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①月の湖


ヒカリが大学1年生の夏休みに東北の海沿いのホテルで1ヶ月のアルバイトを終えたあと、そのホテルに先輩が迎えにやってきた。

先輩とヒカリはまだつきあってはいなかったが、先輩は「迎えに行く」と言い、ヒカリもそれが当たり前だと思った。

ヒカリのバイト先は古いホテルだったが、東京からの客で常に満員だった。先輩が来た日はたまたま1室キャンセルがあり、先輩はその部屋に宿泊することができた。

食堂で夕食を終え、ヒカリも洗いものの仕事が終わった時、アルバイトのチーフがヒカリに気をつかって彼女に少し時間を与えた。

時間ができたことを、ヒカリは夕食を終えた先輩に伝えた。そして、

「海岸に行ってみよう、先輩」

と誘った。先輩は笑顔を浮かべ、細かい時間と場所を打ち合わせた。

ヒカリがエプロンをとり、夜の海岸に降りてみると、先輩はすでに波打ち際にいた。

その渚で、先輩は遠く暗い水平線を探しているようだった。

「今日は、月が出たり出なかったりですね」ヒカリは先輩の背中に語りかけた。

先輩はヒカリが砂浜に降りてきたのを察しているようだったがこちらを振り向かず、水平線らしきものを探しながら声だけでこう答えた。

「月は時々ものすごく大きくなるもんね」

それはヒカリも気づいていた。ムーンの前にいろいろな形容詞をくっつける大きな月たちの呼び名には彼女は関心はなく、時々、びっくりするくらい大きくなり、その中に鮮やかな月の湖のような輪郭をもった灰色のような影が彼女を捉えた。

そのことを先輩に言ってみると、彼も「僕も同じ」と言って笑った。「あ、雲から月が出てきたよ」

ふたりでその月を黙って眺めてみた。鮮やかで大きなその衛星は、時々暴力的にも感じられる大きさで、地球の人々を見おろしていた。その光は決して明るいとは言えないのだが、人口的な蛍光灯よりもはるかに強い光線で地上のモノたちの輪郭を区切っていた。

暗いのに強いその光の光源には、灰色の湖が浮かんでいた。その湖は、ウサギのお腹にも見え、それを、読書する女のスカートのひだと読み取る人々もいた。

一般には、そこは雲の海とも呼ばれていたが、ヒカリにはそれは海とは思えず、やはり湖のように感じられた。

そのように先輩に言ってみた。先輩は、

「海よりは湖だなあ」とつぶやき、横に並んでいたヒカリの手を握った。

ヒカリと先輩は、そうやって時折手をつないだ。その瞬間、いつもヒカリの気持ちは満たされた。

そのような気持ちを、ある日、ヒカリは母のカナタに伝えてみた。母は、

「わかるよ」と言って微笑んだ。どうやら母のカナタも同じような体験をしてきたようだった。

月光を浴び、月を見ながら先輩は、月の湖の話をした。

「あの湖に」と先輩は高い声でつぶやいた。「水があるわけはないんだけど、水がもしもあったとしたら僕らはどうしよう?」

ヒカリはその言葉を聞いて目を瞑り、月の女のスカートの湖に水が満たされる映像を想像してみた。

その映像は不思議な絵で、月の湖のそばにヒカリが立っていた。

そして彼女は、地球の光を浴びている絵の中の一人物だった。

「先輩」とヒカリは言った。「月の湖には、地球からの青く強い光が射してるみたいです」

先輩はヒカリのその言葉には何も答えず、強く右手を握って返した。ヒカリも自分の左手に力を込めた。

すると、ふたりは不思議なことに、月の女のスカートの湖の渚に立っている感じがヒカリにはした。地球からの青くて強い光をふたりは浴びつつ、自分の主語をその時忘れてしまったのだった。

地球からの青くて強い光により、月の湖の渚に立つヒカリと先輩は、自分たちの主語を忘れてしまった。

ふたりは目を開けて手を離し、背後の古いホテルへと帰っていった。アルバイトを今日で終えたヒカリは、迎えにきた先輩とともに、明日から京都を目指す予定だった。




②幽霊の手


翌朝、ふたりは早く出発したが、昼間、ふたりとも一度は見ておきたかった古い神社に寄ってしまった。

その神社は広く、途中、たくさんの鹿がいる場所もあった。ヒカリはその鹿たちを見てびっくりしてしまい、先輩の腕をとっさにつかんでしまった。

先輩はヒカリの仕草にびっくりしてしまい、笑いながらも飛び上がった。

「鹿って」とヒカリは飛び上がる先輩を笑いながら見て、言った。「すごく大きいんですね」

「目も大きいな」先輩はヒカリの手を握っていった。

ふたりは、身体と目が大きいオスの鹿が、そうした部位の大きさのわりに声が小さいことについて語り合った。

ヒカリがアルバイトしていたホテルのある駅から、その鹿の神社に来るまで、JR普通で3時間もかかった。広大な神社をゆっくり歩くと、時間はもう午後2時だった。

ふたりは、計画ではもう少し先に進む予定だったが、それ以上JRに乗ってもその先の宿の見通しをたてることはできなかった。

ふたりは話し合い、その神社の近くの、駅前の古い旅館にその夜は泊まることにした。

受付で記帳し、12畳ほどの部屋に通された二人は、それまで同じ部屋で泊まったことがないことに思いあたった。

そこで先輩が、旅館のオーナーに別々の部屋にしてほしいと頼んだ。

オーナーは淡々と「かしこまりました」と言い、ヒカリを隣の部屋に案内した。

それぞれ入浴したあと、少し広い先輩の12畳の部屋で二人は夕食をとった。

ふたりはまだ若く、夕食に既成のトンカツが出てきてもそんなものだろうと思い、淡々と食べた。それよりも、小さめの浴衣からはみ出る自分の足を先輩もヒカリも気にしていた。

そういえば、ふたりが過ごす夜をそれまでイメージしたことがなかった。

そう思うと、先輩は急に緊張し始めた。だが彼は、自分からなにができるわけでもなかった。風呂に入り夕食をとり、いつもの雑談をしたあと、ヒカリは自分の部屋に帰っていった。

先輩は、そんなものだろうと思った。ヒカリも、先輩の部屋でスリッパを履き、隣室に戻る途中、そんなものだろうと思った。

ふたりは、同じ場所で夜を過ごすイメージをそれまで持ったことがなかった。

それから3時間ほどたち、0時を過ぎた頃、先輩の部屋のドアをノックするヒカリの姿があった。

先輩はびっくりしたが、そんなこともあるかもしれないと予測もしていた。彼はヒカリに「どうしたの?」と聞いた。

「足を引きずられるんです」その時のヒカリの表情は、おそらく文字通り青ざめていた。「すごく強い力で、布団の外から手が入ってきて」

眠りに落ちる直前のヒカリの足を、強大な力がどこかにひきずりこむという。それは金縛りとも異なり、ヒカリは懸命に自分の頭が乗る枕にしがみついていたそうだ。

ヒカリは泣きはしなかったが、「もうあの布団では寝ることができません」と先輩に言った。

先輩は、ヒカリがその布団に戻ることは恐ろしいことだと直感した。ヒカリがいうような強く暴力的な力を先輩はイメージできなかったものの、その強い力は相互的ではなかった。

その暴力的な力は、一方的だった。

「そう、その手は語ろうとしないんです」ヒカリは徐々に自分の目に涙が浮かんでくることを自覚した。

「わたしは、一方的な力はこわいの」

そう言ってヒカリは先輩の胸の中に飛び込んできた。

先輩はそれまで、人を抱きしめたことはなかったが、その時は意識せずともヒカリを抱きしめてしまった。

だが、先輩の部屋にヒカリが寝る布団はなかった。かといって、隣のヒカリの部屋に戻ってその布団を取ってくることはできなかった。

再びあの強い力でヒカリが引っ張られた時、こちら側に彼女は帰ってくる自信はなかったし、先輩も、その強い力に抵抗することはとてもできなかった。

だから先輩はこう言ってしまった。

「僕の布団で寝なよ、ヒカリ」

先輩がヒカリを名前で呼んだのは、この時が初めてだった。「僕は、座布団の上に寝るから」

先輩は笑っていたけれども、自分を部屋に押し返すことはしなかった。恋人ではないこと、他者を受け入れきれないこと、自分の布団は自分だけのものであること。

ヒカリであればさまざまな理由を思いつくことができたが、先輩はこの部屋にとどまれ、俺の部屋にいろ、と言ってくれた。

たぶん、あれは幽霊の手なんだろうとヒカリは思った。古い古い神社が近所にあり、大きな鹿がいるそこには、たぶん幽霊もいる。古い古い歴史のなかのある存在に、わたしはさっき足を引っ張られた。それは強大なちからだった。

そんなことをヒカリは先輩に言ってみた。すると先輩は、

「僕は、一生懸命身体を縮めていたよ」

と言った。どうやら、先輩も幽霊に足を引っ張られそうな怖さにとらわれ、思わず身体を縮めて布団の中で寝ていたそうだ。

身体の大きな先輩が、布団の中で丸くなっている姿を想像して、ヒカリは笑ってしまった。そして、

「先輩も幽霊が怖かったんだ」

と言った。

そう言われてみて初めて、青ざめた表情で自分の部屋に入ってきたヒカリを見てなぜ自分がほっとした気持ちになったのかに先輩は思い至った。

そう、先輩も、ヒカリが幽霊に足を引っ張られていた時、自分も引きずり込まれそうになっていたのだった。

「僕も」

「わたしも」

とふたりは言った。

「幽霊は力持ち」

そう言ってふたりは笑い、暗い暗い、幽霊がいる部屋で初めて、ひととき抱擁し合った。



③吊橋


翌朝、ヒカリと先輩は旅館の幽霊の手から無事逃れ、JRに乗り、上野、品川、横浜と来て、伊豆へと到達した。

チェックインは16:00頃、伊豆なのに夕食にはやはりトンカツが出てきて、けれどもふたりはそれを不思議に思わず淡々と食べた。

そのあと、それぞれ風呂に入り、それぞれの部屋でのんびりしたあと、先輩の部屋に集まった。

ヒカリも先輩も、その宿の近くに、2時間ドラマなどによく出てくる崖と橋があることはよく知っていた。けれども、ふたりは、その橋に行くかどうかはまだ決めていなかった。そしてふたりは、そんな崖と橋にはあまり興味はなかった。

テレビを流しながら、ふたりはぐずぐずしていた。このままでは、それぞれの部屋に戻って寝るしかなかった。ヒカリも先輩も、今夜はそれでもいいかと思っていた。

時間はすでに夜の9時を過ぎていて、テレビからは変な映画が流れてきた。

それは、地球からはるか遠い惑星にたどりついた宇宙船と船長の映画だった。

ヒカリには、その惑星の奇妙な映像が印象的だった。映画好きの先輩はその映画のことはよく知っていたけれども見るのは初めてだった。ふたりは同時に、

「変な星」

と言った。

モノクロではないのだが、シンプルな色がうごめくその惑星は木星のような鮮やかさはない。けれどもふたりには、星がしゃべっているように見えた。

その星の表面は、木星のような巨大なガスの帯でもなく、かといって月のようなガチガチしたものでもなく、あえていえば、木星の蠢きに月の表面の色が乗ったような感触だった。

ヒカリは、そのモノクロの蠢きを見ながら、

「星がしゃべっているみたい」

と繰り返し言った。先輩は、

「しゃべるというよりは、何かを僕にこの星は手渡したいようだ」

とつぶやいた。ヒカリはそれを聞いて、確かに星自身が私たちに何かを渡そうとしているみたいと感じた。

「星には手はないのに」とヒカリは漏らし、「何を私たちに渡そうとしてるんだろ」と続けた。

 **

その映画を見たあと、自然とふたりは旅館の近くの吊橋を見に行こうということになった。

ゆかたを着替え、ふたりは静かに玄関で靴をはき、旅館の外に出た。

今夜も大きい月がふたりを照らした。月の光は暗いようで明るく、吊橋に向かう小道をスポットで照らしているようだった。

途中、松の木の影が何本もふたりを覆った。松の木は不気味で、それら低い松たちもふたりに語りかけているようにヒカリは感じた。

そのように先輩に言ってみると、

「松はどちらかという無口なんだよ」と真面目に答えた。

それを聞いて、松を不気味に感じて申し訳ないとヒカリは思った。そう、無口な植物もたくさんいるのだ。

そこは地図には「海岸」と表記されていたが、実際に行ってみると、絶壁の崖だった。

確かに、2時間ドラマで何度も見た光景ではあったが、足元から届く恐ろしい波音は、ふたりを縮み上がらせた。

ヒカリは先輩の手を握り、先輩も強く握り返した。

はるか下の足元は湖ではなく岸壁と海だったので、絶えず大きな波の音がふたりを襲った。

そこは観光地なので、そうした足元の波しぶきを、何本ものスポットライトが照らした。

強くお互いの手を握ったふたりは、そのライトに照らし出された波を観察し続けた。吊橋は常時揺れたが怖くはなかった。それよりも、さっき旅館で見た遠い星の表面に足元の海は似ているとふたりは思った。

「あの海に」とヒカリは言った。「私たちの考えは読まれているのかしら」

「読まれそうだ」と先輩は返した。「読まれるというか、吸収されそう」

おそらく午前3時前だというのに、波音はふたりの身体をさらっていくほど低く荒かった。そこにライトが照らされ、昼間であれば白く見えるはずの波が何かを語っているようだった。

その時先輩は、

「聞こえた?」

とつぶやいた。

「はい」とヒカリは答えた。

ふたりには、はるか下の足元の波が何かを語りかけたように感じたのだった。

「波がしゃべるというよりは、何かを僕らに手渡したいんだろうか」と先輩。

ヒカリは、さっき旅館で見た惑星の映画を思い出した。

惑星は、いつもわたしたちに何かをしゃべりかけ、何かを手渡そうとしている。それはいったいなんなんだろう。

 **

ヒカリは声に出していないはずだった。けれども先輩はこんなことを言った。

「星が僕らに手渡したいモノはわからないけど」先輩は静かにつづけた。

「君と出会えてよかったよ」

その言葉を聞いて、ヒカリはなぜか一瞬にして80才のおばあちゃんになっていた。

80才のヒカリは、自分が18才の頃、センパイと呼ぶ男と伊豆の午前3時の海岸で語りあったことを思い出していたのだった。

「わたしがおばあちゃんになった時も」とヒカリは言った。明確な自分の80才のイメージが彼女にはあった。「いまの先輩のその言葉を覚えているかもしれない」

そのあと、先輩は、吊橋の上で、ヒカリを抱きしめた。

その時、足元の波と、その波を抱合する海と惑星は再び何かをふたりに語りかけたようだった。

「波はしゃべっているようだけれどもその意味がわからない」と先輩は小さく漏らした。彼は、ヒカリが自分の腕の中に収まっていることに満足していた。その満足感は、生まれてきて初めて感じるものだた。

ヒカリは、足元の波音を聞きながらこう答えた。

「星冥利に尽きる、らしいですよ」

先輩はヒカリを離し、スポットライトの中で彼女を見た。そして、

「星冥利ってなんだろう?」と笑った。

当然、ヒカリも笑い、真夜中の岸壁をあとにした。



④環状列石


そういえばふたりは、今回の旅に出る前に、結婚式場のアルバイトスタッフをするつもりだった。

けれども、アルバイト登録はしていたものの、結局一度もバイトの声が掛からなかった。

先輩は結婚式の音響のミキサー、ヒカリは結婚式の助手の仕事をするはずだった。

「連絡はなかったですね」伊豆からのJR快速に乗ったヒカリは、隣の先輩に話しかけた。「私、興味あったんだけど」

「僕も」と先輩は返した。まったく連絡がなかったわりには、その結婚式場でのアルバイト研修は入念に繰り返された。

新郎新婦の入場、ライトの点滅、蝋燭の点火等、そのすべての助手の仕事がふたりに求められているらしかった。先輩もヒカリもそれなりにその研修に臨んだ。

「あの研修ってなんだったんでしょうね」ヒカリは窓の向こうに浮かび上がった富士山を見ながら言った。「富士山なのに、なんでこんなに工場があるんだろ」

それからふたりは、浜名湖の手前でJRを降り、誰も知らない縄文遺跡を見に行った。日本中のあらゆる貝塚が縄文遺跡なのだが、そこはある大学がYouTubeで紹介していた遺跡だった。

「ここが、墓地なんですよね」ヒカリはその遺跡の中心に立ち、両手を広げて先輩に語った。

「そう、この墓地は石に囲まれている」先輩は笑っていた。

めったに笑わない先輩が、静岡県にあるこの縄文遺跡の真ん中で笑っている姿を見て、ヒカリは幸福な気持ちになった。

そのためだろうか、

「先輩」

と言って、ヒカリは先輩の身体に飛び込んでしまった。

先輩は笑って、そのアタックを受け止めた。そして、「僕らは」と言った。

「僕らの言葉は、ここの石に全部刻まれるんだろうか?」

ふたりは、足元の石を見た。それは水晶や翡翠であるはずはないけれども、ふたりを地面から照らしていた。

ヒカリは、この縄文遺跡が私たちのすべてを見ている、と先輩に言った。

すると先輩は、ヒカリを思いっきり抱きしめた。先輩の力がそんなに強いとはヒカリは思ったことがなかった。

「ありがとう、先輩」ヒカリはなぜか泣いていた。自意識過剰な先輩が、自然に自分を抱きしめてくれたことは嬉しかったが、それよりも嬉しいことはたぶんあった。

「わたしは」とヒカリは言った。「『環状列石』みたいなもの」

 **

その縄文遺跡の真ん中には大きな溝が掘られていた。そこは墓だという。そのお墓のまわりに、巨石が建てられていた。先輩は、

「僕らはまだ若いけれども」と笑いながら言って、その巨石に手を置いた。

「先輩、危ないよ」ヒカリは、先輩の笑いを信じることができなかった。その大きな石が、私たちにのしかかってくるような気がしたのだ。

巨石は、ふたりに語りかけているようだった。その縄文遺跡の石は、

「君たちは僕にどうしてほしいんだい?」

みたいな、童謡のような語りかけをしているかもしれなかった。

「聞こえました?」

とヒカリは先輩に聞いてみた。

「うん」と先輩は答えた。「僕らはこの石に何をしてあげられるんだろう?」

という先輩の言葉を聞いて、ヒカリは衝動的に、

「じゃあ、私たち、結婚しましょう」

と言った。

先輩は驚くこともなく、「うん」と答えて、

「答えはそれかな」

と言った。

縄文時代の祖先/先輩たちが先輩に与えた結論は、「結婚」だった。ヒカリは、そんな制度的なものがふたりを結びつけるとは思ってもいなかった。



⑤白髪


ヒカリの結婚の申し出を事実上受けた先輩だったが、その夜はそのままふたりはそれぞれの部屋で就寝し、翌朝はなにごともなかったようにJRに乗り、浜松から新幹線のこだまに乗った。

別にのぞみに乗ってもよかったが、それだとすぐに京都に着いてしまう。やはり、ふたりは京都への到着を少しでも遅らせたかった。

そこで先輩から、

「新幹線で少し話そう」

と提案したのだった。ヒカリは大学1年生らしく、

「賛成!」

とはしゃいだ。

その雰囲気にふたりは呑まれ、こだまのなかで「白髪合戦」が始まってしまった。

 **

白髪合戦とは、白髪になるほどたいへんだった出来事をそれそれ話し合う勝負の時間だった。

「僕の白髪一番勝負は」と先輩は笑いながら言った。京都へのこだま自由席1号車はふたり以外乗車しておらず、ほぼ貸し切りだった。ふたりは、大きなレモンチューハイを買って、それぞれの紙コップにそれを注いで飲んでいた。

「同じクラスにいたバスケ部の女子が」先輩は笑いながらチューハイを一口飲んだ。「あまりにきれいだったこと」

ヒカリはびっくりして、「ええっ!」と叫んでしまった。いきなり、女子がきれいトークを先輩がしてくるとは予想していなかったからだ。「どうしてそれが白髪につながったんですか?」

「それは君、わかるだろう?」と先輩は真面目な顔でつぶやいた。「意識したんだよ、その美しい顔を」

「わかります」とヒカリは漏らした。きれいな顔は思春期には媚薬なのだ。「きれいな顔を持つ人にはそれがわかっていない」

「まったくそのとおりだ」と先輩は言った。「あれで僕の高校生活は終わったな」

「終わります」とヒカリは言った。我慢の限界を超える、人を惹きつけてしまう顔があることをヒカリは中高の6年間で学んでいた。

「あいつが僕のことを好きなんじゃないかと考えすぎて」先輩はごくっと飲んだ。「気づけば白髪だらけになっていたよ」

ふたりは笑った。そして、黙り込んだ。なぜそんなことで、先輩の身体に白髪という変化が生じたのだろう?

「私の白髪1号は」とヒカリはチューハイをふた口飲んだ。「笑わないでくださいね」

「笑わないよ」と先輩。「けど、やっぱり好きな人ができたんだろう?」

「うん」ヒカリはうなづいた。そして、「高2になって」と続けた。

「中学からずっと同じクラスだった人のことを急に意識し始めて」と彼女は言った。「その人はものすごく内気な人で」

「昔の僕みたいだ」と先輩。

「あるいは私のお父さんが若かった頃みたいな人」ヒカリはうつむいてつぶやいた。

「私が何をしても彼はいつもそばにいて見てくれていたんです」とヒカリは先輩を見つめた。「そして彼は、私といつも目が合った」

先輩は、名古屋を超えて突き進む新幹線の微動に身体を任せていた。「それで、君はその友達からどう離れた?」

「音楽の授業で」とヒカリ。「私がピアノを弾いていると、音楽の先生がその伴奏に合わせて歌うようクラスメートに指示をしました。もちろんその友達は歌えるはずがなく、それ以降、友達は学校に来なくなった」

「それで、白髪?」と先輩。

「はい、私なりにショックだったんです」とヒカリ。

 **

「僕が決定的に白髪になったのは」と先輩は語り始めた。

「高校の3年間、結局何もなかったことだ」と先輩は言った。「どんなに反抗しても、その反抗は何かに吸収されてしまい、僕は孤独になっていったな」

それを聞くと、ヒカリは黙り込んでしまった。そう、それはヒカリの悩みと同じだったからだった。

「どうして」とふたりは同時に言った。「反抗しても空振りするんだろう?」

なぜか同じ問いを発したため、ふたりは笑ってしまった。

ふたりの結論は、空振りする人々は少数派だということだった。我々には反抗はあまり意味はない。あるいは戸惑いも。特に10代のうちは反抗せず、問うこともなく、ついでにいうと誰かを愛することもなく、流され続けることが肝要なのだ。

「私の白髪は」とヒカリは言った。「遠い場所に行けなかったこと」

 **

ヒカリは、世界中に行く予定だった。バンコク、ロンドン、パリ、ワルシャワ。ブエノスアイレスにアカプルコ。

そのどれもが叶っていない。それはやがて先輩に愚痴ることになる失望感だが、その、どこにも行けなかったことは、ヒカリにずっとついてまわる属性だと本人は認識していた。

わたしは、どこにも行けない。

「そんなふうに思っていたら白髪になってしまったよ」とヒカリは言った。

けれどもいま、ふたりの白髪はなぜだか黒く蘇った。

「白髪はやがて黒くなる」

そう先輩はつぶやいてみた。ヒカリもそう思った。あれだけ気になった人の視線もスルーできるようになった。わたしの存在なんてどうでもいい、ヒカリは小さな声でつぶやいた。ヒカリはいつのまにか泣いていた。

そして、自然とふたりは新幹線の車内でキスすることになった。そのあと、

「ありがとう」

と同時に言い合い、笑った。



⑥洗面器で手をつないで


延々こだまに乗ってきて、名古屋を過ぎた頃、ふたりの間で「もう一泊したいね」という話がわきおこり、じゃあどこで? となった時、「長浜はどう?」と先輩が言った。

こだまは米原に停車する。新幹線をそこで降り、長浜には在来線ですぐそこだ。先輩が示すiPadをふたりは見ながら、

「長浜から島に行ける、行きたい」

ということで一致した。

長浜から船で30分程のその小島には小さな社があった。ヒカリはまだ行ったことがなかった。先輩は対岸の今津から一度行ったことがあるらしいが、長浜からは未経験だった。

ふたりはまだ京都に帰りたくなかった。なんでもいいから時間稼ぎをしたかったので、その小島行きは、ふたりにとってはついつい飛びついてしまう計画になった。

長浜に着いたのはもう夕方近かった。その観光地を歩くこともなく、当日予約したビジネスホテルへとふたりは向かった。

そこでまたトンカツをふたりは食べたが、また何の疑問も抱かずそれをすべて食べた。新幹線のこだまで移動してきたふたりの身体には疲れがたまっていた。翌朝はやく小島に渡る予定だったので、その夜はふたりとも風呂に入ってそれぞれの部屋で早々に寝た。

朝、船着き場にふたりが着くと、小島行きの船がすでにスタンバイしていた。乗客はふたりだけだった。時間になり、船は小島に向かった。

琵琶湖は煌めいていた。波は湖の波で音もないのに、音があるように感じた。ヒカリも先輩も船のデッキに出て、太陽の光をたくさん浴びた。先輩もヒカリも、最近抱いたことのない解放感を得た。

すぐに船は小島に着いた。船は折り返して長浜に戻ったので、いま、有名なその小島にいるのは、ヒカリと先輩だけだった。

「やっぱりなにもない」と先輩は笑いながらつぶやいた。

「そうですねえ」とヒカリ。彼女はでも、先輩の手を握り、すぐそこに見える神社へと導いた。

階段を何段か登ると、すぐに神社に着いた。目の前にある手水舎で手を洗おうとふたりは思ったが、あいにく手水舎は割れて、壊れていた。だからそこには水は溜まっていない。

「隣に洗面器があるな」と先輩は笑った。

見ると、割れた手水舎の横に、いかにもという感じで、銭湯にあるような洗面器が適当に置かれていた。

「ここで洗えと?」ヒカリは洗面器を睨んで言った。

「そう、洗うんだよ、たぶん」先輩は笑っていた。

ふたりは、壊れた手水舎の横にある洗面器に手をつけた。どちらが先に手をつけたかはわからないくらい、同時に手をつけた。

 **

「先輩」とヒカリは言った。「わたしは先輩のことが好きなんです」

「僕も」と先輩が言った。「ヒカリを僕は好きなんだ」

ふたりは、神社の手前にある手水舎の、その横に置いてあった洗面器に手をつけていた。そこに手をつけ、洗面器から手を出してハンカチで拭いて神社に向かう予定だった。

だが予定が狂い、洗面器がふたりの手を捉えてしまった。それどころか、洗面器はふたりから主語を奪った。

「わたしは」と、先輩はヒカリのようにしゃべった。

「僕は」と、ヒカリは先輩のようにしゃべった。

琵琶湖の小島の壊れた手水舎が、ふたりから主語を奪ってしまった。

「あれれ」とふたりは言った。「まさか、入れ替わったわけではないでしょ?」

入れ替わったわけではなかった。ただ、その小島の古い洗面器が、ふたりをつなげてしまったのだった。

「たぶん」とヒカリは言った。「わたしたち、つながってしまったんです」

「ああ、なるほど」と先輩。「物理的にシンクロしたのかなあ」

「物理的シンクロって、こんな感じなんでしょうか」とヒカリは言った。そして笑った。「わたしたちの手はつながっているけど」

「なんだか僕はヒカリの気持ちがわかるような気がしてきたよ」と先輩は言った。「ヒカリは、僕に抵抗がないのだろうか」

「はい、ありません」とヒカリは言った。「わたしも、先輩の気持ちがわかるような気がするよ」

「僕には抵抗があるのだろうか」と先輩。

「はい、抵抗だらけですよ、先輩」ヒカリはくすっと笑った。「どれだけ自分を守ってるんだ? 」

「苦労してきたんだよ」と先輩は照れた。

「どうして苦労してきたのかしら? 」とヒカリは聞いた。「なんとなくわかるような気もするけど」

「そう、君はわかっていると思うよ」と先輩は言った。「僕も、君の苦労がわかるような気がする」

物理的には、ふたりは汚れた洗面器に手をつけて黙っていた。黙ってはいたが、それらの声がその小島に響き渡っていた。

「わたしたちの声って」とヒカリは言った。「この島でエコーしているのかしら」

 **

洗面器に手をつけたふたりは、こころもつながった気になった。

「ヒカリの声がどうして聞こえるんだろう」と先輩。「心地いいけど」

「わたしも」とヒカリ。そして、「先輩、手をつなぎましょう」と続けた。

ふたりの手はそれまで、洗面器につけてはいたが、離れていた。それが、ヒカリの提案と同時に接近してきた、ふたりの手は重ね合わされた。小さいヒカリの手が大きい先輩の手に包まれるような感じになった。

「やっとつながったね」とヒカリ。

「よかった」と先輩。

そしてふたりは、

「わたしは先輩のことが好きなんです」と言い、

「僕もヒカリが好きなんだ」

と言えたのだった。

もう、僕、も、わたし、も関係ないエリアにふたりはいた。ふたりは、その時、こころの湖で会話していた。ふたりは、こころの湖で手をつなぐことができた。



⑦クリスマスソング


小島からふたりは船で帰り、長浜の街を散策し夕食をとったあと、ビジネスホテルに帰った。コンビニでレモンチューハイを買ったので、それを飲みながら先輩の部屋で話すことにした。

すっかり夜になっていたが、なんとなく外の風に当たりたくて、ヒカリはホテルの部屋の窓を10センチだけ開けた。涼しい風が入り、ふたりのこころは落ち着いた。

窓を閉め、ふたりはソファにそれぞれ座って、外の琵琶湖を見た。夜だが湖面には長浜の街の光が湖面を照らしていた。窓のガラスには、互いの姿が映っていた。

ヒカリは、窓に映った先輩の目を見て言った。「またつながっているみたいですね」

先輩もうなづいた。「うん、不思議な気分だ」

そしてヒカリは、なぜだか母親のカナタの話をし始めた。

「わたしのママが高校生だった時」とヒカリは話し始めた。「修学旅行の朝、駅で猫を見ていたら突然旅行に行く気がなくなって、高校とは逆方向に自転車を走らせたそうなんです」

「僕も修学旅行はやめた」先輩も突然、語った。「あんなの、いやだよ」

「それは知らなかった」レモンチューハイの缶に口をつけてヒカリは笑い、窓の先輩を見つめた。そして、「ママは」と続けた。

「海沿いのワインディングロードをひたすら逆方向に進み、あるドライブインみたいなところで休んだそうです」ヒカリが見る夜の窓に映る先輩は、レモンチューハイを片手に持って、ヒカリのほうを見ていた。「そのドライブインで親子連れにあって」

先輩はヒカリの横顔をやはり見続けた。見ないでおこうと思っても、それはできなかった。

ヒカリは、隣で自分を見続ける先輩を意識して頬が火照ったが、ビジネスホテルの窓に映る真剣な先輩の横顔を見るうちに頬の火照りもおさまってきた。そして、こころの深いところで波立っていた感じが静かに落ち着いていくのを自覚した。

「ママがドライブインの駐車場で休憩していると」ヒカリは続けた。「仲良さそうな母子が近寄ってきて、防波堤の上に並んでいたユリカモメに子どもが話しかけたそうなんです」

「鳥に質問でもしたのかな」と先輩。

「そう、子どもが鳥に、『鳥さん、どこに行くの?』と聞いたそうなんです。すると子どもは」

「わかった」と先輩は笑っていった。「子どもは嘘をついた?」

「どうしてわかるんです?」とヒカリ。「そう、子どもは、鳥が『ディズニーランドに行くんだって』と母親に伝えたそうなんですよ」

「そしたらヒカリのお母さんは」と、先輩はレモンチューハイを飲んだ。「子どもに『嘘をつくな』って怒った? いや、怒るわけないか」

「高校生のわたしのママは泣きながらその場を逃げたらしいんです」ヒカリは少し沈んで答えた。「わたしだったら説教するかな、子どもに。いや、説教はしないか」

ふたりの会話はそこで止まった。お互い「自分だったら」と考えていた。

そのように、同時に同じテーマで考えることが、いまのふたりにとっては愛の実証だった。けれども、とふたりは同時に思った。そして、

「考える前に」

と同時に言った。

「なにかがわたしたちを」

「僕らを」

「立ち止まらせている」と笑って続けたのだった。

 **

ヒカリは引き続き窓に映る先輩を見ていた。先輩も窓を見て、ヒカリを見た。お互いの顔は窓に暗く映っており、目までは捉えることができなかった。けれども、窓にふたりは映っていた。

そこで会話は止まってしまった。臆病なふたりは、キスをすることもできなかった。ただ、窓に映る相手を見ていた。

その部屋全体が洗面器になったような気がしたのは、ヒカリが先だった。

「先輩」とヒカリは言った。「この部屋ぜんぶが、朝の洗面器みたいになってるよ」

そう言われて先輩は窓から視線をずらし、その小部屋をぐるっと見た。「普通のホテルの部屋だけど」と先輩。「なんだか不思議な感じだ」

ヒカリは、隣に座る先輩の手の上に自分の手を重ねた。「言葉が消えていくよ、先輩」と彼女は続けた。

先輩は、ヒカリの手の暖かさを感じながら、確かに何もしゃべれなくなっていることを自覚した。言葉とともに自分が存在すると自覚する先輩にとって、それは稀有な出来事だった。

「なぜ言葉が消えたんだろう?」と先輩は漏らした。

それを聞いて、ヒカリはくすっと笑った。「まだしゃべってるよ、先輩」

「そうか、しゃべってるなあ」と先輩は漏らし、レモンチューハイをひとくち飲んだ。「いっそのこと、目を瞑ってしまおう、ヒカリ」と続けた。

「はい」とヒカリは答え、窓の自分たちを見ることをやめ、しゃべることもやめて、目を瞑った。

言葉も視覚も封じられたふたりは、逆に自由になった。しばらくベッドに座ったままだったが、ヒカリが「先輩、歌っていいですか?」と聞いた。

「なんの曲? 」と先輩。口元は笑っていた。「僕も歌いたいな」

「なに歌おう?」とヒカリ。「ビートルズ?」

「英語は僕は無理だよ、ビートルズでも」と先輩は笑って答えた。

「じゃあ」とヒカリは目を瞑ったまま答え、「オザケン?」

「好きすぎて無理だ」と真剣に先輩は答えた。「ついつい自分が出てしまうんだよ」

「惜しいなあ」とヒカリは続けた。「『流れ星ビバップ』しかないと思ったんだけど」

「いい曲だけどなあ」と先輩。「けれども今は勘弁して」

するとヒカリは、先輩に相談することなく、メロディをハミングし始めた。その曲に詞はあったが、メロディだけをヒカリは歌った。先輩もそのメロディはよく知っていたので、小さい声でヒカリに合わせた。

互いにメロディを口ずさみ、手は重ね合わせ続けた。そこには、視覚もなく言語もなかった。ただ、ヒカリの声を中心に、先輩の低い声が重なる、メロディがそこにあった。

曲自体は誰もが知るクリスマスソングだったけれども、ふたりともその曲名を忘れていた。声とメロディが、目と言葉に先行していることがふたりには重要だった。

「僕らは」と先輩は歌を止めて言った。「出会えてよかったよ」

「わたしもそう思います」ヒカリが目を開けて夜の窓を見てみると、窓に映る先輩は泣いているようだった。そして、ヒカリ自身の顔にも涙が光っていた。声とメロディとともに、涙も、言葉と目以前にあるモノのようだと、ふたりは思った。



⑧切り株で


ふたりはそれからきちんとキスをした。唇と唇が重なり、思い切って舌と舌が合わせられたと同時に、ヒカリも先輩もそれぞれの内的世界にある、象徴的な木の切り株に腰掛けて相手に聞いた。

「わたしは保育園で話し相手がなかなかできなくって」とヒカリ。「毎日、先生のエプロンで泣いていた」

「僕の保育園はお寺が経営していて」と先輩。「その寺の境内で毎日僕は鬼ごっこしていたよ。素朴だった」

そしてふたりはまた互いの思春期時代の話を、その切り株に腰掛けながらした。

「きつかったな」と先輩は言った。「どこかに旅立ちたかったよ」

「わたしも」とヒカリ。「どんなにあがいても、誰もわかってくれなかった」

「わかってくれないよね」と先輩は返した。「僕は、シベリア鉄道に乗りたかった」

「わたしはワルシャワの街」とヒカリは笑った。「でも、どこでもよかったの」

「でも、わかってくれる人はどこにもいなかった」先輩は切り株に座り、両手を握りしめていた。「僕も、そのいらだちをちゃんと説明できなかったんだよ」

「あの頃、どうやって説明できたんだろ」ヒカリは切り株から立ち上がりそうだった。「あのいらだちを、どうしたら現在進行系で説明できるんだろ」

「できるわけないよなあ」と先輩は笑った。そして、切り株から彼は立った。

その立った先輩をヒカリは見上げた。予想通り、先輩は自分に近づいてきた。そして先輩はヒカリに手を差し伸べた。

ヒカリは先輩の手を握り、切り株から立った。そしてふたりは、切り株を中心に踊り始めた。

「先輩って、ワルツとか得意?」ヒカリは驚いて聞いた。「タンゴもお上手」

「そんなわけないだろう」と先輩は笑っていた。

すべては、ふたりのキスが導き出したイメージなのだ。

 **

ヒカリも先輩も、まだまだその凝り固まった自分を溶かすことはできなかった。だが、ふたりは数年後には現実の世界に身体ごと巻き込まれていく。その時、凝り固まった自分だけではどうしてもやっていけない時が来る。それを先輩は知っていた。

知っていたけれどもどうしようもなく、先輩は時の流れに身を任せていた。

ヒカリはそこまでわからなかったけれども、先輩が時々話すそんなことは想像できた。

わたしたちは、どこかで妥協しなければいけない。

バカらしい妥協だったが、それを受け入れるのがヒカリと先輩の美しい柔軟性だった。

「僕らは出会ってしまった」と先輩は言った。「そして、僕は、ちゃんとしゃべれるようになったよ」

「わたしは寂しかった」ヒカリはその世界で泣いていた。「ずっと寂しかったんだよ、先輩」

「僕もだよ」先輩は切り株から立ったその姿勢のままヒカリを抱きしめた。「20年以上、ずっと寂しかった」

ヒカリはその世界で大きな声で泣きはじめた。ふたりのキスの時間は、ふたりを、これまでにない内省の磁場に導いていった。

「先輩といるこの場所は」とヒカリ。「どうしてこんなに静かなんだろう?」

「そして、やさしいな」と先輩。「僕もこんな感じでやさしくなりたいよ」

 **

それからふたりはその世界の切り株に座り、手をつないで、それぞれの自分を崩していった。

そして、現実の世界でいまキスをしていたが、そのイメージの世界でもキスをした。互いの手を離すことはできなかった。

ふたりの話題は、その切り株を中心とした世界はなぜそんなにやさしいんだろう、ということだった。

「わたしは先輩に何かを許したよ」とヒカリ。「それは、なんだろ?」

「そう言われてみれば」と先輩はつぶやいた。「僕もヒカリに何かを許したな」

「好きというのでもないし」とヒカリ。「あ、ゴメン。先輩を好きなんです」

「僕もヒカリを好きだけど」笑いながら先輩は言った。「その、許した感じは、好きという感じでもないなあ」

「なんだろ」とヒカリ。

「わからない」と先輩。

ヒカリは、その世界でも先輩の胸に飛び込んだ。その、先輩の胸に包み込まれる感じこそが、先輩への答えだとその時ヒカリはわかった。

先輩も、「この、感じかな」と漏らした。

「わたしたち」とヒカリはその世界でも泣いている。「もう、わたしなんてどうでもいいや」

「僕もかなあ」と先輩。

こうしてふたりは、互いの境界を超える現実を受け入れてしまい、そしてその越境の快感を自覚してしまい、境界を飛び越えることの重要性にようやく気づいたのだった。ヒカリ、18才。先輩20才。



⑨湖


数日前、ヒカリが「結婚しましょう」と言ったことに先輩は言葉で答えていなかった。「うん」と言っただけだった。もちろん先輩は結婚する気だったが、その答えかたに迷っていた。

「ヒカリ」と先輩は言った。「少し返事が遅れたけど、僕たち結婚しよう」

先輩はうつむき気味に言った。「でも迷ってるんだよ」と続けた。

「何に?」ヒカリは聞いた。ふたりは長浜から米原までJRで移動した後、新幹線に乗った。今日はひかりに乗ったが、残された停車駅は京都のみだった。

「ここ数日の旅行のような境地で、僕たちは結婚してからも過ごすことができるんだろうか」

「わたしたち、いっしょに住みますよね」ヒカリは笑っていた。「そうすると、いっぱいケンカするでしょうね」

「そうなんだよ、ケンカするよね」先輩はヒカリを見つめ返しながら言った。「そのケンカの場所なんだよ」

「場所?」とヒカリ。「洗面器とか?」

「洗面器に手をつけながら?」と先輩がヒカリに聞きながら笑った。「そんな瞬間にはケンカはしないか」

「結婚と考えるからいけないんですよ」ヒカリは遠くの比叡山を見つめながらつぶやいた。「わたしたちは、洗面器の湖に手をつけながら結婚するんです」

「結婚するとね」と先輩は真剣な表情で言った。「洗面器の湖が消えるような気がするんだよ」

「そこにわたしたちが手をつけても」とヒカリはつぶやいた。「つながることができない?」

「そうなんだよ、結婚って、それだけ何かを隠すような気がする」先輩は言った。「だから、返事に時間がかかった」

「でも、お返事してくれてありがとう」ヒカリは笑った。ひかりの車内で、ヒカリは先輩の手を強く握りしめた。「じゃあ、わたしたち」と彼女は続けた。

「ヒカリが言いたいことはわかるよ」先輩は手を握り返しながら答えた、「次の旅に出るんだろう?」

 **

結婚がふたりのつながりを途切れさせてしまうことは容易に予想できた。長浜沖の小島にあった洗面器の中でふたりの手が重なり、言葉以前のつながりを見つけたあの感じを結婚が抹消させてしまう恐れがあった。

そんな恐れを感じながらも、なぜかふたりは結婚したくて仕方がなかった。恋人として付き合うだけでは満足できなかった。結婚がすべてを失うような気がしても。

その恐れを吹き飛ばすのは、再び旅に出ることなんだろうという気がふたりにはしていた。

新幹線は京都に着いた。ふたりは左京区にある別々の下宿に住んでいた。京都駅からバスに乗り、浄土寺のバス停で降り、哲学の道のほうにふたりは歩いた。

別れの時がやってきた。だが当然だが、ふたりはまだいっしょにいたかった。もう少しで夕方になる時間だったけれども、ふたりは別れきれずに哲学の道と呼ばれる観光スポットにたどり着いてしまった。

哲学の道のそばを流れる、足元の小さな川が、ふたりを待っていた。ふたりは自然と手をつないでいた。

「またここに帰ってきたね」ヒカリはすぐにやってくる別れを意識しながらつぶやいた。そして、「先輩」と言った。

「ヒカリが言いたいことはわかる」先輩は笑っていた。「明日から、また旅に出たいんだろ?」

「そう」ヒカリも笑った。「結婚って、旅みたいなもんですよね」

「今日の名言」先輩はヒカリを指さして言った。「結婚はこんなに不安だらけなのに、どうしてしたくなるんだろう?」

「その答えを見つけに行く旅ですね」ヒカリは哲学の道で立ち止まった。そこは観光客が歩きひしめく場所だったが、ふたりにとっては馴染みの場所だった。馴染みのアクセサリーを売る店があり、いつものみたらし団子屋と蕎麦屋があった。

先輩はみたらし団子を4本買って、ヒカリに「どうぞ」と言った。

「ありがとう」とヒカリが言うと、先輩の肩の向こうに京都特有の煤けた夕日が強く差した。

その夕日は強く、ヒカリは思わず目を瞑った。すると、ヒカリの視界に湖のイメージが突然広がった。「湖」

「あ、湖だ」と先輩も言った。それは琵琶湖のようで琵琶湖ではない、抽象的な湖だった。実態は薄いけれども、しっかりと湖のような感触を持った存在だった。

ふたりはその時、手をつないでいた。それからしばらくふたりは黙ってそのこころの湖を見つめていた。その湖を、ふたりは見つけることができた。

こころの湖に夕日が刺す頃、ふたりはとりあえずバイバイした。

明日朝8時に、浄土寺のバス停で待ち合わす約束をふたりはしていた。



10.ひろしま


ヒカリと先輩は、早朝に京都から新幹線のぞみに乗った。昨日、東から新幹線こだまで京都まで帰ってきたふたりだったが、どうしても京都でそのまま日常を送るわけにはいかなかった。

なぜなら、ふたりは東の旅を通して結婚の約束を交わしてしまったからだ。それはヒカリから衝動的に告げられたものだったが、数日たって先輩もそれを歓迎とともに受け入れた。

けれども、ふたりはなぜか結婚できなかった。それは硬直的な社会システムのせいなのだろうか。結婚したあと、ふたりを縛るであろうさまざまな社会的約束事が、こころの湖で交わした重大な約束を破ってしまうことになるのだろうか。

先輩は新幹線の中であまり考えずに漏らした。

「結婚すると、僕らは離れていくのかな」

ヒカリは、明石の町並みと少し離れて見える明石大橋を左にしながら答えた。

「まったく離れていくんでしょうね」ヒカリは笑っていた。「また一人ぼっちに戻るよ」

「どうしてなんだろう」と先輩。明石大橋は輝いて見えた。「一人ぼっちにならないために結婚するのに」

「それを」両手を叩いて先輩のほうを見たヒカリは、勢いよく言った。「それを解き明かすのが今日からの旅の目的です!」

ふたりは新幹線のぞみの中で大笑いした。その日ののぞみ1号車にはなぜか客は少なかった。その新幹線が広島止まりなことが原因だろうとふたりは推察していた。

昨日はこだまに乗って、時間をかけて東から京都に帰ってきた。京都駅からふたりがそれぞれ住む左京区へと市バスで戻り、すぐにそれぞれの部屋に戻りたくなかったふたりは、近所の哲学の道を散歩した。

哲学の道には、京都特有の煤けた夕陽がさしこんでいた。

「ほこりっぽい京都が私は好きだけど」とヒカリ。「昨日の京都からは私たちは歓迎されていませんでしたね」

「うん、僕もそう思う」先輩は相生や岡山、倉敷など、続けて現れるそれらを新幹線の車窓から見た。「まだ帰ったらダメだったのかもね」

「それが京都という意味なのかしら」とヒカリ。「そして、それが哲学の道。私たちははっきりと哲学の道から拒否されましたよね?」

「そう、哲学から拒否された」先輩は笑って答えた。そしてヒカリの手を握り、新幹線の中で目を瞑った。

「広島は私たちに何を見せてくれるんだろ」ヒカリは先輩の手を握り返しながら目を瞑り答えた。「美味しいもので迎えてくれるのかな」

 **

広島駅の構内に寿司屋があり、ふたりは昼食をそこでとることにした。そこで何気なく頼んだ小イワシが、ふたりを魅了した。刺し身に酢の物、そして握りと、広島の小イワシがふたりをいきなり捉えてしまった。

「おいしい!」青モノが大好物のヒカリは、グルメマンガみたいに目を開き、「くわっ」みたいな感じで称賛した。

「広島ってグルメ大国なのか?」先輩は海原雄山ではなく、シャアのようなアクセントでつぶやいた。「さらに試してみようか?」

「はい、少佐」とヒカリも調子に乗ってララァみたいに答えた。「ああ、光が見える」

ふたりは広島の寿司屋で爆笑した。

それからふたりは、広島駅から路面電車に行った。ふたりとも小学校の修学旅行で原爆ドームを訪れていたが、今日はそこを再訪しようと思っていた。

路面電車は満員で、かなりスピードを出して広島市内を走る。ヒカリも先輩も吊り輪をしっかり握り、足に力をこめた。

県庁の手前あたりで、電車は直角に曲がった。ふたりの会話は止まっていた。電車のスイングは、ふたりの肩をぶつけ合うことになった。

その時、ヒカリは人工衛星が乗る高軌道に連れて行かれたような感じになった。路面電車のスイングが、彼女の意識を大気圏外に放り出しそうになった。

「少佐」ヒカリはララァになってつぶやいた。

先輩にもその路面電車のスイングは大きな影響を与えていた。視界の少し先には、原爆ドームのかたちが見えていた。それを見ながら、路面電車の客たちは、電車のスイングに身体を大きく揺らした。

「ララァ、大丈夫か」先輩は身体を揺らしながらニコニコして言った。「ヒロシマは私たちに何を問いかけているんだろう?」

「あ、原爆ドーム」ヒカリは少し行ったところでその先端が日光によって光り始めたドームの先端を見て言った。「きれい」

ヒカリは、路面電車からまた高軌道に移動したような気がした。スレスレの大気圏外から見下ろす広島とそのドームは、靄に包まれながらもほこりからは自由だった。ドームとその街は、まったく煤けていなかった。

 **

路面電車は満員だったので、実は、先輩はシャアではなくヒカリもララァではなかった。ふたりは大きなそのカーブでも客観的には黙っていた。

それでも、ふたりは会話できている気がした。その会話は、高軌道上の衛星内での会話、あるいは宇宙服を着たランデブーでの会話かもしれなかった。

高軌道から下を見ると、バイカル湖によく似たかたちの灰色の湖が見えた。

「私たちの湖」とヒカリは言った。

「あれは地球の湖か?」宇宙服を着て高軌道上でランデブーする先輩は思わず言った。「それにしちゃあ、ずいぶん煤けているけれど」

「煤けてるんじゃなくて」とヒカリは笑って言った。「靄が出てるんですよ」

「そうか」と先輩。「地球上の湖ではないみたいだ」

ヒカリはそれを聞いて大笑いした。「それはそうですよ、先輩」ヒカリは高軌道上からその湖を指差した。

「あれは私たちのこころの湖」ヒカリは言った。「私たちを生涯見守ってくれるかもしれない湖なんですよ」

先輩は不思議そうに返した。「なぜヒカリにそれがわかる?」

「それはもちろん、直感ですよ」高軌道を下り始めたヒカリはこちらを振り向いてブイサインした。

先輩もヒカリを追って高軌道から下り始めた。そしてふたりは路面電車内に戻っていた。

「ほら先輩、というか少佐」路面電車の中でヒカリは笑って言った。「原爆ドームがすぐそこに」

そう、その歴史的建造物のドームは、なにかのBGM、たとえばストーンズの「悪魔を憐れむ歌」でも軽く自分で流しながら、ふたりを迎えた。

「プリーズって聞こえるなあ」と先輩。「僕らは帰ってきたね」

「当然!」とひかりは軽く叫んでドームの前でブイサインした。「結婚しかないですよ、私たち!」

「そうだな」先輩はヒカリをiPhoneで撮りながらつぶやいた。我々は、あの高軌道に我々の意識の記録を置いてきたのかもしれない。そんなつまらない意識の扱いは地球のくだらない管理者たちに任せることにして、僕らは、

「僕らは」

と先輩は言った。

「なに?」とヒカリ。彼女は笑っている。

「寿司でも食いながら、いっしょに光を見よう、ヒカリ」

「はい、少佐!」ヒカリはそう言って先輩の胸に飛び込んだ。



11.牛の首


そして広島のホテルで、ふたりは初めてセックスをした。ふたりにとってそれはあまりにあっけなく、それを説明する言葉をもてなかった。

ふたりとも初めてセックスをしたのだが、ヒカリにはその行為がすごく痛かったのと、そこを通過する必要性に先輩とふたりで追い立てられたことが説明のできない感覚にとらわれた。

痛かったことについては、衝動的に涙が出た。それに対して先輩は動揺しているように見え、けれども先輩にできる最大限の配慮で気遣ってくれた。

だからヒカリもセックスのあと泣くつもりはなかったのだが、どうしても流れ出る涙を止めることができなかった。

「ごめん、先輩」ヒカリは嗚咽の中で先輩に謝った。「どうしても涙が出てきちゃって」

先輩は先輩で、ものすごく奇妙な感覚に囚われていた。性欲が自分には確かにあり、それをヒカリに向けていたことは事実だった。けれども、そのセックスの一連の流れは、先輩がいろいろな局面で学んできたことの反復だった。

その反復行為が、先輩自身を幻滅させた。そして、ヒカリに申し訳ないと思った。男の性欲に導かれるまま、セックスが終わると、自分はいったい何に誘導されたのだろうと先輩は思った。

目の前ではヒカリが静かに嗚咽していた。その涙の原因は自分であるのだが、おそらくその慟哭への関与は僅かだろうと先輩は思っていた。

ヒカリは、失ったことだけに泣いているのでもないし、痛みにのみ泣いているのではないだろう。ヒカリは、説明のできないその涙が止まらない、そのこと自体に泣いているのではないか、と先輩は思った。

理由のない涙が実際にあることを、その時初めてふたりは知った。

「理由はたぶんあるよ、先輩」ひとときたって、ヒカリは言った。「でも私は先輩に謝ってほしくないし、だから泣くのは嫌だったんだ」

先輩は何かを言うことをとっくに放棄していた。彼は、それでもヒカリがいろいろ言ってくれることが嬉しかった。だから、単に謝ることだけはやめようとは思っていたが、かといってそれ以外の言葉も浮かんでこなかった。

謝ることの軽さについて、先輩は怒っていた。謝ることがピント外れな時、僕はほかにどんな言葉を持っているんだろう。

持っていなかった。ヒカリにまずは謝りたい、その自分の衝動そのものを先輩は恨んだ。

そんなふうにやりとりしていたふたりは、そのホテルですでに午前3時を超えていることに気づいた。

「また3時だよ、先輩」ヒカリはもう泣くのを終え、笑って言った。

「午前3時まで僕らはいつも雪崩れ込むなあ」先輩は謝る以外のことを考えるのをやめた。言葉で謝っても、この気持ちはここに届かないんだろう、そんなふうに彼は思っていた。

「明日」ヒカリは言った。「九州に行くのはやめようよ、先輩」

ヒカリに言われる前に、先輩もそう思っていた。博多でラーメンを食べて長崎に行く予定だったのだか、なんとなくそんな気分ではなくなっていたのだ。ふたりは、もっとそのあたりをぐるぐるしていたかった。

「境港まで行って、そこから船に乗って、牛を見に行こう」ヒカリは笑いながら言った。よく考えるとヒカリも先輩もまだ裸だったが、日本海に浮かぶ島にいる牛たちのことを考えると、それぞれの裸のことはどうでもよくなっていた。

先輩とヒカリにとって、現実のセックスよりも、その行為が終わった後、裸で境港のはるか彼方に浮かぶ牛の島を想像し共有するほうが、不思議と互いをわかりあえる気分になれたのだった。

 **

短い睡眠時間でふたりの夢がシンクロしたのは、カーツ大佐だった。「地獄の黙示録」がふたりの永遠の映画の一つだったが、翌朝、境港から目指す牛の島がなんらかの影響を与えたのだろうか。

「マーティン・シーンはヒビってましたよね」ヒカリはその映画を思い出しながら言った。「ママとパパといっしょに見た時、あのドアーズの曲がトラウマになりましたよ」

「ママとパパ」先輩は反復した。彼もその映画を見ていたが、ひとりで見たのだった。彼はヒカリが羨ましかった。

「ディスジエンド」とヒカリは歌い始めた。先輩もそのドアーズの歌を知っていたので、一緒に歌った。「ジムモリソンが怒り始めるんだよ」

ドアーズのジ・エンドはそんな歌だった。ヒカリと先輩は、歌詞よりもオルガンやドラムスのほうが好きだった。

ふたりは広島で朝食をとり、また新幹線で岡山まで戻り、そこから出雲行きの特急に乗って米子で降りた。そして、境港へ向かった。

境港にはゲゲゲの鬼太郎とその仲間たちの銅像がたくさんあった。先輩はネズミオトコの頭を撫で、ヒカリは猫娘のモノマネをした。

「行こう」先輩がはしゃぐ猫娘に声をかけ、ふたりはバスに乗って境港のフェリー乗り場までやってきた。

その、牛の島に行く船は、朝と夕方の2便しかなく、朝の便は当然出ていた。ふたりは牛島で泊まる気はなかったので、港で沈黙してしまった。

船着場のベンチで先に目を閉じたのはヒカリのほうだった。彼女の頭ではジムモリソンの声が鳴っていた。

そんなヒカリを見ながら先輩も目を閉じた。当然、ドアーズのオルガンが彼を捉えていた。

「聞こえます?」ヒカリは目を閉じたまま先輩に聞いた。

「うん、聞こえる」先輩は手探りでヒカリの手を探し、その手を強く握った。

「ありがとう」ヒカリはつぶやいた。

先輩は目を瞑ったままヒカリにキスをして答えた。「牛の首が」と彼は続けた。

そう、ふたりが共有する映像では、「地獄の黙示録」のラストシーンのように、もうすぐ牛の首が切断されようとしていた。

「止めてほしい」ヒカリは漏らしたが、先輩にもどうしようもなかった。

境港フェリー乗り場の、午後の遅い時間、ふたりは目を閉じてドアーズを聴いていた。ジムモリソンの咆哮を振り払ってもそれは去っていってはくれなかった。

「ああ。牛の首が」ヒカリは目を閉じたまま、自分のまぶたを押さえた。「切られてしまうよ、先輩」

先輩は目を閉じたまま、ヒカリを強く抱きしめた。

だが残念ながら、ふたりの頭の中で、牛の首は切られてしまった。ヒカリは泣き始めた。

今日は先輩も泣き始めた。その声は時間がたつごとに大きくなり、その大きさにびっくりしてヒカリは目を開けた。

「大丈夫、先輩?」ヒカリも目を濡らしながら隣で泣く先輩を気遣った。

「僕たち、生きていこう」と先輩は小さな声で言った。「牛のためにも」

「はい」その言葉を聞いて、今度はヒカリが大きな声で泣き始めた。

先輩は、そうやって泣くヒカリを見て幸福な気分になった。そして、ついついキスをしてしまった。

「ゴメン」昨夜と違い、先輩の謝罪の言葉はあまりに聡明だった。

「ううん、ありがとう」とヒカリは答えた。先輩の謝罪が透明すぎて、ヒカリはまた泣きそうになった。

けれども涙をこらえてヒカリは言った。

「先輩」彼女は笑っていた。

先輩もヒカリの目を真正面から捉えた。

「さっきの先輩のキス、パーフェクトでした」彼女は俯いて笑っていた。

先輩は嬉しくなったが、ついつい、

「今日のどのキスのことなんだろう?」と言ってしまった。

そのあと先輩は、ヒカリに黙って横腹を突かれた。そしてふたりは大笑いした。



12.ヒカリ


ヒカリと先輩はそのあと玉造温泉と出雲大社をまわったが、なぜだか自分のことを話せないまま過ごしていた。ヒカリも先輩もそれはすごく不思議で、それまで岩手でも伊豆ででもなんでも自由に話せたはずなのに、広島のあとは話せなくなってしまった。

先輩もヒカリもその理由はおそらくセックスと結婚にあると思っていたが、なんとなく切り出せずにいた。

「先輩」とヒカリは言った。「どうしよう?  やっぱり九州はやめましょうか」

「ヒカリさえよければ」と先輩は言った。「瀬戸内海に行きたいなあ」

 **

岡山まで戻って、ふたりは瀬戸内海に浮かぶ島行きのフェリーに乗っていた。瀬戸内海の夕日はすさまじいインパクトをふたりに与えた。

「ああ、ダイヤモンドとはこういう景色のことを言うんでしょうね」ヒカリは思いついたことをつぶやいた。

「あの島もあの島も」先輩は涙ぐんでいた。「島全体が夕陽を反射している」

先輩の言う通り、中には無人島もあったが、幾百もあるような島の配置は、それぞれの島が夕陽を受けて煌めいているためだろうか、瀬戸内海というテーブルの上に転がったガラスのビー玉のようだった。

「きれい」としかヒカリには言えない。「ここに来てよかったですね」

「うん」と先輩。「瀬戸内海の光がすべてを受け止めてくれるのかな」

「わたしたち」ヒカリは瀬戸内の光を浴びながら先輩を見つめた。「まったく新しい結婚をしましょうよ、先輩」

「新しい結婚?」先輩は繰り返した。「結婚自体がどうしようもなく古いものだから、それを新しくなんてできるんだろうか」

「わかりません」ヒカリは笑っていた。「でもせっかくするなら」と続けながら彼女は瀬戸内の島々をもう一度見た。「10代で結婚するなら」

「そうか、ヒカリはまだ19か」と先輩。

「18ですよ!」とヒカリは笑った。「先輩は20才?」

「うん」と先輩はうなづいた。ふたりは別に結婚する必要はなく、普通のカップルのように普通につきあっていればよかった。

「どうせつきあうのなら結婚でしょ!」ヒカリは目を細めて海を見た。「思いっきり変な結婚をしましょうよ、私たち」

だんだん太陽が瀬戸内海の向こうに沈みつつ合った。太陽はゆらゆらと横に揺れていた。太陽の光はまだ強いのに眩しくはなかった。

「どうして目が痛くならないんだろう」先輩はつぶやいた。「あんなに太陽は輝いているのに」

「あれはたぶん輝きじゃなくって」ヒカリも目を細めてその恒星を見た。「話しかけているんですよ、私たちに」と言った。「あのソラリスのように」

ふたりは先日見たあのソビエト映画を思い出し、瀬戸内海の夕陽を浴びながら黙ってうなづいた。

「聞こえた?」先輩はヒカリに聞いた。

「うん、聞こえたよ」ヒカリは海を見ながら言った。「太陽は私たちを応援してくれている」

 **

翌朝はそのアート島にある美術館をふたりはまわった。よく知られた美術館を一通りまわり、最後に古民家風美術館にたどりついた。

その民家には地下に美術館があり、常設の展示品は「くらやみ」とのことだった。

「くらやみって、何を見せてくれるんだろう」先輩はつぶやいた。

「くらやみって見るものかしら」ヒカリは400円したチケットを見つめながら言った。「見ても見えないのに」

「明るさのコントラストを感じるのだろうか」先輩もチケットを見ながら言った。

「でも、くらやみなんだから」ヒカリは先輩を見上げた。「そもそも見えないはずじゃあ」

「美術って」と先輩。「別に見なくてもいいのかもしれないね」

ふたりはチケットをスタッフにわたして、くらやみ美術館へと入っていた。

そのドアは、日本の古い蔵にある扉のようで、重くカビ臭かった。

そのカビ臭いドアを開けると、目の前にもう一つ重そうなドアがあり、ああこれで外の光を遮断するんだろうとふたりは語りながら2つ目のドアを開けて中に入った。

背中のドアが閉まると、中は本当に真っ暗になった。

「これはくらやみというよりは」と先輩。彼は横にいるヒカリの肩を手探りで見つけ、その肩の先にある手に触れた。

「まっくら」とヒカリは言って、先輩の手を握り返した。

「無音でもあるね」と先輩は言った。どうやら入場客は彼らふたりだけで、どれだけの広さがあるのかわからないそのくらやみのなかに、ふたりの声は吸収されていった。

「目を開けているのに」とヒカリ。「まっくらです」

「不思議な感じ」先輩はヒカリの手を握りしめた、ヒカリも握り返した。

 **

ヒカリも先輩も、自分が目を閉じているのか開けているのかを忘れてしまった。そんな状態のなか、ふたりの前にぼんやりとした曙光が現れた。

「あれは僕だけの光なんだろうか」

「いえ、わたしにも見えるので、わたしたちは目を開けているんだと思います」

ヒカリはそう言って隣にいるはずの先輩を見たが、そこにはくらやみがあるのみだった。

「あれ、先輩」とヒカリ。

「うん、ヒカリ」先輩はヒカリに答えた。「僕たちはどうやら目を瞑っているらしい」

「ということは、わたしたちはまた一人?」

「いや、手はつながっている」と先輩は言ったあと、ヒカリの手を強く握った。「僕たちは孤独じゃないよ」

「ありがとう」とヒカリは答えた。「そこに光が浮かんでいるのに」

確かに、そのくらやみの美術館の中で、ふたりを包んでいた漆黒の暗さは少し和らぎ、目の前に弱い弱い曙光が現れていた。だからふたりはその曙光に照らされていいはずなのだが、ふたりの目はその曙光を捉えることができず、それぞれの目を閉じた世界にまだいた。

「僕たちは目を閉じて一人なはずなのに」と先輩は言った。「こうして触れ合っている」

「不思議ですね」とヒカリ。「でも、すごく安心します、先輩」

「うん、僕も」

ふたりは、その島をとりまく瀬戸内海が、ふたりのすぐ側に押し寄せている気がした。

「あれは」とヒカリ。「津波なのかしら」

「いや、僕たちに戻れと言っているんだよ」と先輩は答えた。

「どこに?」ヒカリは、目の前に瀬戸内海を見ながら曙光も見ていた。「どっちに戻るのかしら」

 **

徐々に曙光は普通の室内灯へと変化していた。ヒカリも先輩も、その室内灯の世界に戻る必要はあるのか、考え込んでいた。

「戻る?」と先輩。

「わかりません」とヒカリは言った。「ほんとうは、あのままでもよかったよ」

「僕も」と先輩は返した。「くらやみに僕たちは溶け込んでいたのかな」

「くらやみだけじゃないかも、です」とヒカリ。「瀬戸内海という海そのものに飲み込まれていたのかもしれないし、わたしたち自身の世界に入り込んでいたのかもしれない」

「僕らの世界?」と言って、先輩はヒカリを見た。

「これからわたしたちはあんなくらやみの優しい世界をつくれるんでしょうか」とヒカリは返した。

「つくらなくても」先輩は徐々に輪郭を取り戻し始めた本物の常夜灯の下、ヒカリの手をあらためて握った。「いつでもあのくらやみに戻ればいいっていうことなのかなあ」

「先輩」ヒカリはその手を握り返しながら言った。「あのパーフェクトキスを、今して」

「オッケー」先輩は笑い、その、ヒカリが完ぺきと思い込んでいるキスをした。

「ありがとう」ヒカリは泣くことはなかったが、その心がくらやみに戻ることもなかった。



13.台風


ふたりは四国か岡山には戻らず、もう一泊その島で泊まることにした。予約は昨日のホテルの分しかしていなかったので、今日は別の民宿に電話してみた。

「よかった、一室空いていた」先輩は携帯電話を切ったあと、ヒカリに笑いながら言った。

「そして先輩」ヒカリは遅い午後になりかけた空を見ながら言った。「台風が来そうです」

ふたりとも前日はテレビの天気予報を確認していなかったのでその空模様を見て驚いてしまったが、台風が着実に接近していた。

「風が急に強くなってきたね」先輩は言った。確かに、1時間前とは別の大気の感覚だった。

「私、本当の台風をまだ知らない」ヒカリは空を見上げながら言った。「瀬戸内海って、台風が強烈なんですよね」

「そうだと思う」先輩は小さな声で言った。「民宿へ急ごう」

そう言って自分の荷物を自然と持ってくれた先輩の背中をヒカリは見た。その背中は大きいのか小さいのかわからない広さをもっていて、彼女はその背中を触ってみたかった。

けれども先輩は急いでいた。晴れていながらところどころ空が曇り、時々どこからやってくるのかわからない風の轟音を聞きながらヒカリは、先輩はたぶん私を守ってくれているのだろうと思った。

 **

民宿にはその30分後に着いた。着いた途端、大雨が降ってきたので、ふたりは顔を見合わせ、

「セーフ!」

と言って笑った。

「急いでよかっただろう?」と先輩。珍しく、先輩は褒めてほしいんだとヒカリは思った。

「早足で正解でしたね!」ヒカリはそう言った。どんどん歩いていく先輩を呼び止め、その背中に飛び込まなくて正解だった。「先輩の背中って、広いのか狭いのかわかりにくい背中ですね」

先輩は民宿のガラス戸に映った自分の背中を横目で見ながら、「広い系?」とヒカリに聞いた。

「物理的には広いけど」とヒカリ。「時々縮むんですよ」

ふたりはそこで小さく笑った。「僕の背中っぼいね」先輩は言った。「広いんだか狭いんだか」

「私には広かったですよ」ヒカリは笑って言った。「ずっと私のカバンを持ってくれて、ありがとう」

ふたりは、民宿の部屋に入り、窓のそばにある古いソファに座った。そして、外の風の音を聞いた。

「一見こわいけど」とヒカリは言った。「なんだかやさしい音のように私には聞こえる」

「ごおごお言ってるけど」と先輩。「怒っているというよりは、フジロックみたいな感じのノリだなあ」

先輩は一度だけ苗場のフジロックフェスティバルに行ったことがあり、それもヒカリにとっては憧れだった。ネットで知り合った知らない人の車に乗って苗場のスキー場まで運んでもらい、4泊フジロックの斜めの芝生でテントを張って止まり、ずっと音楽漬けの生活を先輩は送ったのだった。

そのフジロックへの憧れはヒカリは隠して、先輩に聞いた。「怒ってないですよね、台風は」

「ヘッドバンギングでもないし」と先輩は言い、頭を前後に振った。

その姿を見て、ヒカリは声を出して笑ってしまった。「先輩、ヘッドバンギングが結構似合ってます」

「そう?」バンギングを緩やかに続けながら先輩は笑っていった。「メタルだって、別に怒ってないんだよ」

「じゃあ、なんだろう」とヒカリはつぶやいた。先輩はようやくヘッドバンギングをやめた。

「オレはここにいるぞって主張しているんだろうか」と先輩。先輩は少し汗をかいていた。「メタルと会話しているのかな」

「台風が頭を振って、すごい風を起こしてるのかなあ」ヒカリも何回か自分の頭を前後に振った。髪が先輩より長い分、スカンジナビアの本物のメタルファンのように見えた。

そのあたりになって、台風の風が本格的に強くなり、民宿全体が揺れ始めた。

「民宿もヘッドバンギングしてるよ」とヒカリは言い、ふたりは大きな声で笑った。

 **

その台風の轟音を聞きながらふたりはセックスをした。いつもどおりそれは淡白なものだったが、なんとなくふたりはその紋切り的行為に慣れてきた。

「こんなものなんですねえ」ヒカリは、後処理する先輩の広い背中を見ながら言った。「セックスなんて、秘密でもなんでもないよ」

「そう、なのに、どうして我々はセックスするんだろうね」ゴミ箱にティッシュを捨てたあと、先輩は笑いながら言った。「楽しくはあるんだけど」そう言って先輩はヒカリの肩に手を置いた。

「私もうれしい」ヒカリは先輩の手に自分の手を重ねた。「けど、ごめん、先輩。途中で時々笑いそうになるの」

「よくわかるよ」先輩は言った。「僕もそうだもの」

台風は大きな音の風を運ぶ。小さな声で会話するふたりの上に被さるようにして自分の風の音を届ける。

それはまるで、

「私と同じ、ヘッドバンギングのやさしさみたいなものよ」

と台風が言っているようだ。

「台風さんもああ言ってます」ヒカリは天井を見て笑いながら言った。「言われてみれば、台風とヘッドバンギングとセックスって似ていますよね?」

先輩はその言葉を聞いてしばらく黙り、やがて返事した。「似てる」

「存在論的な順番では、1位が台風、2位がセックス、3位がヘッドバンギングかしら」とヒカリは言った。台風は民宿を轟音でまだ包んでいた。

「2位と3位はその都度入れ替わるなあ」先輩はヒカリの膝の上に頭を乗せた。「人間が絡むと不安定になる」

その時、台風がいちばん接近するとよくあることなのだが、家全体を吹き飛ばすような強風が吹いた。ふたりの民宿は本当に飛んでいきそうなくらいの揺れと風の轟音だった。

ヒカリはびっくりして自分の膝を枕にする先輩に上から抱きついた。先輩もそれを受け止めた。

「もうしゃべるのはやめよう」先輩はそう言い、ヒカリがパーフェクトキスと言うキスをした。たぶん、話すことを私たちは意図的にやめる時も必要だとヒカリは思った。先輩の脳にもその声が届いたのか、パーフェクトキスのあと、こう言った。

「ピンチになった時僕たちは」先輩は映画のように、ヒカリの唇に人差し指を当てた。「黙ってキスをするか、それとも」

「くらやみを求めて歩きましょう」ヒカリは先輩を見つめて言った。

「そのくらやみはどこにあるんだろう?」先輩もヒカリを見つめた。

「ここに」ふたりは同時に相手の胸を指差して笑った。そして、「本当かな?」と同時に続け、以降は黙って抱き合った。



14.ふたりのクロール


その翌日から再びふたりは何でもしゃべることができた。昨日までの沈黙が嘘のように、なにも考えずにふたりは見たこと感じたことを話した。それは、頭でしゃべるというよりは、ハートでしゃべる、みたいな感じだった。

芸術の島を離れる際、ふたりは岡山に戻るか四国に渡るか悩んだが、結局「もう一度境港に行ってみたい」と漏らしたヒカリの言葉が決定打となり、岡山行きのフェリーに乗った。

境港に近づいても、あの牛の島にふたりは行く気にはなれなかった。かといってゲゲゲの鬼太郎とネコ娘に会う気にもなれず、

「じゃあ、どうして僕たちは境港に向かっているんだろう?」と先輩はつぶやいた。

「わかりません」ヒカリは笑った。「でも、私のゴーストが、境港に行けって囁くの」さらに彼女は笑った。

「そう、僕のゴーストも囁くなあ」と先輩。

「ね?」

ヒカリは、JRの特急に乗りながら、先輩の手を強く握った。

 **

境港には案外早く、昼前に着いた。駅前の鰻屋でうな重をなぜか奮発して食べたあと、ふたりは高い建物のない、不思議なその街を手をつないで歩いた。

「ビルもなんにもない」先輩はこの前ここに来たばかりだったが、初めて来たようにつぶやいた。

ヒカリも周囲を見渡すと、3階建て以上の建物を発見することができなかった。「ここは本当に境港? 先輩」彼女は聞いた。「この前とは別の町みたい」

先輩もヒカリも、そこが境港かどうかは、どうでよくなってきた。低い建物ばかりがダラダラと続く、『ジョジョ』の杜王町みたいに歪んで見えるその街をふたりは気に入り始めた。

「何をしよう? ここで」先輩はヒカリに聞いた。「といっても僕は」と続ける。

「わかってるよ、先輩」ヒカリは笑った。「泳ぎたいんでしょう?」

「なんでわかる?」と先輩はヒカリを見た。

「そりゃあ」とヒカリはくすっと笑って答えた。「私も泳ぎたいんだもの」

「プールなんて、あるのかあ? 」先輩は言った。彼の頭の中には「海」というイメージがないようだった。

「ここまで来たら、当然海、なのでは?」ヒカリは断言して先輩を見た。「でも、塩でベタベタするか」

「それもあるけど」先輩は言った。「僕はきちんとクロールをしたい。小学校の頃のように、きちんと泳ぎたいんだよ」

「わかる気もする」ヒカリは言った。「私も、久しぶりにクロールをしたい。ついでにバタフライも」

ヒカリは小学生の頃、個人メドレーの選手だったという。「いちばん得意なのは」と彼女は言った。「バタフライ」

「すごい」と先輩は漏らした。実は彼は、小学生時代スイミング教室に通わなかったせいで、バタフライも平泳ぎも背泳ぎもできなかった。クロールのみ、なんとか25メートル泳げる程度だった。「ヒカリが羨ましい」

「じゃあ、いっしょにクロールを泳ごう、先輩」ヒカリは先輩の手をとって歩き始めた。

 **

歩いているとすぐに市民プールが見つかった。ふたりはスクール水着みたいなのとゴーグルを受付で買い、それぞれの更衣室に向かった。シャワー室で再開したふたりは、互いの水着姿を見てなんとなく嬉しくなった。

「先輩とまさか、ここの市民プールで泳ぐことになるなんて、驚きです」ヒカリは冷水シャワーを浴びながら下を向いた。「でも、なんだかうれしいよ」

「僕も」クロールしかできない先輩は緊張していた。「僕、ヒカリに迷惑かけるかもしれないよ」

「任せてください!」ヒカリは大きな声で応え、先輩の手をとってプールに連れて行った。「私、小学生の頃、区大会で3位になったこともあるんですよ!」

「それはスゴイ」先輩は答えた。もう彼は、すべてを彼女に委ねる気だった。

まずヒカリが水面に身体を浮かべ、水平に保った。そして、左右の腕を交互に動かし、それに連動するように、両足を控えめに上下に動かした。

その姿は優雅で、まったく水しぶきがあがっていなかった。

「素敵だ」と先輩は漏らした。それほど、境港の午後の市民プールと、ヒカリのクロールのストロークは相互に映えていた。

ヒカリは10メートルほどクロールしたあと、泳ぐのをやめてプールに立ち、先輩を見ていった。「さあ、来て!」

その声の綺麗さにつられて、先輩はプールに頭を漬けて泳ごうとした。けれどもその身体はヒカリのそれとは異なり、あまりにちぐはぐだった。ようやく息継ぎができている、という泳ぎだった。

ヒカリの3倍の時間をかけて先輩は10メートルを泳ぎ、ヒカリのそばで立った。「全然ダメだよ、恥ずかしい」先輩は思わず漏らした。

「バナナフィッシュ、見えた? 先輩」ヒカリは冗談を言って笑った。

「あ、そうか」先輩も笑った。「きちんとクロールできなくてもいいんだ」

「そうですよ」ヒカリは言った。「私たちがいまいるのは、境港なんですよ!」

その境港は、不思議とふたりを歓迎してくれていた。何かの事象があるわけではないが、ふたりにとってすごく居心地のよい空間だった。

「どうしてこの街は僕らをこんなに受け入れてくれるんだろう?」先輩は立ったままプールに頭をつけ、手だけクロールの練習をしながら言った。「やっぱり鬼太郎がやさしいのかな」

「彼もネコ娘もネズミ男もやさしいけど」ヒカリは先輩の腕をつかんでクロールの正確なストロークを伝授していた。「先輩、関節がやわらかいね」

「でも、ヒカリと同じスピードではとてもクロールできないよ」先輩はヒカリに導かれるまま、腕をぐるぐるまわしていた。

「息継ぎの向きを、私が先輩に合わせるから、いっしょにクロールしてみましょうか」ヒカリは先輩の腕から手を離して言った。「そうすると、息するときにふたりの視線が合うよ」

先輩はふたりの実力差からそんなにうまくいくだろうかと漏らした。「僕の息、確実に2秒はかかってる。はぁーって感じで」

「そんなの、どうでもいいんだよ、先輩」ヒカリは笑っている。「さあ、いきましょう」

ヒカリは先輩の背中を押した。先輩は押されるまま身体を水平にし、不器用に泳ぎ始めた。腕を回転させ、膝から下の両足を懸命にバタバタさせた。そして、自分の右手が上がったと同時に顔を上げ、息をした。

 **

すると、目の前に、ゴーグルはしていたものの、まさしくヒカリそのものの顔があり、彼女は笑いながら息をしていた。

ゴーグルの奥にはヒカリの目があり、その目自体が笑っていた。

そして、先輩も、必死に息をしながら、ゴーグルの中の自分の目が笑っていることを意識していた。

「ヒカリ」と先輩は思った。「僕らはイルカになっているのかな?」水中なので先輩は言葉を表出することもできず、それでいてなぜか伝えることができた。

「それはちょっとカッコよすぎますよ、先輩」とヒカリは伝えた。何によって伝えたかは、ふたりにはわからなかったが、クロールするヒカリの言葉というか意志は何らかの方法によって先輩に伝わった。「かといってマンボウっていうわけでもないし」

「スピード的にはマンボウだ」先輩は何回目かの息継ぎと同時の視線の合致の時、ヒカリに伝えた。「でも、我々は立体的だ」

先輩の言う立体的は、どうやらマンボウを上回る技術のようだったが、そのプールでマンボウと張り合う先輩がおかしくて、ヒカリは水を飲みそうになった。

「大丈夫か、ヒカリ」先輩は伝えた。先輩はマンボウのように、優雅に水の中で漂っていた。

「なんとか、大丈夫」その日初めて泳ぎに真剣になったヒカリは言った。ふたりはプールの反対側まですぐにたどりつき、ヒカリはそこで優雅にターンした。

「ヒカリ、イルカみたいだよ」先輩は思わず漏らした。境港の午後の日差しが、そのイルカターンにオレンジの色を与えた。

ヒカリはそのターン後、なんとなく思いっきり泳ぎたくなり、バタフライで25メートル泳ぎ、ターンして背泳ぎで25メートル泳いで先輩のもとに帰ってきた。そして、泳ぐのをやめて、先輩の近くで立った。

「かっこいい」先輩は笑った。

「先輩、クロールしよう!」とヒカリは言って、先輩の手をとった。

先輩はびっくりしたものの、あのゆっくりとしたクロールを再び開始し、ふたりはそれから何回も視線を合わせた。

ふたりは泳ぎながら何かを言おうとしたが、水を飲みそうだったので、先輩は懸命に泳ぎ、ヒカリは楽しく先輩のスピートに合わせてクロールした。



15.テレパシー


境港からふたりはJRで松江に移動し、松江美術館に来た。なぜかそこで開催されているアニメの美術展を見ようと思ったからだった。

ところがここでもふたりには、美術館に入る前に目の前の宍道湖沿いに設置されてあったベンチに座り手をつないでみると、瀬戸内海のくらやみ美術館で起こったような現象がやってきた。

今回はくらやみではなく、宍道湖の煌めきに包まれた時間でそれは起こった。

ヒカリと先輩は宍道湖が眩しくて目を開けることができなかった。そのため、ベンチに座るふたりは手をつないだまま話し合った。

「わたしはまだしゃべっていないけど」とヒカリは言った。「先輩はわたしの声が聞こえる?」

「そう、聞こえるんだよ」先輩は笑いながら答えた。「もう慣れてきた」

「わたしも」ヒカリもつられて笑った。「手をつないでいるからこんなテレパシーを手に入れることができたのかしら」

「一度手を離してみようか」先輩は宍道湖を薄目で見つつ、言った。

「はい」ヒカリは応え、ふたり同時に手を離した。

宍道湖の湖面は来るたびに煌めく。特にその日の煌めきは、宍道湖そのものが惑星ソラリスになったように脈打っていた。その宍道湖の拍動はソラリスのような暗いものではなく、太陽の黒点が爆発するような宇宙的なものだった。

「聞こえる?」先輩は恐る恐るヒカリに聞いてみた。「僕の喉はいま震えてはおらず、たぶんしゃべってないんだよ」

「聞こえます」ヒカリは笑っていた。「わたしたち、七瀬ふたたびになったんですよ」

「古い小説を知ってるなあ」そういう先輩もまだ20才なので、「七瀬って、テレキネシスだったんじゃあ?」

そういう先輩の几帳面さを聞いて、ヒカリは吹いてしまった。「先輩は真面目ですね」

「だって、気になるじゃないか」先輩はヒカリを見ようとして首を回した。

けれどもそこにはヒカリはおらず、光が乱反射するばかりだった。

「まぶしくてヒカリが見えないよ」と先輩は漏らした。

「わたしも、です」ヒカリは答えた。「さっきから先輩を見ようとしてるけど、光しか目に入ってこないよ」

「光って虹なんだね」先輩は隣のヒカリを探すことは諦め、目を瞑ったまま宍道湖のほうに顔を向けた。「白だとばかり思ってた」

「わたしも、です」とヒカリは答えた。「わたしたちってまだテレパシーで話してますよね?」

「これってテレパシーなのかなあ」先輩はそう言って笑った。「テレパシーって、もっとシリアスなものだと思ってたよ」

「なんか、コントみたいですものね」ヒカリも笑った。「先輩、また手をつなごう」

 **

問題は、それがテレパシーなのか、そのコミュニケーションは実はそれほど珍しいものではないんじゃないか、のいずれだった。

「実はわたしたちは」とヒカリは言った。「みんなテレパシーで話しているのでは?」

「僕もそう思っていたよ」先輩は宍道湖の光を全身で浴びていた。「話すというのも違うし」

「なんとなく、ですよね」ヒカリは笑った。「わたし、先輩とつきあうようになってから、友達との細かい会話の内容も気にならなくなったよ」

「あれ、僕ら、付き合い始めたのって、ここ数日じゃあ?」先輩は宍道湖からの光で見えない隣にいるはずのヒカリを見て言った。「京都も一泊しただけだったし」

「いいんですよ」ヒカリは先輩の手を引っ張って立ち上がった。「もうわたしはずいぶん前からつきあっている気になってたよ!」

「これが全部テレパシーで話されてるのか?」先輩は大笑いしながら、ヒカリに引っ張られていった。「実を言うと僕も、だいぶ前からヒカリとつきあってる気分だった」

するとヒカリは先輩のほうを振り向き、接近し、キスをした。そのキスは、初めてヒカリから能動的に行なうものだった。

そのキスは、宍道湖の光を浴びながら1分以上続いた。キスをしながらふたりは会話していた。

 **

「こころの湖の深い深い底には」その声はもはやヒカリのものなのか先輩のものかは判別できなかった。「青いサファイアが光っていて」

「その湖を覗き込む人にいつも暗示を与えるんだって」とふたりは言った。

「どんな暗示?」ふたりのどちらかが聞いた。

「まずは手をつなげ」ふたりのどちらかが答えた。

「それができないから困るんだよ!」この声はどちらかというと先輩だった。

「まず目を見てしまうんですよねえ」この声はどちらかというとヒカリだった。

「サファイヤはそのあとランプの召使いになって可視化して」とふたりは言った。

「わたしたちを見下ろして言うんです」これはヒカリっぽい。

 **

「手をつなぐのが無理だったら、おまえたち、キスをしろ」ランプの召使いの声は大きかった。

「いましてますけど」ふたりは召使いに大声で答えた。

「こころの湖で手をつなぎ、わたしたちはキスをしてるんです」これはヒカリっぽい声だった。

「オケー」召使いは額に手を当て謝った。「おまえたちは十分コミュニケーションしてるなあ」

「そんなことないですよ!」これは見事にふたりで合わせて言った。「それができてるのなら、こんなに苦労しない」これもふたり同時。

「いや、できてるんだよ」召使いは大声で笑い、言った。その口から出る風は、目の前の宍道湖の水を全部吹き飛ばすほどの勢いだった。「ほんとうは話す必要もないしな、はっ、はっ、は」

と言って、召使いはランプの中に戻った。

 **

ふたりはキスを終えたあと、互いを見つめ合った。

「キスも言葉も嘘くさいけど」ヒカリはついつい思いついたことを言ってしまった。「そんなのより前に、たくさんのことがあるんですね」

「どうやらそうみたい」先輩は言った。今、ふたりは言葉を音にして発声していた。

「宍道湖の光のランプ」ヒカリは言った。

先輩もヒカリも、いまも眩しい宍道湖を見つめた。そして、先輩は言った。

「アニメの展示でも見て、もっとこっちに戻る?」

「うん、そうしよう」ヒカリは宍道湖を見ながら言った。「ここでは言葉は必要ないけど、でもしゃべってしまうよね」

「アニメだよ、アニメ」先輩はヒカリの手をとって、松江美術館の入り口に向かった。「ランプから出よう、ヒカリ」

「あのままあそこにいたかったけど」ヒカリは宍道湖を振り返りながら言った。「あの、こころの湖の底にあるサファイヤとランプに」

先輩は気づけば美術館受付でチケットを買っていた。そしてヒカリの手をひっぱってその建物に入った。



16.月光の室戸岬


ふたりは翌日、バスで四国に渡り、高知を目指した。高知は予想外に遠く、高知市の宿に着いた頃はすでに午後遅かった。仕方なくふたりは高知市のホテルに泊まり、翌日に備えた。

翌日、JRの限界まで乗り、そのあとはバスで室戸岬になんとかたどり着いた。

ヒカリは思わず、

「遠いね、ここは!」と声に出してしまった。

先輩はうんと答えながら、バス停から下りて少し歩いたところに広がっていた室戸岬を見た。

 **

室戸岬に押し寄せる波は凶暴で、先輩とヒカリを圧倒した。目の前には太平洋が広がるのみなのだが、そこから降り注ぐ光は宍道湖のそれとは異なっていた。

光そのものが暴力的で、ヒカリと先輩の目を刺した。それでもふたりは目を細めて太平洋の遥か先を見ようとしたのだが、その暴力的光はふたりが見ることを妨害した。

「なぜ、このまぶしさは私たちの目を直撃する? 」なんとなくシャアみたいな口調で先輩はつぶやく。

緊張すると先輩はシャアになる、そう思うとヒカリは思わず笑ってしまったが、ヒカリ自身、太平洋のもっともっと先を見てみたかった。

けれども、室戸岬の光の煌めきが、太平洋の水平線の先を見ることを妨害した。その煌めきの一つひとつのコマが荒くふたりには映り、30年代のヨーロッパ映画を見るような強さで、ふたりを圧倒した。

「無理だよ、先輩」ついつい弱気になってヒカリは先輩に言った。「光が強すぎる」

時計を見るともう夕方の5時だった。それでもこの太陽の強さ。その強さにふたりは圧倒された。先輩は一度宿でチェックインすることを提案し、ヒカリもうなずいた。

ふたりは宿で早めの夕食を済ませ(またトンカツだった)、その後言葉少なにテレビを見た。

残念ながらテレビはふたりに何も語りかけはしなかった。その音は部屋中に響くものの、その音の一音一音がふたりの胸にまったく届かないことに、まず先輩が降参した。

「僕は無理だよ、ヒカリ」すでに先輩はテレビのリモコンを握っていた。

「はい、わたしもです」ヒカリも手で両瞼を押さえていた。「やっぱりあそこに戻るしかないんじゃないですか?」

ヒカリはそう言いながら浴衣からジャージに着替えていた。当然、先輩もジャージ姿になっていた。

ふたりは、夜の室戸岬へと戻った。

 **

旅館を出て国道を渡ると、その光景がいきなりふたりを迎えた。

昼間見た室戸岬は最果ての岬ではあったが、それでも地上にある岬だった。

けれども今見る夜の室戸岬は、地上の岬ではなかった。

それは、月面のクレーターとして、ふたりを迎えてくれた。そのクレーターは「ようこそ」とつぶやいているようにふたりには思えた。

「どうしてここが月面と思ってしまうんだろ」ヒカリは目の前に展開する、巨石が月光に照らさられてゴロゴロ転がるその光景を見て言った。

「月の光にこの巨石たちは照らされているように思うけど」と先輩は手を差し伸ばして言う。「ここを照らすのは、夜の太陽の光なのかな」

ヒカリはよくわからなくなってきたのだが、ふたりがいる場所は確かに地球で、四国の室戸岬だった。けれどもその光景は、ヒカリがテレビドキュメンタリーで見た月面そのものだった。

室戸岬という月面を、夜の太陽光が照らしている。その太陽光は昼間のそれとは違い、限りなく弱い。弱いけれども、太平洋に自分を差し出す室戸岬を暖かく包み込んでいた。光の本来的姿がそこにあった。

けれども、ふたりの目の前にある室戸岬は、太陽光ではなく月光に照らし出されている。

そしてその月光は、室戸岬の巨石群を鮮やかに浮かび上がらせる。

「先輩」とヒカリは先輩の手を握って言った。「この青白い光は月面ではないんだよね?」

「息してるからなあ、僕たち」先輩は強くヒカリの手を握る。

「痛いよ、先輩」ヒカリは先輩の緊張を感じ取り、言った。

「あ、ごめん」先輩はヒカリの顔を見て言った。その顔は月光に照らされ、青白かった。「ヒカリを照らすのは、月光なのか、太陽光なのか、それとも地球の光なのか」

「ここは地球の室戸岬だから」ヒカリは手を握り返しながら言った。「たぶん月光」

「そう考えると、光の光源なんてどうでもいいのかもね」と先輩は言った。「誰かが誰かとわかるほどの輪郭を描く強さをもった光を、僕たちは待っている」

「わたしは先輩の輪郭なんて不要なんだけど」ヒカリは、月光に照らされた先輩の横顔を見上げながら言った。「ここにあなたがいてくれれば」

 **

「ここってどこだろう?」先輩は言った。彼はこの先もずっとヒカリのそばにいる予定だったが、ヒカリの周辺の「どこ」にいればいいのか不安だった。

「それは簡単だよ、先輩」ヒカリは月光に照らされたその顔を、同じく月光で青白くなった先輩の顔のほうに向けながら言った。「あなたのこころの湖」

「僕は少しずつ、君が好きになっていったよ」先輩はヒカリの手をとって言った。「少しずつ、少しずつ」

「わたしも、です、先輩」ヒカリも手を握り返して言った。「少しずつ」

室戸岬に降り注ぐ月光は、いま集中してふたりにその光を集め始めた。同時に、先程まで轟音として押し寄せていた波音も静かになっていった。夜の海は単純な漆黒ではなく、月の裏のようなさらに暗黒の漆黒でふたりを囲み始めた。

ヒカリはいつのまにかアポロ11号の宇宙服を着ていた。先輩はアポロ13号の服だった。ふたりは、お互いのその格好を指差し、笑った。

そしてふたりは完ぺきなキスをしようと思ったが、アポロ11号と13号のヘルメットがそれを邪魔し、ガチンと音をたてた。

だからふたりは手をつないでそのまま月面に降り、5メートルほどふわりとジャンプして着地し、ヘルメット越しに互いに目を合わせ、大笑いした。



17.石の卵


室戸岬からバスで徳島県に入り、JRの駅があるところまで2人は翌日たどり着いた。JRに乗り、日和佐という駅で降り、ふたりは海亀水族館に行った。

海亀水族館には、1メートルを超える海亀がたくさんいた。ふたりは手をつないだままボードウォークからそれら海亀を見下ろした。

「ガチンガチンと甲羅が当たっているみたい」ヒカリは足下の海亀を見ながら言った。

「亀は言葉も持たず」と先輩は言った。「ゆっくりと互いの甲羅をぶつけているんだなあ」

「モールス信号みたいな意味があるのかしら」ヒカリは耳を澄ませて亀を見下ろした。

「モールス信号ではなく」先輩もその甲羅がぶつかる音を聞いた。「了解! みたいな意味なんじゃないかな」

「相手への?」ヒカリは先輩の横顔を見た。「じゃあ、どちらかが聞こえない声をまずは相手に伝えてるの?」

「声というよりは」先輩は目を瞑った。「亀にもきっとこころの湖があるんだよ」

ヒカリはそう言われて、先輩の胸を見た。こころの湖という言葉がふたりの間で交わされる時、ヒカリは自然と先輩の胸を見るようになってしまった。

そういえば昨夜、ふたりはアポロ11号と13号のヘルメットを被り、そのままキスをしようとして互いのヘルメットをぶつけあったことをヒカリは思い出した。

「昨夜のヘルメットみたいですね」ヒカリはアニメの主人公のように肩をすくめ舌をちょっとだけ出して笑った。

「うん、不思議」先輩はヒカリの手を握って言った。そのヘルメットのぶつかりは夢の中の出来事のように思えたが、ふたりとも記憶していた。夢の共有なのか、寝る前に語り合ったことなのか、ふたりには関心がなかった。

それを出来事として語り合う前に、それはすでに出来事になっている。出来事とはそういうもので、なんとなくわかりあっていることのほうが実は多いんじゃないか、とふたりは思っていた。

「こころの湖では」先輩はヒカリの横顔を見て言った。「話し合う前にすでにそれらをオッケーしてるんだよ」

「それらって、全部のこと?」ヒカリは先輩に聞いたけれども、先輩の答えを聞く前からそうだと思っていた。

「そう」先輩が先に海亀から離れて歩き始めた。「ヒカリと僕がここにいることの全部」

「先輩も私の前にいて」ボードウォークは狭かったので、またヒカリは先輩の不思議な背中を見た。それは大きいのか小さいのかわからない、異次元を行き来する背中のようだった。

「僕らにはいつまでそんな感覚が残るんだろうね」先輩はヒカリを振り返って言った。「休みが明けて大学に戻ったら、こんな感覚は吹っ飛んでいるんだろうか」

「あるいは先輩が就職して忙しくなって」ヒカリの声は小さくなった。「わたしのことなんて忘れてしまったら?」

「世間に深く入ると、こころの湖が消えていくんだろうか」先輩は振り返ったまま、ヒカリを見つめて言った。「そんなの、もったいないね」

ヒカリは先輩に近づき、自分の頭を先輩の胸に軽く乗せた。「先輩、結婚して子どもをつくろうよ」その声は小さかったが、先輩の胸に強く響いた。

こころの湖でそのヒカリの言葉を受けた先輩は、「ああ、そうか」と漏らした。「その手があったか!」

「たぶん赤ちゃんは、こころの湖にいちばん近いよ」ヒカリは自然と自分のお腹に手を当てた。「なんといってもしゃべらないんだもの」

「赤ちゃんは泣くのが仕事なんだもんね」先輩はヒカリをそっと抱きしめた。「こころの湖の主人公だよ」

 **

海亀水族館の出口あたりに大きな籠があり、その中にはサンゴのかけらのような石ころが積み重なっていた。

「こんなところの海にサンゴってあるのかな」先輩は首を傾げてそれら石ころあるいはサンゴのかけらを見た。

「でも、先輩」ヒカリは、自由に持ち帰っていいと書かれた看板を見て、それらサンゴのかけらをいくつか手に取った。そのうちの一つを彼女は凝視し、「卵そっくりだよ」

「まさか、海亀の卵ではないよなあ」先輩は恐るおそるヒカリの手の中にあるその石の卵を見た。「化石でもなさそうだし」

「わたしは、石であってほしい」ヒカリはその石の卵をポケットに入れた。「この石には、魂が宿っているんだよ」

「なんの魂?」先輩は膨れ上がったヒカリのお尻のポケットを見て言った。「海亀? あるいは僕らの赤ちゃん?」

「そのどれでもなく」ヒカリは海亀水族館を出て、駅に歩き始めた。「意志の萌芽のようなもの」

「誰の、というのではないんだね」切符を買うヒカリの背中に向かって先輩は言った。

「中には特別な石があるんですよ、きっと」ヒカリはもう一枚の切符を先輩に渡して言った。「その石が、こころの湖で話しかけてくるの」

JRには誰も乗っていなかった。ふたりは、ヒカリが持つその石の卵をじっと見ていた。ふたりには、石が、地球のものとはだんだん思えなくなってきた。ヒカリの言うように、それを魂と例えるほうが正確な意味に近づくとふたりは思い始めた。

「これを京都まで持って帰ったほうがいいと思う?」ヒカリは先輩に聞いた。「わたしの部屋に置くのは不釣り合いです」

「僕の部屋もそうだけど」先輩は石の卵を見て言った。「京都のどこかに置きに行くか、それとも」

「この近くのどこかに置くか」ヒカリは石を左手に持ち替えて言った。「京都か、四国か」

「あ」と先輩は言った。「あの、くらやみ美術館はどうだろう?」

「それはいいかも!」ヒカリの声はついつい大きくなった。「この魂を、あの原初のくらやみに戻すんですね?」

「ちょっと人工的だけど」先輩もその石の卵を撫でて言った。「魂は、くらやみに戻ったほうがいいんだよ」

日和佐駅を出たJRには少しずつ客が乗り込んできたが、ふたりの周辺には誰も座らなかった。ふたりは手をつなぎ、その石を凝視し続けていた。ふたり的には会話をしているつもりだったが、実は現実の発声はなかった。それはテレパシーでもおそらくなかったに違いない。

そのふたりの会話は、特別な場所で交わされる会話だった。それがこころの湖での会話なのだが、ふたりは、その会話が期間限定であることも十分知っていた。そのこころの湖のコミュニケーションのレベルを、ふたりは年老いても継続させたかった。

石の卵をくらやみ美術館に置きに行く計画は、こころの湖でふたりが手をつなぎ続けることを誓うことと同義だった。ふたりは互いが生きている間は、ずっとこころの湖で話したかった。



18.こころの湖


ふたりは徳島駅で高徳線に乗り換えて高松に再び到着し、そこからアート島への船に乗ってまたそこに帰ってきた。それから、くらやみ美術館に歩いて行き、またその中に入った。

2回目のくらやみ美術館は1回目ほどの衝撃はなかったものの、やはり風景が漆黒になる最初の瞬間は、ふたりを別世界へと誘った。

日和佐の海亀水族館で拾った石の卵は今は先輩が手に持っていた。

「どこにこれを置こう?」先輩は隣にいるヒカリの手に石の卵が入った袋を握らせて、言った。「このまま足下に置いて出ようか?」

「それは他のお客さんが躓きそう」ヒカリは石の卵を握りしめて言った。「でも、暗過ぎてどこに置けばいいのかわからない」

「もう少ししたら曙光が現れるはずだから」先輩は暗闇を見つめて言った。「その曙光に導かれるままにしてみよう」

「はい」漆黒の中、ヒカリも目を開けて言った。

やがてゆっくりと、正面下に薄明るい光源が出現した。その光源はゆっくりと自分のかたちを明らかにしていった。

丸くて薄いオレンジのその光源が周囲の暗闇に薄いオレンジの光を届け始め、漆黒の内部にはぼんやりと夜明けのようなものがやってきた。

前回は気づかなかったが、部屋の隅には小さな丸椅子が一つ置かれていた。

「あの椅子の下は? 先輩」とヒカリは椅子を見ながら言った。

「すぐに職員さんに見つかるなあ」と先輩。「この石には、しばらくここにいてほしいんだよ」

「そうですね」ヒカリは横の先輩を見上げて言った。その顔はオレンジ色だった。「でもそうなると、この美術館の中では難しいかも」

「やっぱりそうか」先輩は石をポケットに入れながら言った。「いいアイデアだと思ったんだけどなあ」

「この島を歩いて、その石の卵がずっといられる場所を今から探しに行きましょう」ヒカリは笑って先輩の手をとった。

 **

夏、島を歩くのは若いふたりにも酷ではあったが、石の卵を島のどこかに置くことが、この旅の終わりを示すことをふたりは話さなくてもわかっていた。

唯一の海岸、別の大きな美術館、小学校の跡地、唯一の港、と、徒歩圏内で目立つ場所をふたりは回ってみたが、ふたりともがピンとくる場所はなかった。

「やっぱり京都に持って帰りましょうか」ヒカリは汗だくになっている先輩を見て言った。「歩くのもそろそろ限界」

「いや、たぶん、この島だと思うよ」先輩は珍しく否定気味にしゃべった。「こいつがそう言っているように思う」

「実は、私にもその声は聞こえるよ」ヒカリは先輩の手に包まれた石を見ながら言った。「クリアな声ではないけど」

「そうか、こいつに聞けばいいんだ!」先輩は立ち止まり、ヒカリを見たあと、石に顔を近づけて言った。「こいつのこころに」

ふたりは近くの木陰に歩いていき、小さなベンチに座った。そして先輩は、ヒカリの膝の上にその石の卵を静かに置いた。ふたりは、ヒカリの膝上にある石の卵をそれぞれの手を重ね合わせて触り、目を瞑った。

やがてヒカリは目を開けて、自分のカバンから油性ペンを取り出した。彼女は先輩から石の卵を受け取り、その石の上に何かを書こうとした。

「何を書く?」先輩は静かに聞いた。

「こころの湖を、この卵にいっしょに描こう、先輩」ヒカリはそう言って、小さなマルを10個ほど描いた。「でも、本当の湖ではないかたちを」

「わかった」先輩は、石とペンをヒカリから受け取り、今度は小さな黒マルを5個ほど描いた。「難しいな」

「湖に、わたしたちは裸足の足を漬けているんです」ヒカリは、人間の足のようなものを描いた。「マンガみたいになるよ」

「それでもいいんじゃないか」先輩はヒカリから石とペンを受け取り、その足に爪を描いた。

「先輩、細かい!」ヒカリは楽しくなってきて、先輩が描いた爪に、黄色のペンで色を塗った。

「じゃあ、その足を湖に浸けなきゃ」先輩は足のまわりを青いペンで塗った。「こころの湖が出てきた」

「マンガみたいなこころの湖にやっぱりなりますね」ヒカリは笑って、もう一つの足の線を引き、爪まで描いた。

「両足になった」先輩は青ペンで足の周囲を塗っていった。すると、最初に描いた小さいマルたちが気泡となり、2つの足を覆い始めた。

ふたりは手を止めて、青く塗り上げられた石の卵を見た。そして、

「そうか、やっぱり海だったんだ」とヒカリがまず言った。

「でも、海水浴場でも、港でもない海」先輩は続けた。

「そう、ここからこれを投げればいいんだよ、あの海に! きっと」ヒカリの声は大きくなった。

 **

ふたりは立って横を見ると、すぐ近くに瀬戸内海の煌めきがあることにようやく気づいた。波が静かすぎてわからなかったが、なんの人の手も入っていない瀬戸内海そのものがそこにあった。そこには、その海の名称そのものが邪魔なくらいの煌めきがあった。

ふたりは黙って道の端へと渡り、静かにその石を海に投げた。あっさりとそれは沈んでいった。

それからふたりは岡山に船で渡るまでなぜか言葉を発することができず、その代わりにずっと手をつないでテレパシーで話した。

「まさか僕たち、超能力者になったのだろうか」先輩はヒカリの心につぶやいた。

「いえ、能力者になるにはまだまだ修行が必要」ヒカリは答えた。「バベルの塔に住んでその能力で東京を廃墟にして脊髄にチップを埋め込んで光学迷彩を着て」等々、ヒカリは蘊蓄を語った。いずれも古いSF知識だった。

それを聞きながら先輩は、「バベルの塔は探すのがたいへん」と心でつぶやいた。

「だからわたしたち、わたしたちだけがこころの湖で話しているんですよ」とヒカリはまとめた。

岡山に着き新幹線に乗ると、そのテレパシー能力は消え去っていた。そこからあのまどろっこしい声を使ったコミュニケーションが再開されたが、あと何日かはふたりはいつでもこころの湖に足を浸すことができるだろうという自信はあった。


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