東日本大震災について vol.2

このテキストは、私の子供たちが将来読んでるくれることを願って書いたものです。

第一話はこちらにありますので、もしご興味がある方はこちらをご覧くだい。

震災当時、まだ幼かった長男。生まれていなかった次男、長女。子供たちが将来大きくなった時に読んでもらえれば嬉しいです。

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震災の翌日から店舗を復旧させる仕事が始まりました。

当時の私は大手スーパーの本社スタッフ。もちろん本社の中もぐちゃぐちゃで、壁にヒビが入っていたり、道路は隆起や陥没だらけ。崩れているところも多々あり。古い建物なので、よく倒壊しなかったなと感じたのを覚えています。

早速、緊急会議が行われ、全スタッフがどのように動くかの指示がありました。店舗では倒壊しているお店もあり、営業がまるでできないお店も。

東北と北関東に店舗が数百店舗ありましたが、電話も繋がらないため、状況を完璧には把握できませんが、役割分担の指示が飛びます。

私は仕事でよく使わせていただいていた、本社から近い店舗に行き、復旧活動にあたることになります。


ぐちゃぐちゃの店内

店舗ではライフラインが全て使用できない状態でした。店内は昼間でも真っ暗。お酒や調味料は全て倒れているので、床はぐちゃぐちゃ。異様な匂いがします。
天井は落ちている部分もあり、非常に危険。冷凍食品は電気が止まったので溶け始めています。

ただし、驚いたのはお客様がいらっしゃり、買い物を望んでいるということ。店長曰く、震災があった直後から、徐々にお客様がいらっしゃり、買い物ができないかと問い合わせがあったそう。

とはいえ、いつ倒壊するかわからない店内にお客様を通すこともできないため、お引き取りいただいていたとのこと。

ただし、商品を求めるのは夜も続きます。店舗の正面だけではなく、裏側のプラットフォーム(=トラックの入り口で入荷する荷物を下ろす場所)にもお客様がきて、問い合わせがあったとのこと。お客様なのかすら定かではない、ちょっと怪しい人もかなりいたとのこと…

店長はスタッフを集め、お店で生き残っている商品を外に並べ、青空スーパーを開催する準備を従業員に指示。私もそれを手伝うことになりました。

今思い返すと、こういう判断と行動ができる会社、素敵です。本社ができること、お店ができることを分担してやる。本社のいうことを聞くのがお店ではない。

店長はお客様をみて、どうすれば喜んでもらえるのかを考えて、従業員を巻き込んで行動する。その結果をワクワクしながら待つ。これが店長の醍醐味なんだと思いました。

青空スーパーマーケット、開店

商品は一律一品500円。鮮魚と精肉は品質的にNGですが、それ以外の加工食品、青果など、売れるものは並べます。ただし、加工食品や住居商品は1000以上のアイテムがあり、全部はお店から持ち出せない。そのため、お客様から問い合わせがあったものを、恐る恐る店内に入り、探して持ってくる対応でした。

レジがないので、青果部門で使っている青いざるがコルトン(お会計のときにお金を置くもの)代わりに。計算は電卓。とはいえ、1個500円なので、計算は楽なもの。POPは全部ダンボールに手書き。

小さな店舗でしたが、それでも200人くらいは並んでいました。みんな、何かを買いたい。不安で仕方がなかった。知らないお客様同士、従業員とも不安の声を共有していました。買い物は、生きる術でもあるのですが、レジャーでもあったわけです。

余震は常に続いており、店内で地震があった時はすぐに店外に出るルールでした。本当に怖かった。店内の屋根がすでに落ちていたのだから、いつ他の屋根も落ちてくるか、わかりません。

私が販売していると、一人のお母さんから声をかけられました。2歳くらいの子供を抱っこしています。

「すみません、アンパンマンカレーはありませんか?子供がアレルギーなので、それしか食べれなくて。非常食としても欲しいのですが」

私の子供も同じくらいだったので、お母さんの気持ちが非常にわかりました。特に、アレルギー持ちだと大変だろうと。しかも食料は今、どこでも買えるわけではない。

一目散に私は店内に走って行き、懐中電灯を手に、店内を探します。見つけて帰ってきて、お客様に渡した時の笑顔は今でも忘れません。

そうか、スーパーマーケットは電気ガス水道と同じで、ライフラインなんだ。私たちが地域社会を支えているのだ。ものすごくそれを実感しました。


その頃、福島の原発が津波で壊れてしまい、被害が出ていると。
政府からは、「直ちに健康に影響はありませんが、外出はしないようにと」テレビやラジオで情報が流れます。

とはいえ、青空スーパーマーケットはしばらく続くことになります。

夜の様子

青空スーパーマーケットは日没で終了。電気がない生活は、極めて原始的です。ただし、物流網が寸断されているため、今の在庫が無くなり次第、店舗としての機能を失います。ここは本社が頑張るところ。自治体と協議して、物流センター付近の道路の復旧や高速道路の使用許可などをとっていたようです。

当時の高速道路は一般車両の使用はNG。自衛隊の車が頻繁に行き来していました。後日、高速道路を業務で利用するのですが、高速で走れませんでした。何故なら、隆起やひび割れ、陥没などが起きており、高速で走ったら事故が起きるような状態でした。


夜になっても上空では自衛隊のヘリコプターが何機も飛び交っています。
徐々に各地の被害状況がTVやラジオでわかってきますが、私は両親と親戚には連絡が繋がらない状況。

原発も心配ですし、余震は相変わらず多い。一睡もしていないのでかなり参ってきていました。でも、私には幼い子供がいる。何としても守りたい。

しばらくは耐える日が続きます。

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