カナタが先輩から聞いた言葉で今でも覚えているのは、「めんどくさいことにみんなは反発せず、なあなあで済ませるんだよ」だった。

先輩は何を事例にしゃべっているのか、20才のカナタにはわからなかったが、大学のグランドのフェンスを硬く握りしめるその先輩のてのひらからもう少しで血が滲み出しそうだったから、その悔しさは何か対象があるようだった。

その後先輩は、カナタと2年付き合ったあと、ヨーロッパに旅立ってしまった。パリで、ポルトガル人と結婚した。

カナタも今は大学生ではなく、もう少しで27才になるところだった。母のアキラが結婚した年で、カナタも今付き合っている男と来年あたり結婚する予定だった。

カナタが大学1回生の頃、先輩とはまだ付き合ってはいなかったが、あの大学の近くにある小山の上の神社に夜中によく登った。先輩は神社に向かいながらよく映画の話をした。それは、スタンリー・キューブリックという監督が作った「2001年宇宙の旅」という映画の話だった。「あそこで出てくるボーマン船長が」と先輩はよく言った。「どうしてスターチャイルドになったのか、いまだに僕はわからん」

先輩は神社に着いた後、いつもそのボーマン船長について話していた。大きな声で、「ボーマン船長は虹色の光に10分も包まれるんだよ! 」と語った。

「僕は寝たよ! 悪いけど」

先輩は笑いながらカナタを見たが、後になってその笑い顔がボーマン船長にそっくりだったことにカナタはゾッとした。

先輩は、虹色の光に包まれるボーマン船長について語っていた。カナタはずっと先輩を好きだったけれども、だんだんボーマン船長を憎み始めた。ボーマン船長に大好きな先輩を取られた気になっていった。

先輩は、夜の神社の前で、「2001年宇宙の旅」のラストシーンについていつも語った。その大きな声がカナタは恥ずかしかった。夜中に誰もその神社を目指す者はいなかったのに、彼女はお願いだから先輩、もう少し小さな声で、と願ったものだ。

「わかってるよ」と先輩。続けて、「俺はもうフランスに行くよ」といつもの決め台詞を付け加えた。

どうやら先輩は、カナタもぼんやり想像できる理由で、この国を出たいようだった。母のアキラに打ち明けてみると、「そんなものよ。ナイス先輩!」と言って会話を打ち切られたが、カナタも母が言うように、先輩のくやしさは何となく想像できた。だから、先輩と付き合うようになっても、カナタは先輩はパリに行くべきだと思っていた。

先輩が就職して2年目、ついに「会社を辞めてパリに行く」と言い始めた。そして、カナタに対して「一緒に行こう」と誘った。けれどもカナタはどうしても決断できず、そのことで別れることになった。

「そうだな」と先輩。カナタも「ごめん」と言った。

※※※

その後、先輩はパリに行き、フランス語を学ぶ環境の中でなぜかポルトガル人の女と出会い、結婚した。

そんな先輩とはカナタはパリで一度、日本で一度再会したが、その後も不思議と先輩とは時々空想の中で会った。そのことを母のアキラに言うと、片手にワイングラスを持った母は、

「取り憑かれるのよね」と言った。

両手で自分の子を抱っこしながらカナタは、「取り憑かれても気持ち悪くない」とつぶやき、「先輩に会いに行っていいのかしら」と母に言った。

※※※

カナタが幽霊を信じたのは、このままだったら先輩とはもう再会できないな、と確信した頃だった。先輩はたぶん、まだパリにいた。いまさらパリにメールはできないが、出産前に再会したもののその時は深い話ができず、このまま死んでいくものだろうと思い始めていた。

先輩の魅力はとっくに色あせていた。けれども、先輩を思い出すことは、自分の青春を思い出すことだった。青春は、カナタに幽霊のように取り憑いていた。だから彼女は、先輩を幽霊にして、たまに時間ができた時、その幽霊に話しかけた。

「先輩、おはよう」

その言葉はカナタだけの秘密だった。先輩はスターチャイルドのようになって、地球を見下ろしていた。そんな先輩に向かってカナタは、「おはよう」と言ってしまった。

「ボーマン船長は」と、日本にいた頃よく先輩は話した。「決して虹色になりたかったわけじゃない」

あるいは、それよりちょっと前に、山上の神社でこんなふうにも語っていた。

「あの宇宙船の中で、彼はつまづきそうだったんだよ」

カナタは、なぜ先輩がボーマン船長にこだわるのかわからなかった。それを直接聞いても彼は曖昧にしか答えてくれない。

  ※※※

母になったあと、先輩が言っていた「めんどくさいこと」はなんとなくわかる。だがカナタは、「わたしはパリには住めない」とよく思った。だから先輩には失礼だけど、とカナタは思う。

その先輩の幽霊を、一生の同志にしたい。

と、そんなことをある時カナタの夫に言ってみた。善良な夫は幽霊が見えていないようで、予想通り「君がそう考えるのなら」と答えた。

同志の幽霊と夫と比べると、いつの間にか夫のほうをカナタは信頼していた。

だがいつもカナタは、「先輩だったら」とよく思い出した。

パリで今も生きているのか死んでいるのかわからない先輩だったら。

まずはあのスターチャイルドについて話すだろう、とカナタは思った。お父さんだって、そう。2人だったらきちんと答えてくれる。カナタは自分でも驚いたが泣いていた。

私の夫はボーマン船長について話さない。その安定感がわたしは好きだ。幽霊の先輩は、延々10分も続いて眠くなってしまうあの光の洪水について今もよく言及する。

カナタはそう想い、赤ちゃんを抱っこしながらずっと涙を流し続けた。スペースオデッティとスターチャイルドはここにあるんですよと、幽霊の先輩にカナタは語りかけた。

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