見出し画像

春の日の絶望と僅かな希望

生きたくないな、とは思う。
けれど、死にたい、とは思わない。

「生きたくない」を「死にたい」に直結させないための、何か歯止めのようなものがあるのではないかと、僅かながらほんの少しの希望が持てる。

澄み切った空の下、桜が舞い散る暖かな春の日。
私は鈍く重い頭を精一杯支えながら歩く。
足取りが重い。
果たしていつになったら、体にのしかかる重石のような物が消え去ってくれるのか。
そんな不安が、更に心までもを重くする。
全てが重い。

愛すべき春の景色が、いつからか憎い。

美しい景色に囲まれているはずの自分は、絶望オーラに囲まれているのだ。

この状況を俯瞰的に描いてみることを想像したら、美しい空と桜の木をまず描き、そしてルンルンと散歩する人の姿…ではなく、鬱々とした人の姿…
あまりにもミスマッチで、なんだか笑えてくる。

クソ、こんなにポカポカと晴れやがって。

置いていかないでくれよ、
私の心と身体も晴らしてくれよ。

こんな気持ちになってしまうから、春がいつからか怖い。


季節は変わっても、私の不調は続く。

ちょっと元気になったかな、また動けるかな、と思い少し予定を増やしてみる。

ところが、ちょっとだけ忙しくなると直ぐにまた身体の機嫌が悪くなる。
なんとも我儘な身体だ。

忙しいと言っても一般的な人間の「忙しい」とは比べ物にもならないくらい、ゆったりとしたペースではあるのに。
一日に一個しか予定入れられないし、毎日外に出てフル活動なんて実現するにはまだ程遠い。

心は「頑張りたい」と思っていても
身体が「頑張りたくない」と言っているようで。
だからこそ、頑張れない状況に何度も何度も嫌気が差す。

こうして体調を崩す度に(ずっと体調は悪いため崩すという変化を表す言い方に自分でも違和感はあるが、ここではさらに調子が悪くなった時を意味することにしよう)
「生きることを放棄したい」と思ってしまう。

何もできない。

社会の構成員でありたくない。

なのに、今のところ「死にたい」という感情は現れない。

2年前、初めて心療内科に行った日
問診票のチェック欄に
「希死念慮はあるか」という項目があり
その欄だけチェックをつけなかった記憶がある。
その時の自分に、自分でも唯一の希望を抱けた。たった一筋の光のような、希望。

あ、自分、死にたくはないんだな〜
とまるで他人事ように気づいた瞬間だった。

「生きたい」という強い意志を持つわけでもないが「死にたい」と思い詰めることもない。

何故か。
おそらく、自分自身に対して無関心であるのかもしれない。

自分の身体の状況に対して、どこか冷静になって他人のように考えている自分が時たまいる。

それは貴方の身体だよ、とツッコむ自分が出てきそうだ。

この頃の私は、自分の人生を自分が生きることに対する責任感が欠落している。
なんか、もう、どうにでもなれ。
何も成し遂げてなくても、自分と関係なく日々も社会も進んでいくのだから。
と今は思っている。

絶望が諦めへと形を変え、やがて達観へと変貌を遂げる。


メンタル維持のために「人と比べない」という事をすると良いというのはよくある話だ。

自分自身を追い詰めないように心が死なないように、自分も気づいたら人と比べなくなっていた。
周りがどれだけ活動的で、様々なことを成し遂げようとしていても、特に何も感じなくなってしまった。
「おー。すごいなー。」ただそれだけ。

周りの人に感化されて、何かを頑張る糧にする、
かつての自分はいなくなってしまった。

「悲観主義者の延長としての楽観主義者」が爆誕してしまったのだ。

これは、良いのか悪いのか。


あれこれ考えても終着点はないので、
とりあえず非現実だけを生きていたい。

小説を読む時間、映画やドラマを見る時間、
推しのアイドルを見る時間…
このような自分のリアリティーとは乖離した時間だけは、すごく生き生きとしている。
申し訳ないくらい、好都合ではあるが。

本来なら現実を頑張っている人に捧げられるべき時間を、現実を頑張れない私が齧らせてもらっている。

そう、多分「生きたくない」が「死にたい」に直結しない歯止めのようなものとは、この非現実の時間なのだと思う。

小説や映像作品など、人の手によって作られたものに触れていたい、まだ知らないものに触れたい、これだけでも暫くは生きる理由になるのだ。

身体は思うように動かなくても、心の中で冒険させてくれる物たちに囲まれていたい。

とりあえず今はそんな些細な「生きる理由」に頼りつつ、身体と心が春のように晴れる日まで、
なんとなく日々をやり過ごそう。

気楽にね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?