ついに夫との間で子どもをつくろうという話になった時、カナタは夫にパリへ一人旅に行かせてほしいと頼んだ。

カナタは30才で、パリに住む先輩には未練はないはずだった。だから2年前に夫と結婚したし、夫が自分を大切にしてくれることには感謝していた。

けれども、自分でも理由がわからないまま「パリに3日だけ行かせてほしい」とカナタは夫に言ってみた。

夫は詮索しない人なので、無条件に「いいよ」と言ってくれた。旅行資金も、2人でこつこつためた貯金からつかったらいいと言った。カナタは礼を述べた。

パリに行くのはこれが2回目だった。初回は、大学2回生の夏、ひとりでパリを訪れた。行きの飛行機で、ドゴール空港に着地直前のタイミングで、隣に座っていた10代の男の子が嘔吐してしまい、介護するのがたいへんだったことをよく覚えていた。

旅そのものは、パリの主要な観光地を一人で数日回っただけの、観光旅行だった。憧れのパリはカナタにとってはそこらじゅうに犬の糞が落ちており、それが道路の端を流れる濁った水に流されていく、奇妙な街だった。

今回、ドゴール空港に飛行機が着地した時、隣の老婦人は戻すことはなかった。カナタも、窓から真下のシベリアを睨み続けることなく、いつのまにか時間が過ぎ着地していた。空港には先輩が迎えに来てくれていた。

「時間通りだな」先輩はまた背が高くなったような気がした。そして、大学の時につきあっていた頃と変わらないまま、カナタの前を歩き、振り向きながら話しかけてきた。「前は、パリのどこに行ったんだったけ?」

先輩とは知り合いであったもののまだ付き合う前の頃で、そういえば詳しく話していなかった。カナタは、ルーブル美術館やノートルダム寺院など、訪れた有名観光地を伝えた。

「それじゃあ、だいたい回ってるんだね」先輩は笑いながら答えた。「たった2日しかいないんだったら、じゃあどこに行こう?」

そう聞かれたので、カナタは軽い感じで答えてみた。メールでもまだ伝えていないことだった。

「先輩の家は?」

 ※※※

意外なことに、先輩は快諾した。ポルトガル人の妻との間に、3才の女の子が1人おり、2人目を妻は妊娠しているということだった。

迷惑ではないのか、カナタは執拗に聞いてみた。

「いや、パリでの外食は高いし、今晩は僕の家で食べようとVとも話していたんだよ」

Vというのは、先輩の妻の名のイニシャルで、本名はヴァンダだという。

「ヴァンダでもいいんだけど」と先輩は恥ずかしそうに言った。「ブイのほうが心地良いってVが言うんだよ。それで慣れてしまって」

空港からパリに延びる電車は1時間程度時間がかかり、客の多くは無言で電車に座っているため、カナタも先輩も会話がしづらく、それっきりで黙ってしまった。

カナタは電車を降りるまで、Vについて考えていた。謎めいたその語感が、ブイを、アフリカの小国に潜入したポルトガル人スパイのようにカナタの想像のなかで設定し始めた。

ブイは絶対笑わない人。そんなふうに勝手にヴァンダ像をカナタはつくりあげた。

 ※※※

本物のVは、となりのトトロのサツキみたいな女性だった。年齢も20才を過ぎたばかりで、カナタよりだいぶ若かった。

第一次大戦中のポルトガルの謎のスパイではまったくなく、まっくろくろすけを妹とともに探してからかう、快活だけれども線の細そうな、一昔前の日本の女の子のようだった。

見た目の印象をそのまま言うのをカナタはためらったので、先輩に対してだけ日本語で、「お若い奥さんね」と囁いてみた。

「にじゅうにさい、なんです、ハイ」とVは笑いながら答え、カナタに握手を求めていた。そして、夫の古い友人であるカナタを「かんげいします」と続けた。

先輩とVは、やがて生まれてくる第二子のためにも広めのアパートを借りており、部屋が一つ余っているらしいので、今晩と明日、つまりカナタがパリにいる間はそこに泊まればいい、と言ってくれた。カナタは一瞬戸惑ったものの、空港から今まで何時間か先輩と一緒に移動したことで、なんとなく踏ん切りのようなものが本当に心に現れたと実感したため、部屋提供の申し出を受け入れることにした。

先輩もVも、カナタが「ウィ」と言ってくれたことを喜び、Vは夕食の準備に取り掛かった。

 ※※※

なにか軽い気分になり、カナタはその夕食時に、ヴァンダに向かって、10年くらい前に先輩とつきあっていたことを打ち明けてしまった。

「はい、しっています」とVは笑いながら答えた。「かれはまだCのことがすきかもしれません」

Cとはどうやらカナタの愛称らしかった。KではなくCなのが、カナタにはなんとなく心地よかった。そこで、

「実はわたしもまだセンパイを好きなのかも」と、先輩の妻の前で普通は言ってはいけないことを言ってしまった。

「はい、それはCをみればわかります」Vは、カナタのグラスにワインを注ぎながら言った。3才の娘は座ってムースを食べていた。

「わたしも、Cとおなじように、いまもすきなひとがいます」と言ってヴァンダはははは、と笑った。

先輩は一連のやりとりをニコニコ笑って聞いていた。どうやら、Vの過去のことを先輩はよく知っているようだった。Vとの会話の中で、先輩は私のことを話しているんだろうとカナタは想像した。

「わたしはそのすきだったひとと、あのエッフェル塔にいきました」Vは窓を指差し、そこから見えるキラキラ光るエッフェル塔を指差した。「それは、ザンコクなおもいで、でした」

 ※※※

先輩が言うには、ヴァンダの元恋人は同じポルトガル人で、数年つきあったらしいが、別に恋人をつくって結婚したという。パリに仕事でやってきたその元恋人に誘われてヴァンダはエッフェル塔のエレベーターで観覧階まで行き、その時に本当に彼と別れたことを実感したそうだ。

その数ヶ月後にヴァンダが出会ったのが先輩だった。

翌日、カナタはルーブルに行きオルセーに行くと、すぐに夕方になっていた。パリは薄暗くなっていたので、先輩のアパルトマンに戻る途中でエッフェル塔に登ってみた。中国人が40人くらいひしめく大エレベーターに乗り、観覧階からパリの街を見下ろした。5階建てのアパルトマンが整然と並ぶその光景が、カナタには日本に帰れと語っているように思えた。

夕食もヴァンダの手作りのものを食べ、少しワインを飲み、先輩は子どもを寝かしつけに早めに寝室に入った。結局、先輩とは深い話にたどり着けないまま、その旅は終わろうとしていた。

皿を洗ったヴァンダは、カナタのそばにワイングラスをもってきて座った。部屋の照明は薄暗く、誰の演奏かわからないジャズが小さい音で流れていた。

「ねえ、C、しんけいすいじゃくをしましょう」ヴァンダはトランプを持っており、日本語で神経衰弱と呼ばれるトランプゲームに誘った。

断る理由もないためカナタはヴァンダがカードを配るにまかせていた。

そして2人は、そのトランプゲームを始めた。

カナタはなげやりだったが、ヴァンダは真剣にゲームに取り組んだ。「シンケンスイジャクといってもいいらしい」とヴァンダはカナタに言った。

ヴァンダが取ったカードのほうがだいぶ多く、その真剣さもカナタよりだいぶ上回っている。

やがてヴァンダは、ジョーカーのカードをひっくり返した。

「あ、ババはいちまいしかない」とヴァンダは言った。「しっぱいした」

ジョーカーをあらかじめ抜いておくことを忘れたことに気づいたヴァンダは大げさに後悔し、「しっぱいした」と繰り返した。

「大丈夫だよ、ヴァンダ」カナタはゆっくりとしゃべり、そのジョーカーをヴァンダの手から抜いて2人の間に置いた。

「目を瞑って」とカナタは言った。

ジョーカーのカードをテーブルに置き、その上にカナタは目を閉じたヴァンダの手を置いた。ヴァンダの手の上に、カナタは自分の手を重ね合わせた。

そしてそのままカナタは黙り込んだ。ヴァンダも、何も返事しないまま、黙って手を重ね合わせていた。

そのまま3分もたっただろうか、ヴァンダが、

「いま何か聞こえたね?」と言った。

「うん、聞こえた」とカナタ。

「あれはなんだろう?」ヴァンダは目を瞑ったまま、手を重ね合わせたまま言う。「エッフェル塔からではないな」

「あれは、いびき?」カナタは聞いてみた。

すると、ヴァンダは目を瞑ったまま、笑い始めた。「あ、レナのいびき!」

その音は、隣室で寝る先輩の鼾ではなく、3才の娘のレナのものだという。

「子どもなのに」とヴァンダ。

「子どもだけど、立派ないびきね」とカナタ。

そして2人は同時に目を開けて、大笑いしてしまった。その笑いは3分も続く、長い長い笑いだった。ヴァンダは窓の外でキラキラ光るエッフェル塔を脳内から追い出し、カナタは再び飛行機で離陸しおそらく生涯やってこないであろうパリから去るための笑いだった。笑ったあと、2人は抱き合い、握手した。

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