見出し画像

凪いだ人生、ケの日々

 ハレの日が嫌いだ。嫌いというか、興味がない。
 お誕生日、お正月、バレンタインデー、クリスマス、結婚式。現代のハレの日はこんな感じかな? 昔だったら、お祭りとか節句、お盆、親戚が集まるような日だろうけど、今はこういう日はあまりハレとはされていないように思う。
 民俗学では「ハレ」と「ケ」がセットだそう。日常である「ケ」にたまった澱(おり)を非日常である「ハレ」で清めるのだとか。ネット記事を見回った結果の要約なので、間違ってたらごめんなさい。

 私が思うに、昔は気晴らしとなるハレの日が必要だった。きつい日常を忘れ、大騒ぎの無礼講ができる日、それがハレの日。仕事をしなくていい、ダラダラしていい、昼間っから飲んでいい、飲めや歌えやどんちゃん騒ぎしていい日。そうやってたまった鬱憤を晴らし、翌日からまたきつい日常に戻る。
 今みたいに映画、本、ドライブ、YouTube、ゲーム、など、楽しめるものはなかった。たとえば、仕事でうんざりしたら「水曜どうでしょう」を見て笑って気分転換するとか。私の場合。
 昔は嫌なことがあっても、ぐっと飲み込んで我慢して我慢して我慢して、ハレの日に爆発させてたんじゃないだろうか。
 あくまで私の想像だけど。

 今も苦しい思いをしている人たちはいるけれど、気晴らしとなるものもたくさん存在している。それらを使って非日常を感じることで、ケの日を乗り切っている人も多くいるはず。
 もちろん、お金がないとできないことだから、できずにいる人もいるけれど。その話はちょっと置いといて。

 たぶん私が思うに、気晴らしとなるものがたくさんある今は、「ハレの日=特別な日」なのでは? あるいは、「特別扱いされる日」。
 お誕生日、バレンタインデー、クリスマス、結婚式、成人式なんかは、まさに「特別扱いされる日」だろう。ま、バレンタインデーとクリスマスは恋人がいる人限定かもしれないが。
 ところで、お誕生日ってなにがめでたいのだろうか。お正月も結婚式も成人式も、めでたいのがなぜなのか、私にはわからない。

 私にとって、お誕生日もお正月も、いつもと同じ昨日であり、今日であり、明日である。日常的ないつもと同じ一日でしかない。朝起きたら「今日は特別」なんて思わない。
 親が「めでたい」と子どものお誕生日を祝うのは、なんとなくわかる。自分には子どもがいないので、なんとなくでしかないけれど。
 でも、友だちや恋人(私は友だちも恋人もいないが、それはさておき)のお誕生日を祝う気持ち=理由がわからない。たとえば、「生まれてきてくれたから出会えたわけで、だからめでたい」と言うかもしれない。だけど、生まれてきたから出会えたわけじゃない。生まれてきても出会わない可能性は十分にあって、それでいえば出会った日の方がふたりの関係においては重要なのでは?

 友だちになれたらいいなと思っている人がいて、その人が以前こんなことを言った。
「結婚式をしたい。その日だけは、みんなから祝ってもらえるから」
 結婚式をするのは、みんなから祝ってもらうため。いつもは注目されず、ちやほやしてもらえない。でも、結婚式だけは特別。自分が主役。
 お誕生日も同じなのではないか。
 現に、私が暮らすシェアハウスでは住民のお誕生日になると住民グループLINEに「誰々、おめでとう!」コメントの嵐が巻き起こり、ケーキを買ってみんなでお祝いをする。(私はほとんど加わらないが)
 そう、その日の主役となる。

 現代の「ハレの日」とは、自分が特別扱いされる日、主役となれる日なのではないだろうか。
 普段は集団に埋没しているけれど、その日だけはスポットライトを浴び、注目される特別な存在となれる日。
 「ケの日」の間は、自分の色を消して集団に属している。目立たないように、調和を乱さないように。

集団があって、そこに入れないことを恐れる人がいる。
集団の一部になりたい。自分も属したい。
孤独になりたくないから誰かと一緒にいたい。
ひとりでいるのは嫌。

必死で探す。一緒にいてくれる誰かを。自分を受け入れてくれる集団を。
見つけたら見えない糸でぐるぐる巻きにして離れないようにする。集団に溶け込んで外れないようにする。
この人を、この集団を手放したくない。(2020/08/17 「依存という沼」)

 もっといじわるなことを言えば、自分が主役となるために人の「ハレの日」を祝う。祝わなければ、自分の「ハレの日」がやって来ないかもしれない。(うちのシェアハウス限定ではなく、世間一般の集団意識としての話)
 みんな一緒に祝い、順繰りに主役になる。

 この論でいけば、私が「ハレの日」を必要としないことに説明がつく。
 私は集団を好まない。集団に属したくない、というか私も集団も互いにお断り状態。集団に属していないから、主役になりたいとも思わない。いつだって一人芝居しているようなもの。ひとりだから、私を特別扱いする誰かもいない。
 日常も非日常も自分でコントロールする。自分のタイミングで非日常を取り込む。だから気晴らしとなる非日常=ハレの日も必要としない。

 ちなみに、「集団に属していない私、すごいっしょ」とは思ってない。今は属したいと思ってないだけで、いつか属する日が来るかもしれない。属したいと思う集団と出会うかもしれない。
 なんというか、どっちでもいい。私は集団に属してなくて、あなたは属してる。集団の論理になじめない私、集団に溶け込むあなた。これは違いであって、優劣の問題じゃない。
 「ハレの日」に特別扱いされたい人もいれば、「ハレの日」そのものに興味のない私みたいなのもいる。どっちがどうでもいい。私は興味がなくって、理解できないってだけのこと。
 ただし、興味がない人は一定数いて、その人たちからの特別扱いは求めてくれるなとは思う。私に「おめでとう」を強要しないで欲しい。まあ最悪、言ってもいいけど、まったく思ってないからね。

 私は「ケの日」が好き。大切。
 かつて田舎フリーランス養成講座の講師養成講座に参加したときのこと。「どんな未来を望むか」みたいなことを書くことになり、「なんてことない日常が続くこと」だか「普通の毎日をすごすこと」だか、そんなふうなことを書いたら驚かれた。
 自分が望んでいないのに波乱万丈な人生を送ってきたので、普通の日々にあこがれる。まあ小波程度で、自分の選択ミスによるところも大きいのだけど。
 とにかく普通に暮らしたい。ドラマティックな出来事なんていらない。特別なことなんてなくていい。代わり映えしない毎日がいい。
 凪の人生。ケの日々。
 ひっそりと、自分の時間を自分のために使い、穏やかな心持ちで暮らしたい。それだけ。



ネコ4匹のQOL向上に使用しますので、よろしくお願いしまーす