水滴のすべて chapter one


1.ひかる


昨夜がんばって設営したこのテントの床というか、いやテントの場合、床じゃないなあ、なんていうんだろ、こんな時ヒカリがいてくれたらすぐに答えてくれるんだけど、僕のボキャブラリーの貧困さといったら、ここフジロックの苗場でも笑うしかないよ。

2回目のフジロックも僕は旅館には泊まらずテントを選んだ。昨日僕を車で運んでくれたあの人たちのテントがどこにあるのか、もはや僕にはわからない。やっぱりヒカリとくればよかったかなあ。けど、僕の中のゴーストが、今回もひとりで行けって囁くんだよ。仕方ない。

汗だくになってテントで寝たので、さっき試しにシャワー室を覗いてみたら、何人かがやはり朝シャワーしていた。僕も、服を脱いでシャワーの蛇口をひねったら水しか出なかったけど、もういいやと思ってそのままシャンプーして身体を洗った。

すると、さっぱりしたよ。ようやく、フジロックに来た気分になった。テントに戻って、リュックに入っていたおにぎりを食べたらこれまた元気になってきた。ななめのテントにまた横になって周囲の喧騒に包まれる。遠くのステージたちからはまだ音楽は聴こえてこない。確か朝方まで音楽が遠くで鳴っていたので、この朝の数時間だけ音楽がストップする、この時間が僕は好きなんだよ。

考えることはやっぱりヒカリのことだった。昨日、京都を出る時、ヒカリは哲学の道近くのバス停まで僕の荷物を持ってくれた。昨夜は僕の部屋に彼女は泊まったんだ。今年のフジロックは当日券もまだあるみたいだったので彼女は迷っていた。僕も迷っていた。もう喉のここまで、「一緒に行こう、ヒカリ!」と言いそうになったけど、一緒に来てしまうと、この7月の半分以上彼女と僕はともに過ごし、しかもともに旅行していることになる。

ここらでお互い、数日だけでもひとりになったほうがいいんじゃないかって、僕もヒカリも思っていたんだろうね。バスが来て、それまで持っていた僕の荷物を僕に渡した時ヒカリは、初めて「先輩」ではなく、僕の名前を口に出してこう言ったんだ。

「2回目のフジロック、独身時代の最後かもしれないよ、先輩、いや違う、ひかる」

そう、僕の名前はひかると言うんだけど、今月彼女になってくれそして来月にも結婚することになったヒカリと似ていてややこしいので、僕はずっと「先輩」だった。

でもようやく、ヒカリが「ひかる」と僕の名前を直接言ってくれたんだ。2年先輩のこの僕を名前のひかるで呼んでくれたことに、バスの中でなんだか涙ぐんでしまったよ。


2.トム少佐より管制塔へ


夕方まで僕はフジロックで音楽漬けになり、夜のアンダーワールドまで少し時間があったからテントで休もうと思って泥だらけの道を歩いたよ。

でもフジロックらしく泥道の周辺は小さな光に包まれていて、そこを人々はゆっくり歩いていた。前を歩くカップルのふたつの背中がゆらめき、少し酔っ払った僕の頭の中では、昼間聞いたデートコースペンタゴンロイヤルガーデンの最後の曲がリフレインしていたなあ。

目立ちたがり屋のデートコースリーダーの菊地がつくったその曲は、デートコースには珍しくシンプルな作りなんだけど、そのループ構造がフジロックの泥道を歩く僕の頭をよけい支配していった。

光の道を抜けてテントにたどり着いた僕は、なんだかアンダーワールドはどうでもよくなってしまった。水シャワーでも浴びてテントに寝転がりたくって仕方なかったんだ。

ヒカリの好きなアンダーワールドのリポートを彼女にしたかったけれども、妙に僕は疲れていた。

それで、朝浴びたシャワーを再び求めてシャワースペースに行った。さすがにその時間はみんなアンダーワールドを見たくてメインステージに移動したのか、シャワースペースはガラガラだった。夏でも寒い苗場で水シャワーを僕はガチガチ震えながら浴びたけど、とてもさっぱりしたよ。やっぱ、泥と雨のフジロックは過酷なんだよなあ。

斜めに傾くテントに戻り寝転がり、昼間買ってた肉まんを齧りながらアイフォンを探していると、アンダーワールドのリズムが聞こえてきた。そうか、轟音ではないけど、曲くらいは判別できるほどにはアンダーワールドをBGM的に聴けるんだ。

僕は横になり足を組んで、右足をゆらゆらさせながら曲に身体を委ね、水筒のウイスキーを少しだけ口に含んだ。

「これでも十分だな」

と独り言をいって笑い、再びアイフォンを手に取り、ヒカリにメッセンジャーしたんだ。

「Ground Control to Major Tom」

と僕はデヴィッド・ボウイのスペースオディティを口ずさみ、ヒカリに宛てて書いてみた。

「ハローハロー、Ground Control to Major Tom、こちらは苗場コントロール司令室、ただいまアンダーワールドが鳴っています。僕は疲れてしまって、テントという人工衛星に乗って遠くからアンダーワールドを聴いています」

アンダーワールドはようやくアンダーワールドらしい反復ビートを奏で始めた。ここテントスペースはあのメインステージとはだいぶ離れてるはずだけど、結構クリアに聴こえる。

すると、はやくもヒカリから、

「This is Major Tom to Ground Control」

という返信が来た。こちらトム少佐より管制塔へ、そういえばヒカリは、アンダーワールドよりボウイのほうが好きだった。

「And the stars look very different today  こちらは多くの星が見えています、それは地上から見るのとはまったく違います。あ、今日はわたしが少佐になったよ、先輩!」

少佐とはガンダムのシャア・アズナブルのことで、僕とヒカリは、僕がシャア、ヒカリがララァになってよくガンダムごっこをしていた。それはとても楽しく、2人ともノリノリになり、地球の嫌なことを忘れることができた。

ヒカリからは先輩と呼ばれるほうが今はまだしっくりするんだけど、僕を名前のひかるで呼ぼうという約束はどうなった?  と聞こうと思うと、すぐにこう追伸してきた。

「あ、ごめん、先輩じゃなく、少佐。あ、少佐でもなく、ひかるだった🙏」

「いいんだよ、ララァ」僕はそう書き、続けて昼間フジロックで撮った何枚かの写真を彼女に送ってみた。

「いいなあ、やっぱりわたしも行けばよかったよ、ひかる」今度はきちんと僕の名前を書いてくれたけど、なんだか照れ臭いなあ。

「来年はいっしょに来ようね」と僕が書くと、

「来年は赤ちゃんがお腹にいるかもよ」

と、ドキリとするようなことを書いてきた。そうか、僕らはまだ学生だけれども、来月結婚するんだった。そうなると、来年赤ちゃんがいるかもしれない。

「先輩、お願いがあるよ」僕が少し考えている間、続けてヒカリは書いてきた。「フジロックからの帰り、ママのところに寄ってほしいんだ」

ママとは、ヒカリの母親のカナタさんのことで、僕はまだ会ったことはなかったけれども、高校の修学旅行をサボって1人で自転車日帰り旅行をした人だということは覚えていたよ。

「おかあさん、どこに住んでたんだっけ?」そういえば僕は、ヒカリのおかあさんが住んでる場所を聞いていなかった。でもてっきり、東京か大阪のどらかだろうと思い込んでいた。

「琵琶湖の奥のほうでカフェをお父さんとやってるの」ヒカリは予想外のことを書いてきた。「マキノっていう町で」

僕はマキノに行ったことはなかったが、時々僕が鰻を食べにいく今津の、隣の町だということは知っていた。たしか、スキー場があったなあ。淡水の海水浴場も。

「スキー場があったよね?」僕は聞いた。「海水浴場みたいなところも」

「うん、スキー場のほうにそのカフェはあるの」とヒカリ。「そこに行って、ママに伝えてほしいんだ」

※ 「スペイス・オディティ」(Space Oddity)『 「スペイス・オディティ」(Space Oddity)』デヴィッドボウイ EMIミュージックジャパン より


3.Now I stand here waiting


それから3日後の朝、テントを畳んで僕はふもとの駅に下り、JRに乗って北陸周りで琵琶湖を目指した。新幹線とサンダーバードでなんとか敦賀までたどり着いて、敦賀駅の2階待合室で湖西線を待った。今の自分の位置をヒカリにメッセンジャーすると、

「もう敦賀!」と返ってきて、「もうマキノまですぐだね!」と付け加えていた。

僕は、ヒカリのおかあさんのカナタさんにはまだ会ったことがなかったのでちょっと心配、とここ数日繰り返したつぶやきをまた書いてしまった。

「ママはすごく楽しみだって言ってたよ」とヒカリは書いてきた。「音楽の話をしたいんだって」

「そんな、そこまで知識ないよ」そう、僕はロックファンではあるが、50才すぎても現役のロックファンのカナタさんに敵うわけない、そう書くと、

「ママも知識系は苦手なの」とヒカリ。「パパが、すぐウンチクばかりしゃべる人だから、わたしもママも苦手なんです」

「それだったら安心かなあ😮‍💨」と、アイフォンにあった安心マークとともに僕は送った。知識比べは楽しくないからなあ。

「ママは、ひかると一緒に歌いたいのかしら」とヒカリは今度は僕の名前を使って書いてきた。「パパの下手くそなギターを伴奏に」

「それだったら大丈夫かもよ」と僕。「僕も歌うのは下手だけど、すごく好きだし」

「そうですよね、先輩の歌ってヘタだけどなぜかいいですものね」ヒカリの物言いはずいぶんストレートになっている。「ニューオーダー、上手だもんなあ」

「そういや、フジロックにニューオーダー来てたけど、バーニーより僕のほうが上手いかもって思ったよ」これは本当のことで、60代になっても震え声のバーナード・サムナーより、音痴だけどパワーある僕のほうが上手いって、昨日のフジロックでは内心思ったものな。

「それとも、ママはひかると一緒に詞を書きたいのかな」

「それは難題だ」と僕は書いた。「これもさっきと一緒で、僕にはそんな文学的教養がないよ」

「そうそう、これもさっきの音楽の知識と一緒で」とヒカリは書いた。「やっぱりパパが口出しするの」

そんな感じでヒカリとやりとりするうちに、ヒカリの両親のあり方が具体的に想像できた。そして、そのふたりの間で自然と育ってきたヒカリのあり方の理由もわかってきたような気がした。

「思い切ってカナタさんにメールしてみようかな、いま僕は敦賀だって」僕は思いついたことを書いた。マキノから連絡しようが敦賀からしようがそれは変わりなく、どちらにしろ駅まで車で迎えに来てもらわなければいけない。それだったら今メールというか、Facebookのメッセンジャーする気に僕はなった。

「賛成だよ」ヒカリはそう書き、続いてカナタさんのFacebookページをコピペしてきた。「ママにも、先輩に伝えたって書いておく」

僕は敦賀駅でカナタさんにマキノへの到着時刻をメッセンジャーした。するとしばらくして、テキストではなく、なぜか動画がカナタさんから送られてきた。

動画では、画面の後ろでは中年男性が座り、ドラムスティックを両手で持っていた。

そして男は、

ダン、ダン、ダン、ダン、ダダダダダダダダダダダダダダダダ、ダン、ダン、ダン、ダン、ダダダダダダダダダダダダダダダダ

と古びたソファを思いっきり叩き始めた。

それは明らかにニューオーダーのブルーマンデーのあのリズムであり、その聴き親しんだリズムが、中年男性のリズムスティックで叩かれるソファの軋みとともに、僕のアイフォンの画面に浮かび上がる姿は、なんというか場末のサーカスのショーのような佇まいだった。

そのリズムに乗せて、中年女性がソファに座ったまま現れ、こう歌った。

「How does it feel to treat me like you do?」

当然、ブルーマンデーの最初の一節なのだが、バーナード・サムナーというmeをそんな気分にさせているのは、イアン・カーティスというyouの自死という出来事なのだった。

「僕をこんな気分にさせて君はどんな気分なんだ?」

と、夫の変なビートをバックに歌うカナタさんを見て、僕はなぜか一瞬でふたりを信頼できた。カナタさんのそのクネクネしたダンスはセクシーというのではなく、また残されたバンドメンバーのバーニーの気分でもなく、まさに逝ってしまったイアン・カーティスの悲しみを代弁しているように僕には思えた。

その映像を見ていると、不思議と僕の目に涙が浮かんできた。だから動画が終わった後、僕はネットでブルーマンデーの歌詞を検索してこう綴ってみた。

「Tell me now, how should I feel?  Now I stand here waiting」

僕はどんな気分でいればいい?  僕はここで待ってるよ。

そのあと、僕は再び、カナタさんの歌声と、その夫のドラムパターンの動画を見ていた。

すると、ヒカリの母のカナタさんはこんなふうにメッセンジャーしてきた。

「結婚、おめでとう、ひかる!  わたしたち、マキノの改札で待ってるよ✌️」

あれ、結婚の報告は僕からするんじゃなかったっけ?  そのメッセージを、ヒカリはフジロックにいる僕に頼んでいたのだった。だから僕は、苗場からここまで、ご両親になんて説明しようかと悩んでいたんだよ。

「あれ、ご存知なんですか?」と僕はカナタさんに書いた。すると彼女は、

「いや、誰からも聞いてはいないんだけど」と書き、「わたしのゴーストが囁くのよ」と付け加えた。

それでなんとなく僕も理解できてしまった。そうした重要な便りは、まず何よりもゴーストが囁くものだと僕は考えており、カナタさんが自然とそう言ったことで、早くマキノに行って歌手とドラマーのおふたりに会いたかった。すぐにJRに乗りますと書くと、カナタさんは、

「うん、そうしよう」と書き、「ヒカリも誘ってみると、あの子『すぐ行く』って返事がきたよ」と加えた。

僕はびっくりマークを返信したあと、すぐにヒカリにメッセンジャーしてみると、ヒカリからは、

「あと1時間後にはマキノに着くよ!」とすぐに返ってきた。

4日ぶりのヒカリとの再会は、彼女の両親にふたりで結婚の挨拶をするという、ものすごくオーソドックスなものになってしまった。

そう書くとヒカリは、

「ブルーマンデーの動画での初対面はオーソドックスじゃないですよ!👍」と書いた。

僕はそこでは、

Now I stand here waiting

と書くしかなかったよ。


※ニューオーダー「ブルーマンデー」『Substance』London Import より


4.夜のワイキキビーチ


ヒカリの両親が経営するマキノのカフェは大流行りで、駅からカフェに着いた時、10台くらいの車がカフェの駐車場に止まっていた。それらの車に謝りながらヒカリの両親はドアを開け、待ち人たちも談笑しながらカフェに入った。

僕とヒカリは談笑どころではなく、それからカフェの夕食の手伝いを忙しくこなした。僕らは会話するどころじゃなかったんだけど、カフェに流れる音楽が僕らのこころを満たした。やわらかなジャズやボサノヴァは、明らかに栄養源になる。

最後の客が帰った後、片付けを大急ぎで済ませてからやっと僕らは夕食を取ることにした。ヒカリの母のカナタさんとその夫というか将来的には僕のお父さん、ヒカリと僕がそれぞれ並んで座り、客に出した夕食の残りを大皿に並べて好き勝手つまんでいった。4人とも、ワインを飲んだ。

「新婚旅行は僕らはハワイだったよ」ヒカリのお父さんは陽気に話していた。「なぜか、ずいぶん泣いた記憶があるけど、ワイキキの月光がきれいだったなあ」

「あれ、覚えてないの?」カナタさんはワインを飲んでいった。「先に泣いたのはあなたなのよ」

「いやいや、よく覚えてるよ」とお父さん、というか未来のたぶんお父さん。「その昼間にワイキキの反対側の海岸でウミガメの産卵を見て、その涙にインスパイヤされたのかな」

「インスパイヤ」と呟いたのはヒカリだった。「そんな言葉、もう誰も使わないよ、パパ」彼女は父親のグラスにワインを並々と注いだ。「でも実はわたしたちも、この前、四国の日和佐という街でウミガメを見てきたの」

「ああ、徳島の」と返したのはカナタさんだった。「夜、海岸でウミガメが泣きながら産卵するのよね」

「わたしたちが行ったのはウミガメ水族館だったけど、不思議な場所だった」ヒカリはワイングラスを眺めながら呟いた。「ねえ、先輩?」

「先輩?」と反応したのはカナタだった。「やだ、ヒカリ。あなたも彼氏のことを先輩って呼んでるの?」

「え、ママも?」と言ってからヒカリは自分の父親を見た。「あれ、パパのことを先輩って呼んでたっけ?」

その時、珍しくヒカリのパパは考え込んでいた。ヒカリもその様子を見て気まずい表情を浮かべた。

その沈黙を破ったのはカナタさんの笑いだった。「前、ヒカリに言ったように、わたしはパパと結婚する前に別の人と付き合っていて、その人は今パリに住んでいて子どももいるんだけど、大学の先輩だったので先輩って呼んでたんだ」

「そう、先輩って呼ばれるのは気持ちいいんですよ」気づけば僕もしゃべっていた。「気持ちいいというか、先輩って呼ばれた途端、ふたりだけの世界に入っているような気がして」

「そうよね!」大きく頷いてくれたのはヒカリではなく、ママのカナタさんのほうだった。「わたしも、先輩をセンパイって呼ぶとき、不思議な気持ちになったもの、大学1年生の頃だけど」

「今のわたしと同じ年」ヒカリは母親を見て言った。「でもママはパパと結婚したんだよね」

「そう、それでよかったよ」カナタさんはワインを飲みながら娘のヒカリを見た。「結局、わたしが結婚しようと思ったのは、泣き虫のパパだったのよ」

「君もあの夜はずいぶん泣いたじゃないか」久しぶりにヒカリのパパはしゃべった。その顔からはもう緊張感は消えていて、愛おしそうにカナタさんを見ていた。「まあ、僕と結婚してくれてよかったよ」彼はグラスをテーブルに置き、その手を妻の手に重ねた。そして僕とヒカリに聞いた。

「ヒカリとひかるくん、君たちが結婚する決め手はなんなんだい?」

「決め手」という古臭い言葉に反応してヒカリはまた笑いそうになったけど、我慢することができた。真面目な顔で「決め手」と繰り返した後、僕のほうを見ようともせずこう言った。

「わたしたち、テレパシーで会話できるの、パパ!」ヒカリもグラスを置いて僕の手に自分の手を重ねた。「テレパシーというか、なんとなく言いたいことがわかるみたいなの」

「それはどこで?」と聞いたのはカナタさんだった。「相手の言いたいことがわかる場所って決まっているのかしら、それとも状況とか」

「よくはわからない」ヒカリは母に答えた。「けど、『くるぞ』っていうのはある」そのあと彼女は僕をようやく見つめた。「ね、先輩、というか、ひかる?」

「おかあさんたちもこんな感じ、わかるんですか?」ヒカリの問いには僕も答えることができなかったため、失礼ながらカナタさんたちに質問で返してしまった。

「僕はあまりわからないんだ」と答えたのは、お父さんのほうだった。「けど、カナタは心当たりがあるのでは?」

「うん、わたしは30才頃まではいつもそんな感じだったよ」とカナタさんは答えた。「コミュニケーションって基本的にテレパシーだと思ってた」

それをきいて、他の3人は驚いてしまい、漫画みたいに、ワインを吹きそうになったりチキンを落としそうになった。

「その感じは実は今もやってきていて」とカナタさん。「どう、ヒカリは感じる?」

「ちーっとも」とヒカリは答えて笑った。「やっぱりママが超能力者なんだよ」

「何?  変な感じがするの?」ヒカリのパパはこの中ではいちばん真面目というか世俗的で、いちいち理由を知りたがった。まあ、僕にもそんな傾向はあるから嫌ではなかったんだけど。

「試しに、夜のスキー場を歩いてみようか?」とカナタさんは提案した。「歌でも歌いながら」

「賛成」と言って手を挙げたのがヒカリだった。「ママ、何を歌おう?」

「そりゃあ決まってるんじゃないか」と答えたのはヒカリのパパ。「CCRの『Have You Ever Seen the Rain?』でいいんじゃない?」

「却下!」と即答したのはヒカリだった。「おじさんの歌はいやだよう」

「また傷ついたよ、パパ」とカナタさんが笑いながら答えた。「コミュニケーションのつながりの場所を今から拾いに行くんだから」

「拾う?」と僕は思わず聞いてしまった。「あの夜のスキー場に、コミュニケーションのヒントが落ちているんですか?」

「それは鍵みたいなものかしら」ヒカリは母親に聞いた。

「ということは」と、僕が受けて言った。「やっぱ、ドアーズを歌う?」

「さすが、かおる君。いま歌うべきは、ドアーズの『Break On Through (To The Other Side)』でしょう!」

「ああ、やっぱり俺はセンスがないなあ」と、若干酔ったヒカリのお父さんがつぶやいた。僕は彼のことがすっかり好きになってしまい、彼の肩に手をやって、「お父さんは新婚旅行で、雨を見たんですか?」と聞いてしまったよ。

「そう言われてみれば」と彼は答えた。「こころの雨というよりは、僕とカナタの涙の虹が見えたかも」とつぶやいた。

すると、カナタさんは僕らの近くにやってきて、「そう、夜のワイキキビーチに虹が出たような気がしたよ」と言った。


5.雫たち


4人はマキノの夏のゲレンデに出て、夏の草の匂いを嗅いだ。草には夜露が乗っていて、一粒ひとつぶに夏の夜の煌めきが浮かび上がっていた。

普通はそんな小さな草の葉っぱに乗った夜露などに気づくことはないが、その夜の4人は違っていた。

「夜露の一粒ひとつぶが音楽を演奏しているようね」と、カナタさんは夫の手を探しながら言った。

「実際、聞こえてくるな」と、夫はカナタさんの手を見つめて自分の手とつないだ。「一粒ひとつぶは小さい音だけど」

「はい、ゲレンデ全体の草が集まって、大オーケストラみたいですね」僕もついついしゃべってしまった。

「待って」と、ヒカリは言い、黙ってそれらの草が奏でる音楽を集中して聴こうとしていた。「歌だけではないみたい」

そうヒカリに言われてみると、夏の夜のゲレンデの草たちは別のこともしているようだった。

それは音楽ではない。それは、なんだろう?

僕は黙って考えていた。少したってその問いに答えてくれたのは、カナタさんとヒカリの母子コンビだった。

「光の乱反射なんだよ、たぶん」夜なのに、カナタさんとヒカリは眩しそうにゲレンデを見ていた。

「まるでキューブリックの映画のような?」それまで黙っていたヒカリのお父さんがここでしゃべった。

カナタさんとヒカリはうんざりした表情で目を合わせていたけれども、僕はいちばん好きな映画の話が出たので、ついつい乗ってしまった。「ネアンデルタール人が骨を投げる場面から始まるんですよ」

「そして、ボーマン船長が最後に光の洪水を見る」ヒカリのお父さんは僕を見ながら言った。

いつもだとたぶん、カナタさんとヒカリはこのあたりで茶々を入れるのだろうが、この日の2人は黙っていた。黙って、ゲレンデ中の草を見ていた。

「よかったね、お父さん」ヒカリは僕の手を探して握った。「お父さんの話をちゃんと聞いてくれる人がやっと現れた」

「うん、ありがとう、先輩」ヒカリのお父さんはそう言って、光の洪水に包まれた夏のマキノのスキー場の中に歩いて行った。「僕はずいぶん年下の、しかも何故か波長の合う友人と出会えたみたいだ」

その友人とは僕のことだったけれども、僕は嬉しくなってしまい、お父さんの後を追いかけて夏の夜のゲレンデの真ん中に走っていったんだ。

すると、ゲレンデの草たちがいっせいにバネのように僕とお父さんを迎えて跳ね返った。水滴と雫がゲレンデ中に溢れかえり、近所の建物の光や月光を受けて大量の二次的な光をゲレンデ中にばら撒いた。

ゲレンデは夜の雫の光に包まれ、見方によっては虹色に輝いていた。

「こんなことってあるのかしら」カナタさんは目を半分瞑りながら呟いた。「この光源はなんなんだろ?」

「僕たちの」と、ついつい僕はしゃべってしまった。「僕たちが気が合っているから、草自体が輝いているんだと思います」

「草が人を祝福するなんてこと、あるのね」カナタさんは不思議そうに言った。「それは、わたしがずっと求めてきたものかもしれない」

「草の水球」とヒカリは言って、その場でしゃがみ込み、小さな草に乗った夜露をじっと見つめた。

「雫をよく見ると」僕は引き続きしゃべりつづけた。「ひとつひとつの中に、さらに光るものが映っているようです」

「どれどれ」と言ったのはお父さん。足元の草のそばにしゃがみこみ、夏のゲレンデのライトで照らしだれた葉の上に乗った小さな水球を目を細めてみた。

「ほんとうだ!」とお父さんは言った。「ひかるくんの言うとおりだ」

お父さんが僕の名前を読んでくれて、僕はすごく嬉しくなってしまった。

続いて、ヒカリが言った。

「草の上にある水球の中で光っているのは何なんだろ、おとうさん」

「月か?」お父さんは夜空に浮かぶ月を見上げていった。「でも、なんとなくかたちが違うねえ」

「ここは月ではあってほしくない」ヒカリも月を見上げて言った。「このゲレンデのたくさんの草の上にある無限の雫が映しているのが月だなんて」

「じゃあこの光は何?」と言ったのはカナタさん。「わたしは月でもいいよ。ゲレンデに生える草の上に無限に散らばる月光、みたいな」

「僕は」と僕は言った。どうしても言いたかったのだ。

「この草の上に乗る雫の中で光っているのは、やっぱり流星群だと思うんです」

そう、僕にはいつも願いがあった。僕はことばを獲得する前、たぶんいつも揺れていた。その揺れを星で表現すると、星そのもののカケラである流星だと思うのだ。軌道を持たない、破片としての流星。

僕がことばを持ってしまったのはほんの18年くらい前なんだけど、僕たちはその前、破片のような目で世の中を見ていた。

「ああ、それはよくわかる」と応じてくれたのはお父さんだった。「無数の草の上にある煌めきは、その世界からのメッセージなのかなあ」

「宇宙人じゃあるまいし、メッセージなんかじゃないよ、パパ」ヒカリは父に強く断定した。「先輩が言っているのは、わたしたちは本当のことには決してたどりつけないということなんだよ。ね、先輩? 」

「雫たちが歌おうとしているよ」と僕は言った。正確に言うと、ゲレンデの無数の雫に映しだされた僕たちの流星が、口もないのに歌い出した。

それは、ことばではない、無数のハミングの集合体だった。

「1億人くらいの混声合唱団みたい」とヒカリは言った。夜の雫に映し出された1億人の声が、なぜか不思議な塊になってゲレンデ中に木霊した。

「これは美しいよ」と、僕は少し泣きながら言った。

6.ビアンヴニュ

すると、ヒカリのおかあさんのカナタさんもしんみりと話し始めた。

「わたしはね、ひかるくん」カナタさんは両手を広げ、ゲレンデ中の草の合唱団の声を受け止めていた。「あなたのような先輩ではない、わたしだけの先輩が好きだったの」

それを聞いたヒカリのお父さんは両手をポケットに突っ込んで、草のゲレンデの奥へと歩いて行った。

「お父さん!」と僕は言ったが、お父さんはまるで80年代のジャック・ニコルソンのように冷たかった。彼はその時、70年代のイージーライダーではなかった。

「彼は放っておいてあげて」カナタさんは僕の目を見て言った。「わたしの先輩は」

「おかあさん!」今度はヒカリが叫んだ。「もう、いいよ」

「ごめん、ヒカリ」とおかあさんは静かに言った。「あなたの先輩と、わたしの先輩の違いを語りたいのよ」

「先輩じゃないよ」ヒカリは僕を見ながら言った。「もう、ひかるなんだよ」

「でもね」カナタさん/おかあさんは、イイねサインを指で示して言った。「あなたの先輩は素敵すぎるんだよ」

あなたの先輩とは僕のことで、僕は当然自分が素敵だなんて指摘されたことはあまりなかった。けど、尊敬するヒカリのおかあさんであるカナタさんにそう言われて、自分のどこが素敵なのか聞きたくなった。

「ママの先輩は今もパリにいるの?」ヒカリは母親を見上げて言った。「ママはまだその先輩が好きなの?」

その直球な問いにカナタさんは答えず、僕を見た。そして、こんなふうに言った。

「ひかる」僕の目を見ながら僕の名を呼ばれることは光栄だが恥ずかしい。「いや、先輩」

僕はなんと答えたらいいかわからなかったので黙っていた。僕はヒカリに先輩と呼ばれている。そして、おかあさん/カナタさんは昔付き合っていた人を先輩と呼んでいた。

「もうこのへんでいいか?」と割り込んできたのはお父さんだった。確かに、いま、我々がこんな話をしてもメリットは何もない。

「不思議よね」と言ったのはカナタさん/おかあさん。「ヒカリも、好きな人を先輩と呼ぶだなんて」

「そんなものよ」夜のゲレンデのライトは、全面的にヒカリを照らしていた。「わたしは先輩と来月結婚したいの」

「もちろん、オッケーよ」と言いながら、カナタさんの目には大きな涙の塊が浮かんでいた。「あなたにはひかると結婚してほしい」

「でも、ママ、どうして泣いているの?」ヒカリは静かに聞いた。

「わからない」カナタさんの目には次から次へと涙が溢れ出した。「あなたが好きになった人が『先輩』だったから?」

「わたしもわからないよ」そういうヒカリの目にも涙が浮かんでいる。「ダメ、ママ、わたしも泣き始めたよ」

「そういえば」とおかあさん/カナタさんは半分笑いながら言った。「わたしが先輩に振られて就職活動をしていた時、ママに頼まれてママの絵を描いたの。その時、ものすごく泣いたんだった」

「ママって誰ですか?」事情のわからない僕は、ついつい聞いてしまった。

「ああ、先輩、ごめん」答えたのはヒカリだった。「ママの言うママとは、アキラおばあちゃんのこと。かっこいいおばあちゃんだよ」

「そうだ、あなたたち、ママに会ってきたらいいよ!」と言ったのはおかあさん/カナタさんだった。「ママだっら、先輩のことをどう表現するだろ?」

「そりゃあ、おばあちゃんは大絶賛だよ」とヒカリは目を擦っていった。

「ややこしいけど」と僕はいい、「わかりました、アキラさんに会いに行きます」

「オッケー、いまネットで聞いてみよう」とカナタさんは言い、パソコンに問いかけた。「ママ、ヒカリの先輩がママに会いたいって言ってるよ」

パソコンの向こうの女性は大声で笑いながら、昭和風に「ビアンヴニュ!」と叫んでいた。

それが、僕がアキラさん/おばあちゃんを見た最初だった。おばあちゃんは、パソコンの向こうで自転車に乗っていた、ママチャリではなく。

「知ってるか、ひかるくん、おばあちゃんの場所を?」と聞いたのはお父さんだった。

「いえ、でも、北海道とか沖縄?」と僕は答えた。

「そんなわけないだろう」とお父さんは笑っていた。「実は、ヒカリの近所に一人で住んでいるんだ」

「ええーっ」と驚いたのはヒカリだった。「もしかして、アキラおばあちゃん、京都に?」

「そうだよ」とお父さん。彼はクスクス笑っていた。「しかも、ヒカリの、というか、君たちのほんの近所だよ」

「僕らは、左京区ですけど」と僕は言った。「それも、銀閣寺のすぐそばの、浄土寺というところで」

「そう、その浄土寺の古い一軒家に、おかあさんは住んでいる」と、お父さん。

「ギター弾いて、毎晩RCを歌っているそうよ」と、カナタさんは言った。

「ええーっ!」と僕とヒカリは同時に叫んだ。「近所だよ、ママ」ヒカリは笑っている。

「そう、いっしょに哲学の道を散歩しようか?」カナタさんは、夏のゲレンデの草の上に立ち、ゲレンデのライトを浴びて言った。

 














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