その点と点を線でつなぎなさい


 ※※※

アキラは自転車を押した。家には帰りたくなかった。姉にも母にも父にも会いたくなかった。だが、ほかに話す人もいなかった。

ためしに自転車を停めて、そのへんを走ってみた。冬の空気はアキラの鼻を痛くした。やはり、死にたくはなかった。

カバンからマスクを取り出して鼻に当ててみた。アキラの好きな夕日が、そこらじゅうを覆っていた。涙のようなものを自分は浮かべているのかもしれない。

やはり、あの人に飛び込んでいくことはできない。妻から逃げるために私を頼ってきているのはよくわかっていた。だが私も、前の男から離れるためにあの人の世話を焼いていた。

あの人は離婚したいようだった。その行き詰まり感を晴らすためだろうか、私に難しい話をした。その内容はだいたいわかったが、興味を抱けなかった。だが私は、前の男から離れるために、あの人の話を聞いた。いつも最後のほうであの人は泣き始めた。

私は孤独だったが、その孤独が嘘であると自覚していた。私は卑怯だった。あの人に身体を開いたものの、なぜか没入できなかった。その理由は、私もあの人もそれほど追い求めなかった。

すぐに暗くなり、アキラは自転車を押し始めた。鼻の下のほうに汗をかきはじめた。もう少ししたら、川の土手に着く。

土手についたらアキラは自転車を土手に預け、階段を上がり、また下って川面が見えるところまで走った。黒い川面の表面がキラキラと反射し、アキラはその反射に吸い込まれた。彼女の心臓の下辺りにその反射は突き刺さった気がして、コートの両ポケットに入れた拳に力をこめた。

点は、どこにでも浮かびぶつかり合う。私は点でしかない。子どもの頃からずっと。

「私は点なのだ」

とアキラは小さくつぶやいた。コートの両拳に力をこめ、もう一度つぶやいた。私は点なのだと。

 ※※※

彼女は7才頃から、自分が点であることを意識し始めた。特に、割り算を習ったあと、小数点の小さな黒いポイントに魅せられた。

黒い点は自分の瞳のようであり母の目のようであった。母はよく笑ったが私はその笑いに苦しめられた。姉は厳しく、けれども私は彼女の厳しさに必死につきあった。アキラは、母も姉も嫌いではなかった。けれどもふたりとも自分と同じような点ではなかった。ふたりは点だったけれども色が自分のように黒くないように見えた。

彼女は夜になった河原を走っていった。途中からマスクを外しイヤホンをして、内部で響く音に自分のこころを重ね合わせてみた。自分の内部では黒くて低い音が低いところを制しているように感じた。そこに自分の足音の衝撃が重なっていき、ふだんはなかなか感じることのないリズムが続いた。彼女はそのままあの人が立つ場所へ走っていった。

その男は今日もたくさん語っていた。その話し方をアキラは気に入っていた。彼女は、一生懸命その話を聞いた。内容はだいたいわかった。彼女なりの質問もした。それに丁寧に男は答えてくれた。

「僕は」

云々。いつものひとり語りが続いたが、その雰囲気が彼女は好きだった。その雰囲気に浸ると、彼女の点の黒色が少しずつにじみ始め、点が広がっていくように感じることができた。僕は、云々の内容はわかるものの興味を抱けなかった。が、なぜか、自分の点が滲んで自分の紙の上で黒が広がっていくような感じがした。

 ※※※

あの広がりは何だったんだろう。

30才になった今のアキラは、ほとんどその頃のことは忘れてしまったが、時々あの河原で抱擁しあったあの男との時間のことを思い出すことがあった。

点と点がにじみ合いながら、多少の色は落としつつ、互いの色が混じり合う面がある。あの感じは、今まで生きてきてそれほど得たことのないものだった。

アキラはあの夜、河原を男と出て、自転車を押して男の部屋に行った。彼女はなぜその部屋に行ったのか自分でもわからなかった。そして、部屋に入ったあと、すぐにマスクをした。

マスクをすると相変わらず鼻の先が熱くなった。自転車は部屋の外にある。彼女は自転車に乗って一晩中走り回りたかった。その、はあはあ言いながら、夜に自転車で疾走する感じが好きだった。もう、そんな瞬間にしか生きている感じを抱けなくなった。どうしてだろう。

そんな瞬間は、いろいろなストーリーから自由になることができた。自転車は私を救ってくれた。10才の頃はそんなこと思いもしなかったが、20才を超えると、自転車だけが私と本当につきあってくれた。川面の黒いきらめき、そこで巻き起こる風、たいして経験もないくせに思い出すさまざまな出来事。自然に浮かぶ涙を、自転車という物体はすべて見ていたような気がする。

 ※※※

点と点はやがて離れ、アキラも大学に戻った。昨夜のことではあるが、自転車も男も、すべて懐かしかった。

30才になったその後のアキラも、自分の子どもを抱っこしながら、10年前のことを思い出していた。

点と点は線になれない。どれだけ一生懸命に自転車をこいでも。

どれだけ一生懸命に男の話を聞いても。どれだけ懸命に、自分の宇宙から出ようとしても。

わりと、アキラはがんばった。20代前半の5年間はずっとがんばった。自分以外の点を見つけようとして。

時々点は見つかったが、そこに期待を抱いた瞬間、宇宙は壊れた。点はなかなか滲まなかった。

だいたい、これまでの人生は漆黒だった。その漆黒の紙の上を、黒い点であるアキラは動いた。動く時には定規は不要で、フリーハンドでその点はその黒を延長させようとした。だが、目指す次の点とくっつき続けることはなかった。

アキラはやっぱり自分は孤独だと思う。孤独のまま死んでいくのだが、やっぱり自分は点であると思う。点の集積は面になるのだろうか。

あるいは、点には関係なくあらかじめある面の表面に穴が空き、面そのものの矛盾を突破することができるのだろうか。その黒い穴に自分はなることができるのだろうか。

「はは、なれるわけない」

的な、アニメ主人公っぽいつぶやきをアキラはもらす。そして、自分の腕の中に、自分が産んだ子がいる。この子は点だ。点だけれども、あらかじめ自分とつながる線でもある。

その線を、どうして私はずっとずっと見つけられないでいるのだろう。



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