その線から2点を抽出しなさい

不感症という言葉はアキラにプレッシャーを与えた。セックスに関するあらゆる言葉が、彼女には遠かった。

19才にしてアキラはその分野では熟練の戦士だった。が、男はいつもごちゃごちゃ言ってきた。これ以上、私に何ができるだろう?

水脈とか鉱石は、セックスの最中には見つけることができなかった。それは目の前の男も同じだったようだったが、アキラほど明確にはしていなかった。

「僕がわるいのかなあ」

すっかり物語に囚われてしまっているその男は言った。適当な言葉で彼を慰めたものの、アキラにはその夜のすべてが無駄に思えた。そして、そうやって無駄だと思う自分にもつくづく嫌悪感を抱いた。

では、理想のセックスとはなんだろう、

的、無駄な思考にアキラは囚われた。

暗闇の中、目と目が合う。それはそれでそこそこな感じだった。そこから、より深い互いの水脈へとたどり着くことができただろうか?

アキラはいつも首を振った。セックスは究極のコミュニケーションではない。それは、黒い水脈へと私(たち)を導かない。動物的よころびはそこにある。それはまあ、けれども本当の喜びでもない。

そのわずかな光に、私は私のすべてを没入することができるだろうか。それはコミュニケーションだろうか。それは、ぶっちゃけ一種の喜劇ではないのか。

という、いつもの思考が現れた時、上にいる男の必死な顔を熟視して、アキラは笑いそうになった。

ここで話しかけてはいけないし、もちろんそのすべての行為がかわいいとは思ってもそんな笑顔で笑ってもいけない。それはそんなもの。

 ※※※

私たちの間に深く流れる水脈や濁流は、なぜか私の笑いからズレる。濁流は私の足元をゴオゴオと過ぎ去る。水脈は、その中に鉱脈の光を表現し、必要のない言葉を削る。私たちは、最初からずっと線なのだ。

その線はいくつもの点からできている。点は、深い深い水脈から浮かび上がった。私はそうなるのを何ヶ月も待っていた。相手によっては何年も、という時もあるが、あの頃の私は毎日出会うその男のペースに合わせていた。

点と点が出会うまで、やっぱり丸1日はかかった。

不思議なことに、出会ったあとも、私はその出会いが納得感をもった線にはなかなかならなかった。それが線なのだと実感したのは、おもしろいことに、私たちが別れの相談をし始めたときからだ。

 ※※※

別れようと思った時は、変な感触だった。

私たちのそれぞれの点は赤い色をしていた。その赤の2点が交差するのは当たり前なのだけど、身体が私を彼からなかなか離すことができなかった。それはたいしたことではないのだが、別れたあともずっとずっと引きずった変な感覚だった。

にじむ2つの点はたいしたことない。でも私はその2点に対して失礼なことはしたくないといつも思っていた。

失礼な別れ方をせず、2点をそのままにしておくことなどできない。

そういうのがわかったのは、アキラが30才になった頃、娘が3才になる頃だった。

その 3才の笑顔はすさまじく、アキラが水脈に戻ることを禁じた。

でも娘が14才になった今、そのすさまじい3才の笑顔には感謝している。その笑顔は、私をその場所にいつもつなぎとめてくれていた。 線から点を拾い出すことは、14才の少女の倦怠がなければ無理だったのかもしれない。


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