水滴のすべて chapter four


18.もしあなたが雨ならば


死んだあと幽霊になったひかるの父は、そういえば生きていた頃、自分の名前は水星(みずほし)だったことを思い出した。

水星の意識は今は月の裏全体に広がり、そこからなぜか感じてしまう地球の妻と息子の息遣いに身を委ねていた。

そのふたりの息遣いは、時として絶望になることがあった。長く看護していた患者が死んだ時、妻の感情は黒くなり、息も重くなった。そんな時妻は、死んだ自分(水星)を思い出しているようだった。

息子のひかるも、時々、絶望に落ちることがあった。ひかるは思春期の男の子らしく、絶望に浸りながらも、それでも生きる力を持っていた。そのナルシシズムは、どうやら自分(水星)を呼んでいるようだった。

けれども、ふたりの要望に直接水星は応えることができなかった。

もどかしかったが、そんな時、水星は雨になって地球に侵入することにしていた。

妻の光瑠と息子のひかるが自分を呼ぶ時、直接触れることはできないものの、雨粒となってふたりを柔らかく包みこもうと、幽霊であり月面の裏の重力そのものである水星はそう心に誓っていた。

 **

その少し後、フジロックフェスティバルの泥まみれの道を歩くひかるを月の裏から水星はずっと見ていた。

泥の道の周りには、夜になると小さな無数の電飾が灯った。その光景は、月の裏からでも鮮やかに感じることができた。

が、ひかるはその道を歩きながら泣いていた。その涙は、やがて妻となるヒカリに今会えない寂しさから流れるものでもなく、死んだ父である水星に会えない寂しさから流れるものでもなかった。

その夜のひかるにとって、フジロックフェスティバルに降り注ぐ雨が重かった。その雨でぬかるむ足元も不安定で、彼を困らせた。一歩一歩に非常に力を必要とした。時に転びそうになった。

そうして懸命に歩くうちに、自分でもびっくりしたのだが、頬に涙が流れていた。父の死を彼なりに受け止め、またその父はなぜかいつも側にいてくれるような気がした。ヒカリは生きていたが、彼の心の中にいつも父はいた。

なんら悲しいこともなかったものの、彼は泣いていた。それを見て月の裏全体に薄い幽霊となって漂う水星はどうしようか迷った。

いつものように雨になって、息子を励まそうか。それとも今の彼は悲しくて泣いているわけではないのでそのままにしておこうか。

水星が悩んでいるうちに、フジロックフェスティバルの別のステージにひかるはたどり着いていた。そこでは水星の知らない若い女の音楽家がピアノを弾いていた。

その曲はバッハのメヌエットだった。正確にはぺツォルトの曲だったが、月の裏の水星にとってはどちらでもよかった。

その次にピアニストが弾いたのは、「ゴルトベルク変奏曲」の頭の5曲だった。そのゴルトベルク変奏曲は、これまで水星が聴いた同曲の中ではいちばん遅かった。

その遅さが、月の裏全体に広がる幽霊としての水星には居心地がよかった。

幽霊は、パンクロックやデスメタルやグールドの速いバッハにはついていけない。できるだけゆっくり奏でてくれる曲だけ、幽霊の水星には聴き分けることができた。

そのスローなバッハは、フジロックフェスティバルの小さなステージ前で聴くひかるにも衝撃を与えたようだった。

ゴルトベルクの後はバッハのインベンションをその女性音楽家は弾いた。そのインベンションもすごく遅いインベンションだった。

ひかるの頬にはまた涙が流れていた。今度は、雨のぬかるみに痛めつけられて流れた涙ではなく、遅い遅いバッハの旋律により溢れ出た涙だった。ひかるの涙は止まることがなかった。

その光景を見て、月の裏全体に漂う幽霊の水星も泣いていた。いつもであれば、泣く息子を励ますために、自分は細かい雨となって息子を静かに包み込んだ。

だがそのフジロックフェスティバルのバッハを聴いた父と子は、父は幽霊ではあるものの、息子を慰めたり何か悲しい出来事で泣いたりする事態ではなかった。

ただ、そのスローなバッハがふたり(1人は月面にいる幽霊だが)を慰めた。また励ました。

「まるで」と月面の幽霊の水星は言った。「まるで俺の仕事を奪っていってくれたな、このバッハは」

「パパ、今晩くらい休んでいいんだよ」月の裏に広がる父の気配を感じたのだろうか、ひかるは上を向いて言った。「バッハが僕らにはいるよ」

「ナマで聴きたかったなあ」月面の幽霊の父は言った。「ここからじゃあ、今ひとつ打鍵感が伝わってこないんだなあ」

「パパ、死んでるのに贅沢すぎるよ!」ひかるはそう言って、目の前で奏でられるスローなバッハに再び身を委ねた。曲は最後の曲、再びの「メヌエット」がまた奏でられていた。それは葬送行進曲のように遅かった。

 **

その頃アキラは京都の家で、もう何十年も前に西表島に行った新婚旅行のことを思い出していた。ジャングルがほとんどで、あとはコンクリートの家とアスファルトの道、というのがアキラのその島の印象だった。

少し前に病気で死んでしまった夫が運転していたその新婚旅行の西表で、彼女らはイリオモテヤマネコを見たのだった。

それは死んだ夫の目撃談で、アキラは今も信じてはいなかった。夫はけれども執拗に、あれはイリオモテヤマネコに違いない、と繰り返した。

それは京都に帰ってきてからも同じで、カナタが自立し結婚し出産し、そして夫自身が病で倒れるまで、時々つぶやいた。

「あれはあのネコに違いないよ」

そんな夫の囁きを、最近アキラはよく聞くようになった。それは幻聴なんだろう。ドライなアキラは笑ってつぶやいた。わたしにもそろそろお迎えがきたかな。

死んだ夫は、ひかるの父の水星のような人格をもったものとして残存することはなかった。その夫の「力」は、時々思い出したようにアキラをやさしく包み込んだ。

その包みこみ方も、やはり雨だった。

だからアキラは、時々傘をささずに雨が降る道を歩いた。その雨をもちろん夫だとは思いもしなかったが、そうして小雨に打たれて歩いている時に限って彼女は亡き夫を名前で呼べた。

「明星(みょうじょう)、やっとあのネコをわたしはイリオモテヤマネコだったと思えるようになったよ」

すると、小雨が10秒だけ小さなヒョウに変化した。

「痛い、痛い」アキラは笑って頭に手をやった。「許してよ」

もちろんヒョウは小雨にすぐに戻った。おそらく、明星に意思は残っていないものの、アキラをいつも包み込もうという欲望は残っているようだった。

「もしあなたが」と、小雨で濡れた髪をつまんでアキラは言った。「もしあなたが、雨ではなくあなたであれば」

彼女はそう言って上を向き、静かに泣いた。「まあ、わたしはまた、死ぬまでにもう一度イリオモテに行くよ」

おそらく、明星の意思は空気に溶け込み、小雨だけにその時はなっていた。小雨そのものは応答できず、静かに降り注ぎ、泣くアキラの頬の上に、自らを重ね合わせた。

「ありがとう、明星」とアキラは言い、髪をつまんでいた指を離して自分の頬を撫でた。


19.ヤマネコの光


ヒカリは、自分の祖父の明星がなんとなく雨に変化したようだとは思っていた。哲学とSFが好きな祖父は、アキラの前では静かで、いつも笑っていた。

カナタが小さなヒカリを連れて、アキラと明星の家に遊びに来た時、時々ヒカリは祖父とふたりで話すことがあった。

「ヒカリ、この家には時々ヤマネコが出るんだよ」明星はヒカリに古いロックを聞かせようと思い、「悪魔を憐れむ歌」をレコードプレーヤーの上に乗せた。「これはローリング・ストーンズ」

「ヤマネコって幽霊?」その時ヒカリは7才だったのでそれ相応の推察はできた。「わたしには見えるかしら」

「ヒカリは、もう小学生だろ?」ストーンズのパーカッションが聴こえてくると、祖父は目を瞑って言った。「それじゃあもうヤマネコは見えないかなあ」

「うん、無理だと思う」ヒカリはトイレの落書がジャケットの、そのレコードを手に取り言った。「意外と静かに始まるんだね」

「まあ聴いていってごらんよ」明星は薄目を開けてヒカリを見た。「そんなにうるさくはないけど、これがロックだから」

「かっこよくはないなあ」ヒカリは悪魔を憐れむ歌をそれでもじっくり聴きながら言った。「踊れないよ」

「踊れると僕は思うなあ」と祖父の明星は言い、立って軽く踊り始めた。「ほら」

「おじいちゃんのほうがカッコいいよ」ヒカリは踊る祖父を見上げて言った。「わたしはこのうたはダメだ」

「そうかあ? ダメか」明星は少し残念がり、レコードを止めようとした。けれども、ヒカリがそれを止めた。

「最後まで聴きたいよ、おじいちゃん」

その声には張りがあり、明星の気分を明るくさせた。自分も10年以内には癌か何かで死ぬだろう。けど、この子は生きていく。ミックの声とキースの下手なギターソロはこの子の記憶には残らないだろうけど、僕とこうしてレコードを一緒に聴いたことは覚えているかな。

そんなふうに明星が考えている時、ヒカリがつぶやいた。

「おじいちゃん、ヤマネコが空気の間から出てくるような気がするよ」

現実にはヤマネコがアキラと明星の家に現れるはずはないのだが、ヒカリはそう感じ、祖父の明星は孫が言ったことをそのまま信じた。

「どこからヤマネコは出てくるかなあ」明星は孫に言った。「まさか、僕らの目の前のこの空間からか?」

「そのとおり!」ヒカリは笑って応え、祖父を見た。「というか、さっきからわたしたちをずっと見ていたんだよ、ヤマネコは」

「ヤマネコって誰なんだろ」明星は孫の手をとって言った。「良い幽霊なのかな」

「幽霊?」ヒカリは目の前の空間を凝視していた。「幽霊なのかなあ、ヤマネコって」

「僕はずっとそう思っていたよ」明星も目の前の空間を見ていた。「だって、幽霊くらいしか想像つかないよ、おじいちゃんには」

「あ、出てきたかな、ヤマネコ!」ヒカリは祖父の手をぎゅっと握った。まだ7才のヒカリは、やっぱり怖かった。

「出てくるか? ヤマネコ」孫の手を握り返しながら、明星は目の前を凝視した。

だがヤマネコはヤマネコのかたちをとって出てこず、その日はまずは部屋の蛍光灯を点滅させた。

「これって」明星はつぶやいた。

「なに?」ヒカリが聞き返すと、すぐにその点滅は収まり、部屋が暗くなった。と同時に、外から夕立の音が聞こえてきた。

すぐに外はどしゃぶりになり、予想どおり雷の音がし始めた。

ヒカリは雷が怖くない子どもだった。明星は雷が好きだった。

「おじいちゃん、ヤマネコって恥ずかしがり屋なんだね」ヒカリは祖父を見て言った。「今日は雷に変身したんだね」

「そうだなあ、おじいちゃんには残念だよ」明星もヒカリを見て言った。「そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに」

外は激しい雨が続き、雷鳴がなり響いた。それはヤマネコからの必死の言い訳のようにもふたりには聞こえた。

 **

雨か、ヤマネコか、幽霊か、いろいろなかたちをとってそれは現れるようだ。そのことを、そろそろ全員が意識し始めた。

そして、それは、それを意識する全員が正体でもあった。

ある日、大学生の頃のカナタは、目の前のテーブルに肘をかけて座る母のアキラの絵を描きながら、家の外のどしゃぶりの雨に耳を澄ませつつ考えた。

先輩にふられて傷つくわたしを、このどしゃぶりの雨が癒やしてくれているのかしら。

別の時間と空間で、驟雨の若狭湾を見ながら光瑠は、雨になっているかもしれない亡き夫の水星に対してつぶやいていた。

「あなたはいいわよね、雨になったんだから」

そう聞いて、雨になった夫の水星は悲しい気持ちになった。だがその気持を雷鳴として表すこともなく、水星の気配が支配する月の裏全体で受け止めた。

幽霊は雨になって人を癒やす、人間の一言で傷ついてしまうこともある。

そして幽霊は、雨になり、ヤマネコに変化していった。

西表島の国道で休んでいたそのヤマネコは、自分を照らす車のライトを見つめた。そこには、新婚旅行を楽しむアキラと明星がいた。

「絶対イリオモテヤマネコだ」とその時は生者だった明星が言った。

「まさか」70才を越えまだ生者のアキラはその時つぶやいた。

その夫婦のやりとりを、国道上のヤマネコは聞いていた。ヤマネコ自体は意志を持たないのだが、不思議とその時ヤマネコは言葉を凝縮して集め、

「君たちを一生祝福しよう」

とつぶやいたのであった。それは、他者たちが集合となってつぶやく、稀有な一瞬だった。

20.雨


*カナタ

わたしにとっての大雨って、なんだろ、これまでわたしは驟雨専門だったかな、けれども、先輩とヴァンダと行ったルーブルを出た時、結構強めの雨が降ってた、わたしはルーブルで見た絵はだいたい退屈だったよ、きっと先輩も退屈だったはずだけど、先輩はカッコつけるから退屈って言わないんだよなあ。ヴァンダがカラヴァッジオのマリアの死の絵を見て泣いていた。

その時わたしはヴァンダに先輩を譲ってもいいかなって思えたんだ、夜、先輩が寝た後、ヴァンダとトランプの神経衰弱をして、より一層仲良くなった後、わたしはヴァンダに言ったよ、

先輩をあなたにあげる

って。

するとヴァンダはクスクス笑って、

ノー、カレハイッショウアナタカラハナレナイ

と言ったんだ。

離れないのはわたしのほうだったよ、ヴァンダ。夜のパリは、雨に包まれているようだった。

*ひかる

僕には一生、死んだパパが寄り添っていてくれるように思う。パパはどこにいるんだろ? はっきりとはわからないけど彼はいつも僕とママを見守っていて、僕らに悲しいことがあると、パパはいつも雨を降らせてくれるように感じるんだ。

それはこのフジロックに来たあとも感じている。ビヨークのステージが終わって僕がとぼとぼと自分のテントへと歩いているとき、パパはまた雨を降らせてくれた。僕はビヨークの声を聴きながらずっとヒカリのことを思い出しており、なんとなく泣いていたんだ。寂しいっていうわけではないんだけど、この日は僕は一人が苦手だった。

その時、驟雨が降ってきた。

その細い雨は僕の全身を包み、僕を世界から守ってくれるレインコートのような役割を果たした。

パパの声は聞こえなかったけれど、確実にその驟雨はパパからの贈り物だって感じたんだ。

*ヒカリ

瀬戸内海のあの島で急に雨が降ってきた時わたしはびっくりしたけれども、ひかるは動じることなくわたしを抱いた。わたしはあの行為がずっと怖かったけれども、早くそこを通過しておきたかった。その相手にはひかるはぴったりだった。

所有でもなく欲望でもなく自我の崩壊でもなく、事前にわたしが予想していたものよりも遥かに呆気なくそれは始まり終わった。こんなの、やっぱり35才にならなくちゃわからないよ。19才であんなことやってもほぼ意味ないけど神様って不思議、若いうちじゃなくちゃ安産はできないらしい。そんなのどうでもいい。

わたしは先輩と一緒になることができて本当によかった。人生に必要なものはやっぱり運だと思う。悪いけどわたしには運があるんだ。

ヒカリのそんな思いの言葉を、瀬戸内海の島に降る雨がリズミカルに受け止め、曲にしていった。

「イェー!」と、隣で横になる先輩の裸の胸を6/8拍子でたたきながら、ヒカリは笑った。雨は器用にもそのヒカリのビートにも合わせた。

*水星

俺に子どもができて本当によかった。俺はそれまではずっと過去に生きていた。仕事は充実していたけれども、油断すると過去が現れた。けど、どうしたことか君/光瑠がひかるを産んでくれたなな。ありがとう。

光瑠、俺は君より先に死んでしまった。癌を甘くみていたな。1回めのが簡単に治ったから余裕だったんだよ。膵臓は怖いな。

けど、俺は結局永遠だった。まあでも、こんな俺の存在は君がつくっているものなのかもしれず、ひかるの願望なのかもしれん。そんなことはどうでもいいんだ。君とひかるが俺を覚えていてくれて、俺を月の裏側の幽霊として存在させていてくれる。こんな幽霊というか、魂、実はそんなに多くはなく、魂仲間から俺は羨ましがられている。マジックだよ。

けど、いくら俺でも、こうして自我というか幽霊的自我を保つのは難しい。いま降ってきたこの優しい雨に俺は俺の幽霊的自我を消失させてしまい、光瑠、君を単に癒すだけの水滴になってしまったよ。今日のところはさようなら。

*雨

雨は無数の粒なので、ここでは僕たちという主語を使おう。

僕たちはいつも気のきく降り方をするんだな。あの子らが泣く寸前、あるいは泣いている途中で雨として降った。

僕たちはその時、あの子らを慰めたかったんだ。小雨あたりの雨量でね。

それは成功しただろうか。たぶん、しただろうな。僕たちは無数の雨粒なので、いつも意識が散漫になるけど、彼女や彼らに新しい光と熱が宿るくらいは確認できるんだ。

そんな時、僕たちは雨でよかったと思うよ。

君も、雨になってみないかい?

(了)













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