東日本大震災について vol.3

このテキストは、私の子供たちが将来読んでくれることを願って書いたものです。第1話、第2話は本文の一番最後に置きますので、もしご興味がある方はこちらをご覧くだい。

震災当時、まだ幼かった長男。生まれていなかった次男、長女。子供たちが将来大きくなった時に読んでもらえれば嬉しいです。

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1.被災状況

地震発生から数日が過ぎると、私が勤めていたお店の状況が明らかになってきました。

・宮城県、石巻市の店舗
沿岸近くにある店舗が津波による被害を受けた状態。倒壊した店舗も多数。こちらの被害は甚大で、従業員の中には亡くなられた方もおりました。
・宮城県、名取市・岩沼市・多賀城市の店舗
こちらも津波による被害が発生。海からだいぶ離れている岩沼の店舗にまで津波が来るというのは、本当に信じられなかった。
多賀城市では海の近くにカップラーメンを作る工場があるのですが、それが津波で散乱し拾う人も。ビール工場もあるため、同様なことが起きていたそうです。
・福島県、相馬・いわき市の店舗
こちらは津波に加え、原発事故の影響で避難指示が出されました。
なお、数ヶ月後に関係者のみで店舗に行きましたが、金庫はチェーンソーのようなもので破壊されるか、丸ごと持ち去られていました。
栃木の店舗は一部倒壊。茨城の店舗も倒壊や沿岸沿いは一部浸水。

このように被害状況が徐々に分かりつつも、当面は地域のお客様のライフラインを守るために、可能な限り営業をすることが、地元スーパーの役割でした。

2.赤いビニール旗

自衛隊による復旧活動が続く中、残念ながら亡くなられた方が多数いました。私が沿岸沿いの津波被害にあった店舗に行った際、現実を見せつけられます。

津波は全てを飲み込み、何も無くなってしまった土地には、赤い小さな旗がためいていました。旗と言っても小さな赤いビニール。

これが遺体があったことを示すサイン。これが無数にある。

ここに人が数日前までは間違いなく暮らしていた。自分もここに建物や木々があったことを知っている。

でも、目の前には何にもない。

土砂、ひっくり返った車、倒れた木々、窓が割れた建物。

そして、赤いビニール旗。

続く余震に怯えながらも、勝手に涙が出る。

当時は火葬すらできなかったので、土葬が行われることに。

遺体の安置所が足らないので、コンサートホールは安置所に変わって行った。

これが現実でした。

生きているだけで嬉しい。でも、生きている人も辛い。

避難所で息子や両親を探す情報が流れ、生きていたらこの避難所にいるからと伝えるメッセージ。

生きている人はなんとか生き延びようとしていた。みんな必死だった。そんな日々が続いていました。

3.判断

地震発生から数日。私が住んでいた福島県、郡山市では連日原発についての報道がなされていました。
Twitter上では様々な憶測の情報が流れ、海外からは日本全体が危険であるという情報まで流れて来る。爆発するから今すぐ逃げろと。
もはや何が正しいのかは分かりません。

逃げろと言ってもガソリンはありません。半日〜1日くらいガソリンスタンドの前で順番を待つ列が果てしなく続いている状態。
高速道路は自衛隊に加え、一般車両は緊急車両の申請を受けた人(企業)なら走れるようになってきました。
福島空港がようやく再開したとのニュースもあり。

こういうカオスな状態だと、何が正しいかは自分が決めるしかありません。毎日の食料調達、電気や水がない中でどうするか、避難するのか、このまま働き続けるのか。全ては自分で決めて、家族を守らないといけない。

私はここで、決めました。

原発が爆発するかどうかは正直わからない。爆発したがどこに逃げても変わらないかもしれない。でも、妻と生まれたばかりの子供はなんとかしたい。

そこで、妻と子供だけを実家である北海道に帰し、私はここに残ることを決断しました。

自分の実家の両親、親戚、育ってきた宮城県、働いていた福島県やその他お店があるところ。全部が私にとっては大事な場所。私はここを置き去りにして行くことはできなかった。

もちろん寂しいし、心配だけれども、少なくとも衣食住が整った環境で子供を育ててあげたい。
現状は毎日の食料調達が不安定だし、お風呂にだって入れない。

だから、北海道に戻ってもらうことにしました。

出発の日。

福島空港は家族揃って非難する人、自衛隊、救護活動をしている人、いろんな人がいました。

めちゃめちゃ泣きました。寂しかった。辛かった。

でも、何もまだわかっていない息子の笑顔を見ると、これで良かったと思った。

もし本当に原発に何かあったら。
もしもう一度、本震のようなことが起きたら、もう妻子には会えないのだと本気で思った。

でも、自分の考えに巻き込んではいけない。立派に生きて欲しいと強く願った。

「いってらっしゃい」
「またね」

毎日交わしていた当たり前の言葉を妻と交わし、息子をぎゅ〜と抱っこして、2人は北海道に旅立ちました。

さあ、私は自分が生まれ育った故郷のため。お世話になった地域のため。この前の青空市場で出会ったような、自分と同じような子供を持つ人のためにも働かないといけない。地域のライフラインを支えるんだ。

不思議な使命感が湧いてきました。

4.新居とのお別れ

それからは、郡山市の数店舗、隣の本宮、福島市の店舗に行っての復旧活動を行います。

震災から3週間後、私は実家である宮城県の店舗にて、復旧活動をさせて欲しいと申し出ました。
妻子が北海道に戻った以上、次に心配なのは離れて暮らす両親。両親とは地震発生から1週間後くらいにようやく電話が繋がり、無事が確認できましたが、水道・電気・ガスが全て止まっているとのこと。
働きながらも、その支えができたら嬉しいと考え、申し出たのです。

理解のある上司に恵まれたこともあり、私はしばらく仙台市のお店に行かせてもらうことができました。

息子が寝ていた赤ちゃん用の布団。カラフルなおもちゃ。使わなくなった哺乳瓶。倒れてひび割れた液晶テレビ。

勝手に涙が出てきた。

もう、地震が起きてから何回泣いたんだろう。

引っ越してきて3年。新築の1LDKアパートは、夫婦二人の出発点。
子供が生まれ、新しい暮らしが始まったばかりだったけど、全てが変わってしまった。

このアパートともしばらくお別れ。

私は実家である宮城県に戻ることになります。

そこでは、被災した子供たちに絵本を配る活動をしている人たちに出会うのです。

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第1話はこちら。震災当時の様子です。

第2話はこちら。震災から数日後に始まった青空市場での出来事


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