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迷路が好きになり始めている

  ↑タイトルの写真は昨年6月の庭のあじさい(雷雨の後、西日を受けて)
投稿しなかったnote文章の写真です。

  今度の日曜日に自宅で母の一周忌を行う予定。少なからず準備がありますが、何もしていません。3日前に激しい下痢をして、まだ体に力が入らずボーっとするしかない現状。頭も思考が止まり、ちょっと前にすごい気づきを私にもたらしてくれた「歎異抄」も遠いところに行ってしまいました。

  無防備な私の心身。混沌としています。ボーっとするしかありません。メールのチェックついでにnoteを開いてみたら、私が昨年書きかけた文章がありました。今の私を慰めてくれているみたい。一年前の自分は、今の自分とさほど大差はないのだけれど、一年先の私を見ていたのかも?

一年前の迷路から(2023年6月)  


   この一週間、家の片づけ掃除を休み休みながらも続けています。友人から早朝瞑想会の会場に一日貸してと頼まれて「いいよ~」と何も考えずに返事したのが数か月前。それから母のお葬式・法事などのお取り込みもけっこうあり、家の中は手つかずと言うより「前よりかなり汚れて」しまいました。気づけば今度の日曜日に瞑想会がある。もちろん友人も片付けに来てくれたのですが、片付けの方向性が決まらないときれいになってはくれません。二年前に病気になってから家の根本的片づけはやっていないのです。

  ほうきをかけて掃除する私の姿は匍匐前進のようです。普通箒をかけるときは腰を少しかがめますが、私はその動作がしんどいのです。胃からお腹にかけてのインナーマスルに力がかかります。そこで床に座り込んで箒を床を滑らすように使って埃をかきだしています。いちど座るとなかなか立ち上がられない私。しばらく座り込んだ姿勢のままズルズル床面を移動しては掃除しています。

  掃除機も同じ筋肉を使うので私には少々辛いものがあります。掃除機って割と重いのですよ。使ううちに吐き気がしてくることもあるので要注意。その点、箒は軽いのがありがたい。埃がするので今日は白折れ茶の茶殻をまいて埃をからめて掃除してみました。(茎が入っているお茶の方が煎茶より床に貼り付きにくいと私は感じます)

  ときどき 作業の手を休めては ぼーっとします。
今日はふと迷路の事を思ってみました。迷路に入るのは避けたい。でも入ってしまうことは度々あります。そして出口を探そうと必死になったりあせったりします。出口はきっとあることを固く信じて、汗水たらし息を切らせてなるべく早く出ようともがきます。今までは途中で立ちどまることはあってもボーっとはしなかったように思います。途中で疲れ果て寝入ってしまってもまたむっくり起き上がって必死に出口を探して走り出していたように思います。

  今の私はどうなんだろう?
昨夜 久しぶりに迷路に入ってしまいました。どうしようともがけばもがくほど泥沼の堂々巡り。あー疲れた。こんなこととは金輪際おさらばしたい。それでもグズグズしていたら、そんな思いのエネルギーが尽きてしまいました。それで座り込んでいきなりボーっとモードになる私。出口も探そうともせず、目の前の袋小路がなぜかシェルターみたいに思えて、安心してボーっとするのです。するとそこが 居心地がよくなってくるのです。


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