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ヤマネコの水晶

翌朝、ママに別れを告げ、僕らは京都に帰った。京都に戻ったあと、再び左京区のアキラさんのもとを訪ねた。前に書いた通り、アキラさんの家は僕らの部屋のすぐ近くなので、気軽に行くことができた。

アキラさんは今度は歌は歌っておらず、黙ってDVDの映画を見ていた。ヴィスコンティの『ヤマネコ』だった。

「死んだおじいちゃんと西表島に新婚旅行に行った時」と、アキラさんは物憂げに言った。「イリオモテヤマネコを見た気がしたんだよね」

「あ、それ知ってる」と反応したのはヒカリだった。「お母さんから聞いたことがある」

「あれは本当にイリオモテヤマネコだったかどうかは今もわからないんだけど」とアキラさんは小さく言った。「月を背負ったあの大きな姿が今も忘れられなくて」

「おばあちゃん、おじいちゃんはそのあと、おばあちゃんの手のひらにまだ生まれていなかったママの似顔絵を指で描いたんでしょう?」とヒカリは言った。「掌のスターチャイルドって、素敵」

「おじいちゃんって、そんなところがあったよ」とアキラさんはつぶやいた。「でも、若い頃の私は、イリオモテヤマネコとスターチャイルドの組み合わせが妙にロマンチックで、その時から本当におじいちゃんを好きになった。平凡な人だったけど」

「もしかして」と、僕はアキラさんに言ってみた。テレビでは、『山猫』のアラン・ドロンが汗だくになって走っていた。「そのあとも、ヤマネコに会ったのでは?」

アキラさんはびっくりしたみたいで、背筋を伸ばして僕を見て言った。「どうしてそれがわかるの?」

「そんな目で、アキラさんがテレビを見ているように感じたんです」と僕は言った。「次のヤマネコとの出会いが、何か決定的だったような気がしたんです」

「そう、あれがあったから私たちはあの人が死ぬまで続いた」とアキラさんはテレビのバート・ランカスターを見ながら言った。アラン・ドロンはすでに走り去っていた。

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アキラさんたちはその後、西表島を訪れることはなかったので、2度目に見たそれはイリオモテヤマネコではなかった。対馬も彼女らは訪れなかったため、ツシマヤマネコに会うこともなかった。

アキラさんが見たそれは、西表島でも対馬でもなく、アキラさんのふだんの生活に何気なく侵入してきたそうだ。

「ヤマネコは」とアキラさんはいった。「わたしたちの関係に緊張が走った時、さりげなく現れるのよ」

「わたしたちって、おばあちゃんとおじいちゃんね」とヒカリは確認した。

「そう、わたしたち、ふだんはあまり喧嘩しなかったんだけど」とアキラさんはヒカリを見て言った。「時々ことばがすれ違った時とかに」

「ヤマネコは現れる」と僕は言ってしまった。「それはたぶん幻影ではなく、2人の間に突然現れるんですよね?」

「そう、あれは幻かもしれないけど、普通の幻影でもない。わたしたちが同時に病気になっているのでもない」アキラさんは僕の目を見て言った。

「僕も実は、ヒカリとシリアスな話をする時なんかにその存在を感じるんです」それはアキラさんに合わせた話でもなかった。少し前から僕は、ヒカリとの間で喧嘩みたいな雰囲気になった時、そんな存在が僕らの間に現れて、その喧嘩がエスカレートするのを止めてくれているような感じがしていた。

そのことをアキラさんに言ってみると、アキラさんが答える前に、ヒカリが

「わたしも」

と言って笑った。ヒカリは続けて、「『バカらしい喧嘩なんてするなよ』ってそこに充満する酸素が語りかけてくるような気がするの」

「酸素?」と言って笑ったのは、アキラさんと僕の2人同時だった。

「確かにあの存在は酸素っぽいよ」アキラさんは笑い終わった後に言った。「空気なんていう意味の広いものではなく、空気に21%含まれる酸素なんだよね」

「21%って、おばあちゃん、よく覚えてるなあ」ヒカリは笑いながら言った。

「新婚旅行から帰ってきて」とアキラさんは続けた。「新しい家に私たちは住み始めて、すぐにいろいろぶつかっちゃったよ」

「一緒に住むって怖い」とヒカリは言った。「今はまだお互いの部屋を行き来してるだけだけど」

僕もそれは同じ思いだった。たぶん一緒に住むと、毎日僕たちは喧嘩するだろう。

「そんな時よ」とアキラさんは瞬時に言った。「わたしたちの間に、ヤマネコが現れて、わたしたちを憐れみの目で見るの」

「ヤマネコが僕達に同情しているんですか」と僕は聞いた。

「ヤマネコのほうが人間よりも偉いっぽいもんね」ヒカリは真面目な顔をしてつぶやいた。

「ヤマネコの目は大きな水晶みたいに感じるの」アキラさんは真剣な表情で言った。「そこにヤマネコはいるんだけど、その目そのものはヤマネコよりも大きくて、巨大な水晶になってわたしたちを包み込む」

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ヤマネコの目に目つめられながらそれは同時に巨大な水晶でもあり、その煌めきに包み込まれそうになる。

「その感じ、よくわかる」と僕はつぶやいた。「僕らの平凡な日常の中に、その煌めきが侵入してくるんですよね」

「まさにその通り」アキラさんは少し笑って応えてくれた。「それが酸素そのものなのよ」

「わたしたちの平凡な日常に、そんな水晶がどうして紛れ込むんでしょう?」ヒカリは不思議そうに言った。「少しくらい喧嘩した程度で」

「ヤマネコは」とアキラさんは言った。「日常の喧嘩を馬鹿にするなよって言ってるのかしら」

僕はその時、変な圧力を感じた。透明で無臭なんだけど、なんとなく真冬のコートのように僕をそれは包み込んでいた。そう、それはまるで酸素のように。

その感じを僕はアキラさんに言ってみた。すると彼女は、

「あ、どうやらヤマネコの目の水晶が、今、わたしたちを積み込んでいるんだよ」と言って、顔をキョロキョロさせた。「わたしたちに、今も喧嘩するなって言ってるんだよ」

「喧嘩なんて大したことないのに」相変わらず持論をヒカリはつぶやいた。

「喧嘩する暇があったら」とアキラさんは言った。「わたしたちに、毎日のわたしたちをもっと見ろとヤマネコは言ってるんだよ」

僕の身体を包み込む真冬のコートは、酸素でもあり水晶でもあったけれども、どちらにしろ透明だった。その透明のエネルギー体が僕に語りかけてきた。

「ヤマネコの目は僕にこう言ってます」少し笑って僕は言った。「酸素をもっともっと吸えって」

「どういう意味なんだろ」と言って、アキラさんは笑った。

「だから」とヒカリは言った。「酸素を吸って、わたしたちに水晶になれって言ってるんだよ!」

「まさか!」と僕とアキラさんは叫んだが、その水晶と酸素というイメージに圧倒されていたのも事実だった。

「たくさんイメージが溢れ出してるね」ヒカリは、僕とアキラさんを見て笑った。


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