劣化する支援/NPOのすべて


情熱のポリティカルコレクトネス、その弱点

2017-04-07 Yahoo!ニュース個人より


■20 代の編集者時代

あれは僕が 23 才の時、友人の松本くんが「市民目線の医療雑誌をつくろう! 」と燃えて僕も同調し、さいろ社 (当時は別名だったが)という独立系出版社を共につくった。今風に言うと、出版社を「起業」した。

広告を一切載せず読者からの購読料のみで運営したため経営はたいへんだったが、スポンサーを意識せずに好き な特集を組めるため、さいろ社は徐々に評価され始めた。 雑誌の特集では、看護師不足や脳死臓器移植問題を取り上げ、全国紙や NHK にとりあげられもした。それらは 単行本になり、さらに話題を呼んだ(
https://www.amazon.co.jp/%E7%9C%8B%E8%AD%B7%E5%A9%A6%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E8%BE%9E%E3%82%81%E3%82%8B-%E6%94%B9%E8%A8%82%E7%89%88/dp/4916052013
)。

当時、僕は編集者として不登校問題を取材し、記事にしていった。そのなかから「自己決定」を題材に単行本も つくったが(『子どもが決める時代』→残念ながら絶版)、その取材活動がきっかけとなり、20 代後半ころには 僕は編集者から支援者へとシフトしていった。

また、「自己決定」というテーマは僕に長年とりつき、やがては大阪大学の大学院で「臨床哲学」(なんと、鷲田 清一先生が主任教授でした)を徹底的に勉強することになった。

その意味でも、さいろ社での活動、20 代の編集者時代は、僕にとって「原点」なのだ。

■「愛と汚辱」

看護師不足や脳死臓器移植、あるいは延命医療や院内感染、また不登校やひきこもりの問題について、その問題 のなかで苦しむ人々を取材し記事にしていくと、理不尽な社会のあり方についてふつふつと怒りのようなものが 湧いてくる。

これでもかこれでもかと取材し書いていくと、医師や製薬会社や厚生・文部行政等だけが悪者ではないと思えて くるようになり、そうした構成要素を産んでしまうこの社会そのもの、日本そのものに対して怒りというよりは ある種の諦めのようなものも抱き始める。

その怒りや諦めは誰にぶつけていいのかわからない。が、患者や看護師や不登校の子どもや延命医療の当事者や その家族の話を聞くに連れ、「これではいけない」と思う。

その素朴な思いが、たぶん「正義」だ。あるいは、コレクトネス、正当性の根拠だ。

だから我々は(編集長の松本くんのパワーはすごかった)、超貧乏でありながらも、また世の中がバブル経済で 浮かれまくっている雰囲気をかいくぐるようにして、全国を取材し(地方病院の空いている病室に一泊させても らったこともあった)、潜在化するマイノリティの声を聞いて回った。そして、書き、本にした。

自分たちでは十分注意したはずだけれども、結果としてあれらは「情熱的なポリティカルコレクトネス」になっ ていたのだと思う。マイノリティ擁護/代弁のために我々は熱く語り書いたが、不思議なことにその行為は、「何 か」をこぼれ落とす。社会制度の理不尽さを訴える我々の言葉は、同時にそれが正義であればあるほど、人間の 持つ複雑な魂のようなものをすべてカバーできない。

その「何か」は、笑いだったりズルさだったり嘘だったり秘密だったり諧謔だったり皮肉だったり、人間のもつ あらゆる面を含む。

それらはおそらく、「正義」としては表象しきれないもので、アートや文学としてのみ表象す ることができる。ピカソや G.マルケス岡本太郎ジョニ・ミッチェルパティ・スミスボブ・ディランやサ リンジャーの作品がもつ「愛と汚辱」(サリンジャー短編「エズミに捧ぐ」のサブタイトルです)のなかに、その 「何か」は大量に含まれる。

■「銭湯評論家」に

僕はやがて青少年支援者に転身し、さいろ社編集長の松本くんはさいろ社を地道に続けながらもいまや「銭湯評 論家」として有名だ。彼は銭湯本を 2 冊も書き(https://www.amazon.co.jp/レトロ銭湯へようこそ-関西版-松 本 - 康 治 /dp/4864031827/ref=pd_lpo_sbs_14_t_0/356-8241704- 8603620?_encoding=UTF8&psc=1&refRID=BCYXCMAF4PDT92WGP509 レトロ銭湯へようこそ 関西 版)、ラジオ等のメディアにも度々出演して日本の失われた「サードプレイス」の代表格である銭湯文化の素晴らしさを笑いとともに発信し続けている。

最近では、町中の大衆食堂にも注目し、地味~なサイトに延々と全国の「激渋食堂」を紹介している (http://www.sairosha.com/mesi/taishu/index.htm 激渋食堂メモ )。

さいろ社時代、我々はなぜか自分たちの雑誌の中にお笑いコーナーをつくり、本編の特集以上に力を入れて記事 をつくった。それは、「病院ぐるめ(病院食堂食べ歩き)」や「究極のくつろぎタイム(多忙な看護婦/師のため にスペシャルな時間を提供する)」といったコーナーだったが、これがハードな特集に並んで人気があった。

今から思うと、病院食堂食べ歩きや看護師たちと毎月おもしろ体験する(たとえばアニメ好きの看護師と「ドラ ゴンボール」アテレコスタジオを見学し、野沢雅子さんたちと記念撮影したりした)のは、「正義」からこぼれ落 ちる何かをひたすら拾い集めていたのかもしれない。

正当性や正義は、真面目に伝えれば伝えるほど、余計なものを削ぎ落とし、それは科学や統計の名の下に人々の 感情を振り落とす。

正義の言論はだから、時々暴力的になる。

現在の若者たちが思想的には保守的になり、人によっては「ネトウヨ」化しているのは、若者たちがこうした「正 義が生む暴力」の気持ち悪さを無意識的に感じているからだと僕は解釈している。 正義は反論できない狭さとなり、その狭さは若者にとって窮屈で、若者とは、サリンジャーの作品で常に描かれ るように、正義から溢れる「愛と汚辱」のなかで生き、イノセントな部分をいくらか引きずる人々なのだ。

それら、愛と汚辱とイノセントには、正義は狭すぎて荒っぽすぎる。

■スッキリ

サードプレイス探しやぐるめ探索だけにとどまらず、たとえばマツコ等のクィア的お笑いや、Facebook 動画を 用いての DJ 的語り(僕のタイムラインで最近「ワイルドサイドを歩け DJ!」というのを始めた)や、表現以前 のプライベートな感情、たとえば亡きペットへの悼みなどは、すべて「正義以前」「正義の手前にある何ものか」 である。

あげだしたらきりがないこれらに常にこだわり続けることが、正義が暴力になってしまうことを防ぐ手法だと思 う。人々はまだこれらを無意識に展開している。

さいろ社をつくって 30 年、だいぶ時間がかかったが、50 代のテーマにたどり着けて、この頃の僕はスッキリ している。★


「時間をかけた革命」は、ゆっくりと表現の自由を奪う

「時間をかけた革命」は、窮屈なポリコレなども発明し、ゆっくりと表現の自由を奪う。また、表現の自由に付随する、人間ならではの矛盾したあり方(ドストエフスキー的な文学そのものとしての人間)も排除する。

民主党や「女性革命家」たちに見られる、ある種の窮屈さと横暴さ(暴力性)は、この「文学の否定」から来る。

現代日本でも一部のNPO女性たちの運動を中心として、「差別排除の結果としての不自由さ/21世紀的ファシズム」が進行している。


「起源の善意」が腐敗していった〜「劣化する支援」の系譜学

11/25東京・中野の至誠館大学にて、「オカネはNPOを変えるのか〜NPOのイメージの変遷」というテーマで議論しました。


その議論内容は、ここ5年ほど続けてきた「劣化する支援/NPO」の本格的まとめになったので以下に記します。


◾️「共通体験」が「支援の専門性」を凌駕した


まず、NPOという仕組みについて、制度的な初期のポイントは、「2つの共通体験」だと指摘しました。


一つは、「震災(阪神と東日本)」という共通体験。


もう一つは、「究極の就職氷河期」という共通体験。


この二つの共通体験が、支援の「専門性」を凌駕したのでした。


世紀の変わり目頃の、大自然災害と経済災害(あの過酷さは「災害」でした)という二つの「災害」が、専門的支援を凌駕してしまいした。


順番的には、阪神大震災就職氷河期東日本大震災と続きました。


社会現象とそれらは連動し、①阪神大震災後にNPO法ができ、②就職氷河期に同時に「起業ブーム」と「社会貢献ブーム」が起き、③東日本大震災時に②が強化されました。


理論上の専門的支援よりも、あの過酷な共通体験に基づいた「素人性による共感」のほうが説得力を持ったのでした。それと、法律ができたばかりのNPOという仕組みが重なった。


我が国の場合、この2つの共通体験こそが、ソーシャルセクター/NPOの基盤になったのでした。


◾️素人的サービスが善である


それをもとにして、「素人的サービスが善である」という認識が共有されました。その一つがボランティアによる支援です。


ボランティア的な学生主体のサービス(不登校予備軍学生へのかかわりスタッフ等)が受け入れられた背景には、「専門性への疑問」のような雰囲気があり、学生の持つ素人性のようなものが歓迎されされました。


これがNPO法成立直後〜ゼロ年代初期だと思います。


だから、初期の子ども支援系NPOには学生ノリが多く、「起業ブーム」とも重なって、これがむしろ歓迎されました。


若者への就労支援も、多少の専門性は必要なものの、どちらかというと「頼れる大人」要素のほうにニーズがありました。


いずれも、その基盤には、2つの震災と超就職氷河期という決定的な共通体験があったと思います。


◾️発達障害児童虐待の登場


ところが実は、おそらく発達障害が問題化したゼロ年代半ば頃から、そうした共通体験に基づいた素人性はむしろ邪魔になってきてもいました。


楽しい居場所づくりだけでは、発達障害当事者が傷ついてしまうからです。


これに加えて10年代から児童虐待の問題が表面化し、愛着障害PTSD 等の知識なしでは関わりが難しくなってきた。


つまりは、NPO業界にも一定の専門性が必要になってきました。たとえばドーナツトークは7人程度の小規模団体ですが、PSW2名と看護師2名が含まれます。


◾️「公金サービス」には専門性が欠かせない


加えてそこに「公金」が絡むようになりました。


これは先日の住吉区フォーラムでも出た話題ですが、「公金サービス」は、サービス利用者を選別することができない、つまりは「オープンサービス」でなければいけないということを意味します。


あらゆる子どもをまず受け入れる(アウトリーチする)には、子どもの問題について専門的知見が欠かせないんですね。


その専門性があって初めて、オープンサービスは成り立ちます(情報とアセスメントと目標設定を可能とする←これが戦略的ソーシャルワーク)。その支援施設で受け入れ可能かどうかの見極めにも、専門性は必要です。


ところが現在は、①未だに素人性の功罪を分析できず、②アセスメントや目標設定にも慣れておらず、③「公金」がなくなったらさっさと退場する、等の事態が横行している。


◾️「素人性と専門性の交代劇」にNPO側が適応できていない


「お金がNPOを変えた」というよりは、「NPOがお金のレベルについていってない」というのが現実でしょう。


NPOとしては、「今まで散々奉仕してきたのだから、これからはその分を取り返す」的な、怨恨要素で開き直っているのでしょうが、発達障害PTSDのシリアスさと完全に離反しています。


子ども若者支援NPOの「系譜学」は、このような「素人性と専門性の交代劇」にNPO側が適応できていない、という点を含むのでは? と思います。


子ども若者のシリアスな状況が、そもそもの支援のあり方(一定の専門性が必要)を浮かび上がらせてきましたが、初期のボランティア的関わりの印象が未だに強烈で、NPO側が専門化することを阻んでいる。


素人性が当事者の困難さを隠蔽するという逆転現象が起きていると思うんですね。


フーコー的権力の転覆(キリスト教信者の当事者性を、一見弱者ぶった権力者である神父が隠蔽する)が、現代の子ども若者問題にも起こっているのではないか。


「劣化する支援」とはつまり、「事後的」に生じた表現であり、そもそもの起源としてはその素人性は歓迎されたイメージでした。


その歓迎されたイメージも20年経ち、いつのまにか隠蔽装置として機能しています。素人性は現在、発達障害PTSD等の当事者の苦しみを「隠蔽する力」になってしまいました。


以上はいわば、「起源の善意」が腐敗していったと言い換えてもいいでしょう(^o^)


↓当日動画はここ(facebook)から。


ソーシャルワークできない居場所カフェが多い?

SSWはソーシャルワークして当たり前ですが、現在もしかすると、校内居場所カフェでソーシャルワークできているカフェは、ものすごく少ないのかもしれません。


もちろん、府立西成高校のとなりカフェは、地道すぎるソーシャルワークを日々実践しています。


けれども僕が今危惧するのは、


全国の校内居場所カフェで、「ソーシャルワーク」ができている居場所カフェがどれだけあるのだろうか、との問いなのです。


 *


風の噂では現在、飲み物を提供したりイベントを行なったりという、居場所カフェの派手な機能のみで済まされているカフェが多いようです。


だから、理解ある先生方がいらっしゃる場合は何とか乗り切れるでしょうが、カフェを知ったばかりの先生方にとっては、相変わらず


サボる場所


として居場所カフェが誤解される危険があるということです。


 *


それだけにとどまらず、


虐待のアウトリーチ
発達障害愛着障害の可能性への気づき、
孤独や恋愛や金銭トラブルの発見、


を行ない、


それらを支援者(含学校)が共有し、


そして、
ソーシャルワーク(アセスメント→目標設定→アクションプラン→確認と修正)

へと展開していくことが必要なのです。


 *


これらを行なっている法人がどれだけあるのでしょう?


あらためてその点を言語化する必要があると僕は思います。


こうした不断の言語化と意味化作業を続けていかないと、居場所カフェはすぐにサボり場として誤解されるでしょう。


それはまた、子ども家庭庁等の行政の有効なコンテンツに組み込まれると同時に生じる誤解でもあります。


「予算化」は、NPO自身の研鑽を停止させるんですね。


つまり予算(カネと汎用化させすぎたシステム)は、NPOからキレを奪い、停滞した組織へと堕落させていきます。


居場所カフェが「使えるコンテンツ」として認識し始めたいまこそ、本格的ソーシャルワークを導入する必要があると僕は思います✌️


サバルタンや生命を「ゴースト」化して排除する〜「劣化する支援」の哲学的背景

これはドーナツトーク主催ですので、無料イベントです。ドーナツはイベント=広報と捉えていまして、懐かしやフリー戦略というよりは、まあお金をいただくのがめんどくさいんですね♪


ポリコレをきちんと批判することはもはや僕のライフワークですが、多くの人たち(特にNPO系)にはピンとこないテーマというのも魅力的です。つまりこれは、平安時代の怨霊のように「すでに我々に棲みついた価値」というわけです。


けれども、ポリコレ(正義)や人権といった慣れ親しんだ近代的価値が紋切りとなりやがては「利権化」していくなかで、いくつかのことが潜在化していきます。


それが①サバルタンであり、②「水底にある人権」的な「生命そのものの普遍性」といった概念や価値です。


ポリコレ的アクションと言説は、そもそも我々がそこに突き動かされる出来事(サバルタンや生命)を覆い隠し、それらを紋切り用語に縮約し出来事の生々しさを隠蔽します。


あるいはそれら(サバルタンや生命)を排除する。


けれどもゴーストは、源氏物語六条御息所のようにいつもそこにいます。あるいは無意識に抑圧された出来事は「不気味なもの」(フロイト)として突然現れたりするんですね。


またデリダであれば、それらの同一化できないが遅れて現れる諸現象について、痕跡traceあるいは差延différanceとして記述されます。ラカンであれば、オブジェaですね。


まあゴーストにも味があるんですが、人々を呪う力をまだもっていない当事者は、結局潜在化したままがほとんど。この5/10イベント第1部には以上のような理論的背景があります♪




主体効果subject-effectsの悪魔性

「主体効果subject-effects 」という人間の普遍的傾向が、ポリティカルコレクトネスというタテマエを呼び、サバルタンの潜在化という普遍的悲劇を起こすのでは、という明確な問いを僕は抱いています。


我々は油断するとsubject-effects に囚われてしまい、「水底」(ポリコレ的表層の奥)に潜むサバルタンの声を忘れてしまう。それを聴くことができるのは、パレーシアという率直さと素直さかなあという答えが、今のところの僕の到達点です。


スピヴァクが批判するフーコーが、subject-effectsに囚われつつ最晩年にパレーシアに辿り着いたことも皮肉ですね。


 ※


スピヴァクは『サバルタンは語ることができるかCan the Subaltern Speak?』執筆後、大著『ポストコロニアル理性批判』を上梓し、同書3章「歴史」に「サバルタン〜」をブラッシュアップして掲載しました。


僕が探した範囲では、元々の『サバルタン〜』原書を見つけることができず、スピヴァク自身の英文で「サバルタン」を読もうとすると、『ポストコロニアル〜』中「歴史」を参照するしかありません。


僕は英文は結局スラスラ読めないままでしょうが、哲学論文理解で重要なのは一語一語の訳とその説明だと思います。案外、翻訳家がその人の好みで専門用語を訳している場合があり、具体例は忘れましたが20年前の修士論文執筆時にはそれで僕はずいぶん手間取りました(修論執筆時にこれら原書はゲット😀)。


スピヴァクの有名なルプレザンタシオン représentation(表象/代表・代弁)の訳の解釈はまず押さえることは必要でしょう。


その上で、『サバルタン』読解上欠かせないのが、サバルタンの隠蔽化の行程で見られる、「代表者(ex.ルイボナパルト)の出現とサバルタンの潜在化」というメカニズムを暴くことの重要性です。


そしてそのメカニズムを支える重要な概念として、「主体subject 」があり、主体効果subject-effects があるのでは? とスピヴァクは仄めかせています。


subject はわかりやすい代表者が好きなので、そこに幽霊のように取り憑き、同時に真の当事者/サバルタンを潜在化させるんですね。


だからあらためて、僕は『サバルタンは語ることができるか』1章を読み直そうと思い、その原書が手に入らないのであれば、そのブラッシュアップ版「歴史」をチェックしてみようと思った次第です。


 ※


主体効果subject-effectsとは、どれだけドゥルーズらが無意識的なものの効果(たとえば「器官なき身体」等でそれを表現)を述べたとしても、そこにはsubject的なものがくっついてしまうことを表します。


言い換えると、完全な自由や乱雑さはあり得ず、主体的コントロールに人や社会は常に毒されている。


それをスピヴァクはおそらくsubject-effectsと言っていて、このことが、逆に「潜在的他者」であるサバルタンを生み出してしまう。


この強力な主体効果こそが、我々にサバルタン(真の当事者)の存在を忘れさせるんですね。


そして同時に、


「エリートサバルタン」(p43)


が強力に注目されます。強い主体効果がサバルタンを隠し、エリートサバルタンのみを浮かび上がらせる。


このエリートサバルタンこそが、僕が20年来挙げてきた「元当事者」であり「経験者」という訳です。


そして、このエリートサバルタンにのみ焦点化して議論しても、強い主体効果(サバルタンが隠されている)のため、多くの人は気にならない。


これが「劣化する支援」につながっていきます。目立つエリートサバルタンしか、あるいは語ることのできる元当事者しか、多くの支援者やメディアは目に入らないんですね。


これらは、人間の思考形態の必然的結果かもしれません。


サバルタンは語ることができない


という現象は、そうした人間の宿命的思考形態がもたらすもの、とも言えます。


 *


同書の末尾で、ハイティーンで自死した女性のエピソードが取り上げられ、彼女の親戚たちは恋愛経験のもつれとしてその死を意味づけます。


女性は社会活動家で、インドの独立運動に関わっていた節があるのですが、「恋愛」という、若い女性にまとわりつく「恋愛主体」の一現象としてその死は捉えられるんですね。


そう捉えられないために、女性はわざわざ生理になるのを待って死んだにも関わらず。


けれども主体効果の力は大きく、生理までわざわざ待って縊死したその思いさえも潜在化させてしまった。


僕は、そうしたサバルタンの思いというかある種の無念さをつくりだす構造を顕在化させたいと思います。


その無念さを産み出すのは、人間社会の悪魔性なんですよね。












劣化する支援から遠く離れて〜危険、批判、自由と義務、責任、遠い権力

先日行なった最新版「劣化する支援」では、紋切り的ポリティカルコレクトネスを超えるものとして、①厳密な専門性と②フーコー的「パレーシア(率直さ)」がポイントでは、と提起しました。


そこでようやくフーコーの『真理とディスクール』(筑摩書房)をきちんと読み始めたのですが、どうやらフーコー(と古代ギリシャ哲学)が提示するパレーシアには、発話者パレーシアステースの「道徳性/勇気」が大きく関係するっぽいです。


デカルトにとっては、疑問の余地のない明晰で判明な明証性がみいだされるまでは、デカルト本人にも自分で考えていることがほんとうに真理なのかどうかは、確実ではなかったのです。

しかしギリシアのパレーシアの概念では、真理の獲得は問題になっていないようです。語る主体がある道徳的な特質をそなえていれば、真理を所有していることが保証されたからです。だれかが特定の道徳的な特質をそなえていれば、それはその人が真理に到達できるという証拠ですし、その人が真理に到達できるのであれば、こうした道徳的な特質をそなえていることが証明されるのです。

この「パレーシアのゲーム」では、パレーシアステースとは、まず真理を知るために、そしてこうした真理を他者に伝達するために必要な道徳的な特質をそなえていることが前提なのです。

パレーシアステースの真摯さを「証明する」ものは、その勇気です】

(『真理とディスクール』p14 )


 ※


パレーシアのまとめは、以下に1章の最終部分を引用します。フーコーと訳者には申し訳ないんですが、下の引用は、スマホタブレットでも読みやすいよう改行してみました。


【パレーシアは発言者が率直に語ることで、真理とある特有の関係を結ぶ言語活動です。

危険を冒すことで、自分の生命とある特有の関係を結び、

批判することで、自分や他者とある特有の関係を結び(自己批判か、他者の批判かを問いません)、

自由と義務を通じて、道徳的な法則とある特有の関係を結ぶ言語活動です。

正確に表現するとパレーシアとは、発言者が真理との個人的な関係を表明し、他者や自分を改善し、援助するために真理を語る義務があると考えて真理を語ることで、自分の生命を危険にさらす言語活動です】

(『真理とディスクール』p 22 )


これを読むと、古代ギリシャのパレーシアは、現代のポリティカルコレクトネスとは正反対なことがわかります。現代のポリコレは、


①安全な場所から、
②自分の率直さについては問わずタテマエを重視し、
③自分も他者も批判せず紋切り的になり、
④自由と義務とは遠くその倫理性も表面的であり、
⑤その活動は、自らの立場を決して危険にさらさない権力的ポジションから行なう


ものであると言えます。


対してパレーシアは、

ⅰ.危険な場所から、

ⅱ.自己や他者を批判し、

ⅲ.自由と義務を尊重し、

ⅳ.責任を請け負います(倫理的になる)。

ⅴ.それは同時に「権力」から遠い行ないです。


このようなⅰ〜ⅴを常に意識して支援し対話し発信すると、それが「ポリティカルコレクトネスから遠く離れて」生きることになります。


そこに最新の専門性をできるだけ導入できれば、「劣化する支援」や「劣化するNPO」にはならずに済む、というわけです。


引き続き、パレーシアを研究していきますね✌️



自分の思うところを恐れずに発言すること〜スピヴァクの率直さ

4分過ぎに「研究者にとって必要なものとは何か?」と問われたスピヴァクは、the truth honestyと即答する(そう聞こえる)。これが「誠実さ」と訳されるが、これはどちらかというと「パレーシア的率直さ」のニュアンスに近いような気もする。


続けて語る、「『主体性を重視しない哲学』(ポストモダン哲学ですね)に影響を受けた私」が、誠実さ/率直さを語ることは実は困難であること。けれども、ここでいう誠実さは「資質」のことであり、「自分の思うところを恐れずに発言すること」であるという。


これこそまさに、フーコーのいうパレーシア。スピヴァクフーコーがこんな動画で重なってビックリしましたが、年をとるとみんなここ(誠実さや率直さ)に向かうのかな。


いずれにしても、陳腐な表現ではあるが、「魂のすべて」でサバルタンと関わっていくことをスピヴァクは求めているんでしょうね😀


ガヤトリ・C・スピヴァク(第28回京都賞受賞者)からのメッセージ - YouTube


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