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「がんばらない」も案外疲れる、その理由

わたしはここ数年、仕事人間だった。…いや、それは言い過ぎかな。でもまあ「仕事中心人間」くらいは言っていいんじゃないかと思う。

で、仕事をそれなりにがんばっていたわたしは、家のことは一切がんばらなかった。しかもただぐーたらしているのではなく、「絶対がんばらないぞ!」と固く心に決めていたのだ。

生活は毎日のことだから、自分が自然にやれるレベルより上を求めたら疲れてしまう。基本、絹豆腐メンタルなので、疲れることが重なると仕事で踏ん張れなくなる。うん、生活に関してはできる範囲でできること、したいことだけやろう。

・・・・アメリカのお菓子並みに自分に甘々なわたしはそう考えたのだった。実際、とことん原稿と向かい合う時間を取れたのは、家のことをまったくがんばらなかったからだと思う。

さらに、以前書いたように子どもが生まれてより徹底的にがんばらない姿勢を貫くようになり、はや一年。
いま、ふしぎなことに、「がんばらないのも疲れるなあ」という感覚が芽生えている。もっと言えば、少しがんばりたい、という気持ちが顔をのぞかせているのだ。

あんなに熱心に「がんばらない教」に入信していたのに、なぜか?


——「達成感」がないからだ、とわたしは感じている。

仕事がたのしいのは、やっぱりそこに苦労があり、工夫があり、つまり「自分のがんばり」の結果よろこんでくれる人たちがいるからで。もし苦労も工夫もなかったら、たとえある程度の成果を残しても「よろこびに対するよろこび」も半減してしまうと思う。
極端な話、まったくがんばらなくていい仕事があったとして、はじめは「ちょろいぜ!」とホクホクしても、数ヶ月でだれてしまうだろう。

生活も同じ。がんばらないことはラクだけど、どこかでだれてしまう。ときどきがんばってみることが、日常をヘルシーに過ごすためにも大切なんじゃいかな、と感じている。

達成感には、疲れを凌駕する癒しの力がある。
がんばらないことでゼロをキープするより、ときどきがんばって疲れてマイナスになって、そのあと訪れる達成感でプラスに持っていくほうが元気になれる。そこにだれかの労いと感謝が加われば、なおよし。

徹底してがんばらないのも、意外と疲れる。——このことに気づけるまでがんばらなかったわたしを許容してくれた夫よ、ありがとう。

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