渋沢平九郎の眼光

 台風の後の荒れた奥武蔵グリーンラインを電動MTBで登り、顔振峠の平九郎茶屋でうどんを食べた。平九郎茶屋とは渋沢栄一の義弟にして、のちに養子に入り彰義隊に参加した青年武士の名渋沢平九郎にちなんでいる

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 戊辰戦争で幕府彰義隊と維新軍の上野の戦いは広く知られるところであるが、そののち彰義隊が飯能に落ちのび、飯能戦争という戦いがあったのはあまり知られていない。彰義隊の頭取だった深谷出身の渋沢成一郎(渋沢栄一の従弟)ら、関東近辺の幕臣が飯能の天覧山に集結したが、維新軍にあえなく敗退。渋沢成一郎は秩父を経由して函館に。その時渋沢栄一はどうしていたか?徳川慶喜の命でパリ万博へ使節として派遣されていたのだ。もし、この時、渋沢栄一が彰義隊に加わっていたら。。。西洋、資本主義を取り入れるのが遅れ、近代化がおくれ、列強に取り込まれ、今の日本は違うものになっていたかもしれない。内乱の国から当時のヨーロッパに行くリスクも大変なものであったろう。渋沢栄一は若干20歳の青年武士平九郎を養子に迎えて旅立った。

 飯能戦争で敗退、平九郎はこの茶屋に立ち寄り、店の婆が秩父のほうが安全だと言うが故郷の深谷に向かい峠を降りた。黒山というところで維新軍の掃討兵につかまり自害した。若干22歳、残っている写真は痩身長身の眼光鋭く時代の変遷をにらみつけているようだ。あくまで、旧体制の武士を貫いた平九郎に対して、西洋と資本主義を吸収し起業家として日本の近代化に寄与した渋沢栄一。のちに渋沢栄一が合本主義、論語とそろばんに象徴されるように、ビジネスと道徳は相反せず社会に貢献するとの考えを示したのは、封建主義から資本主義へ急速に移行する過程で必要なビジョンだっただろう。江戸期の思想的基盤であった論語とその上に作られた武士道と、パリ万博で渋沢が見た機械や商業とのギャップ、どのようにすれば内乱で荒れた人心に理解させることができるのか?

 養父とはいえ、託したはずの次世代が旧来の武士道の中で若い命を落とすことになるとは運命である。平九郎が武士らしく自害し、さらし首になってから渋沢栄一が第一国立銀行を設立するのに10年も経っていない。急速な近代化に必要なのは、機械や工場ももちろん必要だが、人心をどう変えてゆくか?だろう。西欧諸国でも資本主義化する中でキリスト教的な考え方からの”ビジネス”への反発があったという。日本では武士道と銀行をどう融和させるか?武士の世界と蒸気機関や工場は相いれないものではなく、共存し相互に発展するものだということを説いてるのが合本主義だろう。事実、武士だけでなく、すでに庶民にも寺子屋で論語が普及していて、識字率と文化程度の高さは、明治維新と産業振興の原動力になったはずだ。この点は列強に屈した他のアジア諸国との違いと言われている。それから資本主義国家になって戦争もバブルもあり失われた20年。

平九郎の鋭い眼光は最近の揺らぐ資本主義を見透かしているように思える。

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文京区と日高市に2拠点居住中。