解任、瓦解、餓死

 東京五輪開会式の演出家が解任された。正規販売もされていない二十年以上前のコント映像がゴシップ雑誌編集部により恣意的に切り取られ拡散され、その一部のセリフに過剰反応を起こした人々と陰謀論者の政治家が人権団体へ通報した。開会式前日の出来事であり、この原稿は開会式翌日に書いている。
 その演出家はあらゆる面で私が目標としている存在であった。功績を並べ立てるつもりは無いが、少なくとも私の人生には大きな影響を与え、小学生の頃に彼のコントを観て自らも表現活動を行いたいと思うようになったのだ。芸能事務所の面接時も尊敬する人物に彼の名前を挙げたし、公開されていた脚本を暗記し演じる事でネタ作成の参考にしていた。コントにおける舞台衣装やセット、演出もエピゴーネンと呼ばれても致し方ない程に意識的に真似ていた。その人物が炎上したのだ。

 「この人はよく知らないけど」「全部は見てないけど」と枕詞を付け、画一的な偏見に塗れた批判の言葉をヒステリックに喚き散らす。何故知らないならば調べようとしない。何故前後の文脈を確認せずに一方的に断罪するのか。無知を恥じぬ衆愚。実生活における知り合いすらも同じ様に騒ぎ立て、品性を疑わざるをえなかった。
 過去の作品に対する反省を表明している記事も、動画収益を慈善団体へ寄付している事も、今回の動画を探し出すよりも遥かに簡単に閲覧する事が出来る。それでも人々は140字以内に纏められた投稿しか読もうとせず、数十秒の動画で全てを判断する。そうしてそれはマスメディアも同様で、思考する事を止めた報道は歪められ露悪的なバイラルを生み出す。

 多額の中抜きと事前準備や諸々の混乱がもたらしたとしか思えない簡素な開会式は、それでも確かに彼の演出を感じる事は出来たが、式自体の貧相さ故にここでも批判が続出した。
 解任された彼はパフォーマーを引退しているものの、一生の汚名着せられる事になるだろう。騒動に対する謝罪文から読み取れば、任された仕事をこなしたに過ぎないのは明らかだが、それすらも理解出来ていない者が大勢居る。
勿論良識を持った人々も居るのも間違いない事実ではあるが、今回の件でごく一部だと言う事が分かった。ならば私もフェアな文章を書く気は無い。

 現実での人間関係が苦手でネットにのめり込んだが、ここ数年は疲弊するばかりだ。最早匿名性に庇護されずとも悪意を剝き出しに他者を傷付ける。議論はそれぞれの主張の押し付け合いで、賛同者だけで固まりエコーチャンバーの中で正しさの確認に余念が無い。
SNSを続ける意味が分からなくなり全てのアプリをアンインストールした。ニュースサイトも開かず、テレビはもとより見ることは無い。何の情報にも触れたくなかった。

数年前のアニメーションスタジオ放火事件の際と同様の喪失感を抱いた。己の中の一部が欠如したような、自分が信じていたものが瓦解したような感覚。
平成二年生まれ、ネットが発達していく中でサブカルチャーと共に育った。90年代末の退廃もしくは露悪趣味、ゼロ年代の萌カルチャーやセカイ系など、各年代にそれぞれの時代性が有り、それは確かに後年から振り返ればモラルに反している物も多分にある。だがそれらは完全なるタブーとして封じられるべきなのだろうか。「國民の創生」が人種差別表現を孕んでいるが為に、グリフィスの映画発展に於ける功績を讃える事は正しく無いと言えるのか。その極論は間違っていると、誰もが認識していると思っていた。しかし私こそが間違っていたのだ。

 分断の果てに有るのはまた別の分断で、そのクレバスの如く深い割れ目に落ちてしまえば、両岸で罵り合う人々の声は届かない。暗闇にただ一人閉じこもり餓死を待ちながら、いつ果てるとも知らぬ雪解けの日を待っている。


オールジャンルマガジンさかしま'21「協調と分断の果て」あとがきより

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