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「怪談荒屋敷セル」(野戦之月)見た。

野戦之月の「怪談荒屋敷セル」に、昨日行ってきました(今日と明日もやってます)。野戦の月は、最初にみたのは95年だったと思う。その後もう一度くらい見た覚えあるけど今回は少なくとも15〜20年ぶりくらいに見ました。

観念的な密度の濃い台詞と俳優さんたちのほとばしる演技を浴び続ける3時間弱。毎度そうだけど、ストーリーとか筋書きとか、あってないようなもので。わたしなんか普段から頭でっかちなので、どんなものにもすぐに意味づけをしてしまうとこがあるし、その意味づけがはまればはまるほどそれが真実なような錯覚をおこしがち(この〜〜! ニセ予言者が!) 。


でも結局自分で意味づけることができることなど私の体験や知識の限界を超えられない。むしろ思い込みを強化することにしかならない。一方で、こういう、野戦の月のような表現って、四方八方から、さまざまな言葉が投げ込まれて、私の脳の中の断片的な記憶にスパークするというか。まさに、カミオカンデにキャッチされるニュートリノみたいな感じ。一瞬のスパークが消え去らないときに、また他の記憶に別のことがスパークして、そしたら、その淡い光が、連動していくような。そのときにふきあがってくる感情は、理屈とは全然違うところからやってくる感じ。


ここのところのいろんなことに結構疲れはてていたのは、なんかこう大脳新皮質の一番表面のところでわーわーやってた感じ。みんな生きていくなかでいちいち意味づけしながら生きているわけではないし、もっとも小さくさせられた人たちが、ただ、生きるためだけに生きている、そういう営みの場が、この世界のあちこちで、あって。そこから生まれた言葉や感情の断片たちが飛び込んでくるとき、私の頭は、いっぱいいっぱい理屈や言葉を貯めているカミオカンデみたいなものなんだけど。たくさん貯めた理屈に、ニュートリノは反応しない。キラッ、キラッと反応できるのは、その言葉でない、私のわずかな体験や感覚の記憶のほうだった。そんな感じ。


終わったあとに、誘ってくれた編集者のDさんと、しみじみ、なんか、この世界はまだ生きていくに十分なとこだって思えるよねというか、とにかくまた、道に迷ったら、アラヤシキにいけばいい。そういう場所があると思えるよねとぼそぼそ言いながら帰った。なんか胸がいっぱい。


CSN&Yテイストの、テーマソング「アラヤシキのテーマ」もよかったなあ。音源出してくれないかなあ。


あと全編に流れる野戦の月の関連テーマは聞けばすぐわかる大熊ワタルさんの音。挿入される音楽の中のひとつに、DUTY FREE SHOPP. × カクマクシャカの「民のドミノ」もあって。もう10年以上聞いていなかったので、飛び込んできて、これもスパークした。


今日と明日までやっています。ぜひ。

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