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社会との対話と合意形成

PR3.0 conferenceに参加してきました。発達支援とか福祉とかの領域でなぜ?という疑問もありながら、私の中でこのプログラムを見たときに、これは行った方がいいという野性の勘でしかなく、「おそらく場違いなのだろう」と思いながらも地方割という素晴らしいチケットがあることにも背中を押されて申し込んでいました。当日まで「果たして理解できるのだろうか」「そもそもなんでこんなに心が動くのだろうか」と自問自答しながら会場へ。同じような感覚でこれからの福祉と教育を現場レベルからアップデートしたいと感じているチームパートナーと一緒に行ってみました。

会場に集う多様な人たちと人数の多さにまず圧倒。この空間に耐えられるのだろうか、本当にきてよかったんだろうか感がますます強くなる。この、「思ったら突っ走る」という衝動性はいかがなものなんだろうかと自分をやや否定し始めるわけです。もはやいい年齢なのに。

しかしながらそんな心配や否定感はもう午前中にあっさりと払拭されました。ああ、来てよかった。今まで自分たちが福祉や教育の現場で感じてきた感覚や問題意識やこれからの世界観やそういうことが一致していく感覚。登壇者の話す「言葉」が一つ一つ響く感じ。Public Relationsが社会と対話することなのだとすると、現在制度化されている仕組みの中での様々な課題を解決するためのコーディネーターとして動き回っていたことが、つまり勝手に私が肩書きを考えて新しい仕事として「福祉と教育を生涯発達の視点からコーディネートする」なんぞと言って今まである福祉の場に入り込んでいるこの状態自体を、PRだと言っても過言ではないのだとさえ感じたのです。

そしてやはり福祉現場は、なかなか「私」と「他者」の関係においてこれまで「福祉の場」と「社会」という対等関係に至っていないという決定的な企業との違い。つまり社会と対話し合意形成を図るのではなく、差別や偏見との「戦い」としての関係性から勝ち取ってきたという場であり、社会に対してのPRはうまくできていなかったのだということです。

この場において、「福祉」だとか「マイノリティ」だとかについて特に触れるようなこともなかったにも関わらず、おそらくこの中では彼らの存在も「個人」という括りの中にしっかりと定義づけられて語られているに違いないという安心感がありました。この感覚。大きなものが大きな集合体だけに向かっているのではなく、企業と個人の関係や、もはや「組織」というそのものの概念が変化しているということについてこんなにもしっかりと語られている場がある。

私たちがやっていることはあまりにも小さくて泥臭い。その中での可能性すら今回のPR3.0で感じてしまった。これこそがこの場のすごさかもしれないのです。

もう一つ。新しいものがどんどんできていく、社会の変化は東京のスピードと地方のスピードはやはり違いすぎる。しかしそこで私たちは諦めない。最後のセッションで、あらためて対人援助をする者としても、いつでも最先端のものを見つめながら、過去の先人たちの偉業として歴史をみながらタイムマシンさながらのコーディネートをすることの意味を裏付けされた気分だったのです。

私たちはやはりそれでも淡々と、今やっていることを続けるでしょう。でもそこに新しい概念と言葉を入れていこう、そして表現していこうと素直に感じました。そう、私たちのやってきたことこそ、「個」が「個」であることを徹底的に支えることのできる仕組み作りができるのかもしれない。教育や福祉用語で語られてきた言葉を、あらためて一般社会とも共有することはもしかしたらとても価値のあることなのかもしれない。アセスメント =障害の見分け、みたいなことになっていたけれど、本当は誰でもこのアセスメントを自分のために生かすべきなのかもしれない、そして「個」というものそのものをもっと立ててもっときわ立たせていくことそのものが、「多様性」とか「ダイバーシティ」というものそのものかもしれない。

本当に行ってよかった。また時代差のある現場に戻りながら、でもここでの気づきはかなり価値の高いものであったことが、これからに繋がると確信しています。





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