学に対して臨んでいる人もいるし。
これは意図的に対比して描かれていると思うんだけど、企鵝の会に恨みを持ってその目論見を滅するために動いている人間たちも、桃果という年端もいかない少女の神性を病的に信奉しているという点で、ある意味ではカルトと言えると思うんだよな。桂樹しかり、ゆりしかり、苹果しかり。
そういう意味で、昨今のカルト宗教弾圧のような流れには気持ちこそ理解はすれどあまり賛同できないところがある。どこからがカルトかなんて誰にも分からないし、それを他人が断じるべきでもない。断じることができると思っている人間の視野は狭いと思う

明確に断じられることがあるとすれば、信仰によって救われるのは本人だけであって、子どもなり周りの人間がそれに迷惑しているのであればそれはまた別の話、というだけで。
そういう二次被害者の多寡が“カルト”という表現型で発現しているだけで、信仰の中身については全く交絡してないと思う

なのでカルト宗教2世についての想いはシンプルで、「本人が幸せかどうか」だけに尽きる。幸せならそのまま信仰を続ければいいし、そうでないなら抜ければいい。
ただ一方でこれは綺麗事であることも念頭に置くべきで、実際にはそれに付随するお金の問題が出てきたりということがあって、それは子どもにはどうしようもなくて、というのは最近の全日本国民の身に染みるところだと思いますが…

こどもブロイラーと企鵝の会はアイデンティティを保てなくなった者を巡って対立するような構図で描かれているけど、前者はより透明にすることで他者との差異を埋めようとし、後者は役割を与えることで差異を埋めようとしていて、アプローチこそ違えどやろうとしてることは大差ないんだよな。
「“可愛い”が消費されたから捨てられた」って陽毬のセリフもあったけど、他人から押し付けられたアイデンティティだってそのうち擦り切れるよ。
それと同時に、カルトじゃないにせよ家庭環境のせいでモラトリアム期を経ないままアイデンティティが必要になってしまった子どもにはだいぶ酷な言葉だとも思うが…

そのアイデンティティの探求こそが「生存戦略」なんじゃないかと解釈した。作中に何度か暗喩されてるようにもっと具体的に性交渉のことなんじゃないかとも考えたけど、それも「生存戦略」のうちの一つに過ぎないし、もっと大きな括りの言葉だなとは感じた。
最終話の冠葉の「俺はまだお前に、何も与えていない」というセリフが象徴的で、そこに宗教や信仰の介入があるにせよないにせよ、他人に何かを与えられるような人間になるまでのモラトリアム的な取り組みが「生存戦略」だし、その何かこそが「ピングドラム」だと解釈した




【以下、だいたい時系列順の雑記】

冠葉、叫ぶとジャイアンが出てきちゃうのちょっと笑ってしまう。ぃゃそれが声優としての味だから良いんだけれども

救急に担ぎ込まれるシーン、「エピネフリンとアトロピンとエリスロマイシンが同時にいく病態って何だ…?」という全然関係ないことが気になってしまった。呼吸器系に派生した血液疾患かな

ロボットのバンク、苦手だな…と改めて。
これに関しては上手く言語化して説明できないし、だから今まで避けてた部分も大きいんだけれども。怪獣映画とかもあんま得意じゃなくて。
オモコロ永田さんが何か力を秘めたものが苦手なように、自分も何かデカいものが苦手なフシがある

苹果ちゃんの食パンへのクリーム塗りがクッソ汚ぇの、(あぁ…)となってしまった。嫌すぎるリアルさ

これ別にどうでもいいことなんですけど、荻窪からサンシャイン水族館がある池袋まで行くのにわざわざ大回りの丸ノ内線に乗るの、めっちゃ分かるなと思ってしまった。
時間・距離で言えば荻窪から中央線快速で新宿まで出てそこから山手線で外回って池袋まで行けばいいだけなんだけど、あれぐらい小さくて身体が弱い妹ちゃんがいたら、多少遠回りでも荻窪から始発が出てるおかげで安心して座れて終点の池袋までずっと一本で行ける丸ノ内線で行く方を選ぶよな~と思っていた

ゆりさんが実は黒幕~とかじゃなくて徹頭徹尾、美貌も才能もある上で性格も良い人間として描かれているのはめちゃ好きだな。カルト宗教との対比として、あとは苹果との対比としても。
映画『パラサイト』とかもそうだったけど、恵まれている人間ほど性格が良いし、ましてやカルト宗教なんか必要としないっていうのが残酷な現実なんだよな。
→…って感想を1クール終わったあたりで用意してたけど、不倫はするわ緊縛昏睡レ○プはするわで普通に悪い奴だったわ。こういう変な倒錯してる屈折キャラ好きだから全然いいけれども、途中まで違う読み取り方をしていた

あとこれは上記のまとめに付け加えて書いていたもののちょっと話が逸れすぎてるなと思ってこっちに置き直した話なんだけど。
ゆりとその父親のエピソードを見てから、「あ、これはたぶんもっと露骨にエディプス/エレクトラコンプレックスっぽい子どもの性の話が来てしまうぞ…」と身構えていたんだけれども、それが外れて良かったのか悪かったのかという感じ。
「倒錯」というキーワード大好きなので、創作上の人物の肉付けとしてはエディプス/エレクトラコンプレックスはだいぶ好物なんですけど、こうやってカルト宗教2世みたいな実際の問題と絡めて描かれてしまうと「そのアイデンティティの賞味期限は短いよ…」とマジレス返してしまいそうで

2クール目OPの方がやくしまるえつこっぽくて好きだな

明確に「面白くなってきた」と感じたの、ゆりさんの過去エピソード出てきた15話あたりで、その後おもろいまま走り切ったのはいいんだけど、カメ止めシステム(後半の面白さのために前半を犠牲にしすぎている)じゃんとは感じてしまった。
最初に話したようなliminalな空間や抽象化された会話が好きで映像美だと感じられる感性がある人には前半も苦じゃないんだろうなー、と。
まだ観てないけど、TVシリーズを再構築したと話題の現在公開されている劇場版の方が時間的にもコンパクトだろうしそっちを先に観た方がもっと印象良かった説はある。でもやっぱ世に出た順に観た方が正しい受け取り方だよな~とは思うしこれで良かったんだろうな

19話のゆりが多蕗に対してプロポーズの際に言った「家族のフリから始めるの。いずれ私たち、本当の家族になれるわ」って言葉、めちゃくちゃシビれたね。
表面的な性愛の話だけじゃなくて、上記のまとめに書いたようなアイデンティティ獲得のためにも大事な考え方だと思うんだよな。“家族”を何に置き換えてもいい。また同時に、その行為が「信仰」というものの中身でもあるところが憎いね。
作中この言葉を発した場では結果的に上手くいかなかったけど、大好きで良いセリフだ。何気ない言葉だったけどこの作品で一番心に残っているといってもいいかもしれない

退院した陽毬に「なんだかウチから私の居場所がなくなっていく気がするの」って言わせるの、上手いんだよな。最初に書いたようなバランス感の良さってこういうところだ。
陽毬自身がカルトを盲信してる訳じゃないんだけど、このセリフはカルトへの誘いであって、普遍的な悩みから始まるんだよっていうのを綺麗に暗喩していると感じた

21話で冠葉が要人(?)のセダンにトラック突っ込ませたとこ、荻窪駅北口を西側に出てすぐのところなんだけど、ここで事故が起こってんの嫌すぎ~~~という全然関係ない感情湧いた。ここに並んでる路線バスの類いはまず全滅だし下り方面へ行く車・タクシーも終わっててそのせいで絶対駅も混むやんっていう。
荻窪、まぁまぁ土地勘ある場所なのでリナちゃん(ラーメン屋さん)も元ネタがすぐ分かって面白かった。あそこナチュローの反対側のとこやんな、気付かないうちに聖地巡礼を済ませてしまっていた。入ったことはないけど今度機会があれば行ってみようかな

22話途中で思い出したけど、久宝阿佐美って結局なんだったん…?という。特に回収されずに終わっちゃったよね。気付いてないだけで回収されてたのかな?

池袋駅の地下、一般の人間が出入りできるB1Fですら地上のどこの出口にどこから出られるのか意味分かんないんだから、もっと下層にあるスペースなんか全然意味分かんないぐらい入り組んでるだろうな~という妙な納得があった

電車内暗転の時に壁一面を埋め尽くす「95」、カルト宗教・地下鉄っていう題材からしてもまぁそういうことなんだろうな。統計オタクだから途中まで95%信頼区間のことしか思い付いてなかった。
やや性質を異にするとはいえ、まさか「22」が起こるなんて誰も思うまいな。このタイミングで劇場版後編が公開になったのは本当に何の因果なんだろうか。
地下鉄サリン事件は荻窪を含めた丸ノ内線も被害沿線の一つと聞いて、なるほどな…と

そしてカルト宗教2世について語る上で、2022年の今あの事件に触れない訳にもいかないと思うのでちょっと書くんですけど。
件の母親が県警の聞き取りに対して「統一教会に迷惑かけて申し訳ない」と漏らしたニュースが異常に叩かれてたけど、そりゃ本人は好きで信仰してるんだからそういう言葉が出ても何らおかしくないでしょうよ。センセーショナルな見出しに踊らされすぎ、一旦何か自分の好きなものに置き換えてみたらいい。
人が死んでんねんから多少なりともお悔やみの言葉はあったと考えるのが普通で「申し訳ない」以外を言ってないとは考えづらいし、彼女の中の優先順位が何番目でその「申し訳ない」が発せられたのかは知らんけれども。
それこそサリン事件みたいに教会の幹部が組織的テロとして指示したわけでもあるまいし、息子のことも蔑ろにしてたぐらいなんだからきっと自分のせいだなんてそこまで思ってないよ。
何にせよ許しがたい事件だし、そういう家庭環境を生み出す原因となったクソさを唾棄しなくてはならないことだけは間違いないけど、それと同時に犯罪は犯罪それ自体として裁かれるべきだという態度を崩してはならない。もしどうしても母親まで裁かれてほしいのであればネグレクトだとかそういう視点から見なければいけなくて、先にも書いたようにそれは信仰の内容と交絡するものではないことの方が多い。
宗教法人が“やりすぎて”しまった時の線引きは「犯罪行為であるかどうか」ただ一点のみであるべきで、それ以上でもそれ以下でもいけないと思う。

ちょっと前に超新塾アイクぬわらが話してた「日本人は黒人を差別してる訳じゃなくて、ただ知らないだけ」というインタビューが印象に残ってるけど、それは宗教についても同じように言えると思うな。
日本人の多くが無宗教でいられるのは良いところだと思うし、かく言う自分もその一員なんだけど、それはそれとして日本人は信仰という行為についてあまりにも無知すぎる。自分と宗教とをできるだけ切り離しておきたい気持ちは分かるところがあるけれど、一方で宗教というものは日本人が思っているよりもっと自分自身や社会の中で不可分に溶け込んでいる存在だということに気付いていないと感じる。
今回の事件で金を毟り取ることがカルト宗教の本質であり諸悪の根源のように論じられているけど、エホバの証人みたいに非営利な宗教団体の方が善性の押し付けが強いカルトとして存在していたりもするし、幹部・信者の心も痛まない分だけそういう団体の方がタチ悪かったり面もあることを理解できていない人間も多いはず。
アニメの元ネタとなったオウム真理教が過去に類を見ないぐらい宗教と犯罪を結びつけてしまった分だけ、この作品はむしろ勘違いさせる方向に働いてしまっていると思うんだけど、「信仰の自由」という言葉と、犯罪行為とをきちんと切り離して考えられる思考が必要だと感じた

最終話で陽鞠を抱きかかえて連れ出す冠葉に対して眞悧が放った「君たちは決して呪いから出ることはできない」「箱の中の君たちが何も得ることはない」「この世界に何も残せず、ただ消えるんだ」「君たちは絶対に幸せになんかなれない」ってセリフも良かったな。
状況的にはカルト宗教から抜け出そうとする人間への捨て台詞なんだけど、裏を返せばカルト宗教に入信しようとしている人間にもガン刺さりしているという。
この辺の表裏一体感についても、先に書いたようなバランス感が出てて良い作品だった。

最後の最後、唐突に「死はおしまいじゃないよ。むしろそこから始まるって、ケンジは言いたいんだ」とか言われたのでケンジ誰…?新キャラ……??
と考えてたけど、もしかしてと思って「宮沢賢治 りんご」でググったらBINGOだった。「苹果」っていう珍しい表記もここから来てるんだな。
『銀河鉄道の夜』、あんまちゃんと読んだことないから深いこと言えないんだけど、苹果が肯定的な死の象徴として描かれているのね。劇場版を観るまでにこれも読み返しておいた方が良さそうだな

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