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声優観

“オタク”という言葉を軽率に使ってしまえば、私はかつて紛れもなく“声優オタク”や“アニメ・ゲームキャラオタク”であった。その界隈からは離れて久しいが、幾らか思うところがある。

近年、声優という職業は大いに注目されるようになっていると思う。敢えて失礼な云い回しをすると“オタクのピエロ”であった声優を、今やテレビで観ることも多々ある、らしい。私はテレビもネットももうあまり観ていない。
しかし、これでは注目の度合いが上がったというだけで注目されるようになった理由がわからない。そもそも、何故声優は“オタクのピエロ”たり得たのか。
半年ほど前か。YouTubeで見た某大御所声優たちが語らう声優の歴史についての動画を観たときの記憶から考える。
どうやら本当に最初のブームが起こったのはかなり前の話らしい。最も有名であろう声優雑誌『声優グランプリ』は今年で創刊29年であったと思う。私より一回りも年上だ。しかし、私の幼少期、十数年前に、私の交友範囲(n=50)という狭い中の話だが、将来の夢の時間に“声優”と書く人間は誰1人いなかった。
異常と云って差し支えない近年の声優へのスポットライトの当て方を探るには、ゼロ年代後半から今までを振り返るだけで十分ということにしよう。

その動画で彼らが直近(と云っても10年以上前)の声優ブームの立役者に名前を挙げたのは平野綾氏だったと思う。なるほど、『涼宮ハルヒの憂鬱』や『らき☆すた』があった。少なくとも『らき⭐︎すた』の方は声優がキャラクタに扮してライブを行なっていたと記憶している。2023年現在は(当時もか?)声優がキャラクタに扮してライブ(イベントは少し別だろう)をするのは、極々当たり前のことだ。
しかしよくよく考えるとこれは異様なことだ。我々が推しているキャラクタは残念ながらz軸を持たない。にこやかだったり、或は憤怒を纏っているが、会話をすることなどできないし、勿論触れられない。
声優も、どこまで行こうとそのキャラクタの“声”でしかない。
少々ベクトルは違うが、初音ミクは完成系か?否、初音ミクはz軸を持たない。アイドルマスターは?……本当にキャラクタだけを感じたいなら、目を瞑るしかない。

声優によるキャラクタライブは、やはり何らかの形で不完全なのである。では何故社会は本来演技だけが仕事であるはずの声優にこうした、謂わば担当外の仕事を強いるのか。
10年ほど前を思い出すと、強烈なAKBブームだった。彼女たちは会いに行けるアイドルとして人気を博した。この「会いに行ける」というのは、次元が違う生物相手には叶えられないことだ。
きっとここだ。声優にキャラクタというアクセサリを付けて、偶像として売り出せると思ったのではないだろうか。そこに立っているのは声優本人でなければ、キャラクタでもないが、「会いに行ける」ではないか!
当時のアイドルブームも、声優のアイドル化を推し進めた要因だと考えられる。

そして少ししてから、声優がキャラクタというアクセサリから自立した。私は演技以外の活動全てを“偶像”を為すための要素と考えているから、アーティスト活動の話をする。ピンクのフリフリや王子様の服を着るのがアイドルの本質ではない。今や声優がアーティストを兼ねるのは半ば必須に思える。アーティストとして売れている売れていないは置いておいて、著名な声優は体感7割方自分の曲を持っている。
声優のライブ、イベント、番組は星の数ほどになった。それ自体は別に構わないのではないかとも思える。彼ら彼女らは脚光を浴びて然るべきだ。俳優の落ちこぼれなどではなく、相当の技術を持っている。
その技術は当然演技に関するもののはずだ。しかしながら、そういった音楽活動とか、イベント、番組でしか名前を見ない人も増えてきたように感じる。あくまで幹はアニメや吹替での演技であって、他の活動は枝葉末節に過ぎないし、そうあるべきではないか。
“声優”と云うのだから、声一本でも勝負できるようにしてほしい。
……と我々が云う訳にはいかない。何せ、これを望んだのは我々である。いつの間にか、キャラクタの絵の裏側でマイク前に立つ役者の方を好きになってしまった。それに応えるように、活動を拡大していった。
我々が望み続ける限り、声優に関する過剰な需要と供給のサイクルが止むことはないだろう。
テレビ業界などは上手く棲み分けされているが、アニメ業界は、注目されるのはどうしても役者か、コアな人でも監督だろう。そうなると、役者が大抵のことを背負い込むしかないのだ。

ここで悩ましいことを思い出す。「キャラクタの絵の裏側で」と前述した。ということは、我々は一度キャラクタというフィルタを通さないと、声優を好きになれるはずがないのだ。
経験談になってしまうが、声優にアニメやゲーム以外の道から出会うというのはほとんどない。番組やイベントに手を出すのは、当然、アニメやゲームからその声優に興味を持つようになってからの話だ。
他の作品も観るだろう、演技に感動するだろう、番組イベントに行ったりするだろう、アルバムを大量に買ってサイン会の当落で一喜一憂するだろう。その人のコラムを読んで、大好きになってしまうだろう。だが、大好きなのは、本当にその人自身だろうか?刷り込み効果のようなものだと思うが、声優の名前を聞くとまず演じていたキャラクタで自分が最初に出会ったものが不可避的に思い出されてしまう。無意識の内、そのキャラクタに声優本人を重ねてしまっているのではないだろうか?
もっと卑近に、職場で立派だったから結婚してみたら家ではとんでもなくだらしなく失望したというのはよく聞く話だが、それはその人の職場で立派、という要素のみを見て、「職場で立派な」その人だけに想いを寄せ、トンネリングを起こしているからだ。
演じられるのだから、その声優の中にも私が好きになったあのキャラクタの要素が多少なりとも眠っていると決めつけてしまって、キャラクタが好きだから、勝手に声優も好きになる。
声優と恋愛をしたい人がいるらしい。その内95%は、その声優の奥に潜んでいると考える、自分が好きなキャラクタに恋をしているのだと思う。
しかしながら、キャラクタというフィルタ無しで声優を見るのは異常なことであるし、まともな“声優”ならそれは不可能である。キャラクタを介さないのは、あまりにも、愛し方として不健全だ。


「あの声優が好き」の根底に眠る想いは、果たしてその声優だけに向いているのだろうか?

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