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選択の自由

 どっちでもいいじゃん、と思うことが多い。そして、どっちでもよかろうことに「こっちにすべし」「あっちにすべき」との声をよく聞く。それも人のことに口出しする。ほっとけや。あんたがしたいんやったらすればいいけど、人がどうするかまであんたに決めることはできんのやで。
 友だちが結婚する。
 姓名判断が最凶だったことから、結婚を機に夫の姓になることにした。今の姓にこだわりがないので、全部まとめて変えることに決め、フリーランスなのだが仕事も夫の姓に変更する。そのことを関係者に伝えると「別姓でいいじゃない」と言われたそう。
 別姓にしようが、夫の姓にしようが、どっちゃでもよくないか。

 夫婦別姓への制度変更を求めている人たちは、別姓にしたいのだろうか。
 制度としての夫婦別姓において、肝心なのは別姓にすることではないはず。婚姻後も今までの姓を名乗れる、夫の姓に統一する、妻の姓に統一する、その3つの選択肢を自由に選べることが大切なんだと思う。別姓で消えゆく名字を守る、ということもありだけれど。同じ姓を名乗りたいという人もいるだろうし。
 結婚自体もそう。
 結婚相手が同性だろうが、異性だろうが、結婚したいと思う人とすることが大切なはず。制度として同性婚をOKに、ってそういうことでしょ。みんながみんな、同性と結婚するようになるわけじゃない。
 個人的には、パートナーシップ制度を異性にも認めるといいのにと思っている。これは結婚したいのに法的にできない同性カップルのためのものだけど、事実婚を選択したい異性カップルもいるのではないかと。(ちなみに北陸では、石川県金沢市と白山市しかパートナーシップ制度は導入されていない)

 私は偽名で生活していて、いつかこの名前に改名する。でも一方で、名前はラベルでしかないと思っている。だからもし改名できたとしても、また別な名前に変えたくなるかもしれない。
 日本人は、たとえば「誠実であって欲しいから、誠」とか「みやびに育って欲しいから、雅子」「桜の季節に生まれたから、さくら」とか、名前に意味を持たせがち。親の思い入れや、本人が気に入ってるなど、名前を大切に思う人がいるのはわかる。
 でも一方で、名前が気に入らない、好きじゃない、別な名前になりたいという人がいるのも事実。そのままでも変えても、どちらでも選べる日が来て欲しい。
 日本では改名そのもののハードルが高く、なかなか改名は難しい。改名を申請するときには理由を問われる。そう友だちに言うと「変えたいから、に決まってるじゃん」と即答。ご名答。
 自分の名前なのに変えたいという理由だけでは変えられない。国にお金を払ってお伺いを立て、国から「許可する」と言われてやっと変えられる。私の名前は誰のものなんだろう。

 どっちかにする、のではなく、どちらか選べる、が大切だと思う。何においても。選ぶ自由、選択する機会が、私がいる社会において少なすぎる。選択の余地がない。
 そんなことは多数派に自分が属しているときには気づかない。自分が選べないことに気づいて初めて、不自由さを覚える。
 でも、ちょっと想像力を働かせてみませんか。ひとつの選択不可は、たくさんの選べない不自由につながっている。その先には、まだそのときではない自分の選ぶ場面も含まれているかもしれない。
 大切なのは、別姓でも同性婚でも改名でもない。選べる、ということ。



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