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「生涯発達」と「書」の関係性を考える

「全世界と匹敵するものとなった紙切れ一枚に、どのような世界を繰り広げるのか。いわば自分が創造主の立場に立たされたその畏れに、作者はおののくのです。」(石川九楊)

「人は生涯にわたって発達し続ける」と言ったのは発達心理学者のエリクソンでした。そもそも人間の成長とは、いわゆる体や脳については15歳くらいをピークに衰えていくものだと言われてきました。しかし、精神というもの、経験値というもの、そのような測れない「知恵」に関しては成長し続けていくものであると、私たちは感覚的にも知っていることかもしれません。近年では、「成人発達理論」という形で、さらに研究が進められています。

私自身、障害児教育というテーマで研究を続けてきましたが、それはつまり発達そのものに特性のある方々について取り上げてきたのであって、それ自体が実はすべての人たちにも当てはまるのではないかという感覚になってきました。つまり、発達の偏りや認知の偏りはすべての人がそもそも持っているのです。それの大きさ、ずれ、それが大きいほど「障害」と感じるだけ。

さて、「書」というものへの「偏見」と「誤解」というものも、実は大変それに近いのです。学校の習字で行われてきた「美しさ」とは、「手本どおり」というだけの話であり、「書」そのものの美しさについては、あの時間に語られていたわけではありません。つまり、私たちはある一定の「基準」に沿って、「うまい」「ヘタ」と勝手に決めつけられるという経験をしたがばかりに、「自分の字」に対して非常に自信がないというオトナが量産されたと言っても過言ではありません。

そもそも、「書」は大変自由なものです。しかしながら、ふにゃふにゃと扱いにくい筆と柔らかな紙と、その力加減、それが絶妙な一体感あるいは不自由だからこそ生まれる味わいとなって表現されるという特徴があり、だからこそ意図していない表現が生まれたり、偶然の一致、書かされているという感覚、自分自身だけではなく対象(筆、紙、空気)などと向き合いながら集中力を使うという、もっと自然に近い表現(つまり自分自身が現れるというやや怖さのある)が生まれるものでもあります。

自分と向き合い、自身をそのまま受け止め、そのまま表現する。そのために、筆の使い方そのものを体得し、自由に筆を操作できるように技術は磨きますが、それも実は完全に思い通りにできるわけではないというジレンマがあるからこそ、書は面白い。そしてそのある意味では、もしかしたら自分としては不満かもしれない表現を、違った角度から見てみたら魅力があるとか、他者から見たらとても素晴らしかったとか、「自己像」と「見られている自分」との不一致などにも気がつくことができる不思議なものだと考えています。

 私たちが日頃囚われている、「こうでなければならない」という感覚を一度、すっかり取り払い、世界の創造主になってみましょう。

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