世界は大きな森でできている
人は仮面を被って生きている。
学校や社会という舞台で、ある程度自分を演じながら、折り合いをつけながら生きている。
自分は仮面などつけず、どの場面でも素の自分です、と言える人はどのくらいいるのだろうか。
仮面をそっと外して、肩の荷物を下ろして、ホッとする。今日もお疲れ様。
何気ない雑談が、ちょっとした嬉しいひとことが、車窓に流れる景色が、今日も小さな幸せを心に運んでくれる。
年度の終わりの日に、暖かい春の風が吹いて、新しい始まりを予感させた。
「あなたは大きな木みたいです」
そんなことを最近言ってくれた人がいる。
それはどういうことかと聞いたら、私の周りで小さな木がいくつも育っているように思うからと。
でも、それはお互い様で、いろんな場所で"育ち合い"が起こっていると思う。
私も周りにある沢山の木に力をもらっているからこうして立っていられる。
そう言えば、私のことを「石のようだ」と言ってくれた人もいた。
今日もそこに「いる」こと自体が、お互いの支えになっている。
私は、あなたからも力を受け取っている。そう伝えた。
世界はきっと、大きな森でできているんだね。
視力検査をして、レンズの度数を合わせる。
レンズがあるのとないのとで、どちらが見やすいか微調整する。
メガネやコンタクトレンズもオーダーメイド。
多くの人が使っているものが自分に合うとは限らない。
服も靴も同じ。無理して受け入れても、次第にズレが生じて痛みが出てくる。
小さくても大きくてもダメ。自分に合う、丁度良さが必要なんだ。
「みんな同じ」は、本当はありえないことだ。
「みんな同じ」は合理的で、除け者にされず、多数派に所属することで安心できるのも事実。ひとりぼっちは怖いもんね。
だけど「普通」を、「当たり前」を、疑いたくなるよね。
みんな、誰かにとって変だと思うことがある。
そんなやり方するの?
そんな風に感じるの?
そんな風に解釈するの?
たとえ違うと感じても、それでいい。
「変」ではなく「違う」、ただそれだけ。
正常だと思っていることは誰かにとっては異常で、異常だと思っていることは誰かにとって正常である。
違いを楽しめればいい。違っているからおもしろい。そう思えればいいけれど、世界はまた大きな分断に向かっている。
今失われつつあるのは、人々の心の「余裕」だ。
だけど絶望の渦に沈まないのは、違いを認め合い、違いを楽しむ仲間がこの世に沢山いると信じられるからだ。
最近『今日もあなたに太陽を〜精神科ナースのダイアリー〜』という精神科病院が舞台の韓国ドラマを見た。
なぜ人は壊れてしまうのか。
小さな綻びのような違和感が、環境との摩擦でどんどん深い溝が生まれ、次第に自分で自分を扱えなくなっていく。
そして、無意識のうちに自分にナイフを突きつけるようになる。
自分が自分でなくなり、自分で自分がわからなくなる。
それはとても苦しいことだ。
いつも明るく元気で、みんなの太陽のような存在であった看護師の主人公が、あるショッキングな出来事をきっかけに、日に日にうつ症状が深刻になっていく描写はかなりリアルだった。
きっかけや条件が揃えば、誰でもいつでも心と身体が壊れてしまうことがある。
"わたしたちはみな、正常と非正常の境界線上で生きてるのだ"
本当にその通りだ。
常識は時代によって変わる。
暴力が暴力とわかる。
差別が差別とわかる。
わからなくても知ろうとする。
できる限り想像する。
知性とはそういうことだ。
人を傷つけていることに敏感になること。
自分の心と人の心に目を配ること。
一歩ずつ、始めよう。
ゆっくり、一歩ずつ。