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恋愛と信頼

 昨日、いつものバーで愛について話した。
 居合わせた4人中3人が「愛って何? さっぱりわからん」派。私もそのうちのひとり。
 誰も愛せないと言う人、ペットならわからんでもないと言う人、わからんでもないけど果たして自分の思う愛が誰もが語る愛と同じか自信のない私。我々に共通してるのが「愛はともかく恋愛はちっともわからん」。
 好きという気持ちはある。「この人は特別」と思ったこともある。特別だから独占したいと思ったことも、一緒に話していたら幸せだと感じたこともある。けれど、誰かに「好き」「愛してる」と言われたいと思ったことがない。
 いや、「好き」と言われるのは好き。だって「好き」は最高の褒め言葉だと思っているから。

 直近で特別だと思っていた人はいる。けれど、自分の感情の最大限で愛してると思ったのは、初めて飼ったネコ。
 実家の隣にある公園で、雨の降る日に捨てられていた。生後ひと月くらいの手のひらサイズ。3匹のうち、一番小さく、一番弱っていた。元気いっぱいの2匹はもらわれていき、薄茶の鍵しっぽが残った。
 それがちゃーこ。オスである。
 半年後、私は受験に失敗し、京都の予備校へ。その年、父が家を出ていき、母は気の狂ってしまった柴犬とちゃーこと暮らし始めた。かわいそうな柴犬ロクスケは獣医さんに引き取られ、15歳まで生きた。
 母は病気で入院し、そのまま死んだ。家に帰って、ちゃーこに会いたいと言いながら。そんなネコを誰かに託すことはできない。私は東京へ戻るときも、東京を去るときも、ちゃーこと一緒だった。
 福井に帰ってきて、数年後、ちゃーこは死んだ。13歳だった。

 日に日に痩せて、毛並みが悪くなる。獣医さんには連れて行ったが、治療法はなかった。あとはただ、ちゃーこがいつもと同じ日常をすごせるように見守るだけ。晴れた日にはベランダで日光浴、日が陰って寒くなってきたら私の腕の中。時折、缶詰のえさをなめ、水を飲む。
 段々と歩けなくなり、寝返り打てないから私がひっくり返す。そんなふうにして、そのときを一緒に待った。
 1月21日、早朝。呼吸が荒くなり、眼球の表面が張りを失い、命が尽きようとしているのが見てとれた。「苦しいね、もうすぐ楽になるからね」と声をかけ、ひざの上のちゃーこをなでる。
 あと3回、4回呼吸したら終わりだろう。本当に最後が見えたとき、私は泣き叫んだ。「死なないで、私をおいて行かないで!」。
 たぶんあれは愛だった。たぶんだけど。あんなに失いたくない、ともにありたいと思ったことはない。人に対して感じたことは一度もない。そう感じるほど、誰かに心を許したこともない。

 今いるネコたちは、ちゃーこほどには愛してない。けれど、人間の誰よりも心を許している。ちゃーこ以降に看取った2匹のときも泣き叫んだ。今いる4匹のときも同じだろう。
 だけど、母が死んだときに涙は出ず、声をあげることもなく、ただ事務作業として淡々と亡骸を運んだり、葬儀の手配をした。感情の高ぶりは一度も感じなかった。
 人は心許せる誰かを求めていて、出会った人に「この人なら」と思ったときを「恋」と呼ぶのではないか。そして実際に安心して心を委ねることができるようになることが「愛」なのではないか。
 私はおそらくこの先、人間に心を許すことはない。信じて心を開いて、自分の底の底を見せた相手に裏切られるときしか想像できないから。100%の信頼を誰かに寄せることはない。
 100%じゃなくてもいいのかもしれないが、私は「all or nothing」派。ゼロか100かしかない。信用している人は何人かいるけれど、信用と信頼は別物。

 ちなみに、私は誰にでも自分の過去を話す。病気のこと、母が死んだときのこと、血縁者と縁を切ったこと。
 それは信頼しているからじゃない。私にとって大したことじゃないから。知られたところで痛くも痒くもない。
 でも私の感情は誰にも話さない。気持ちを語ることはない。心を許せる人にしか話せない。つまり、一生話すことはない。
 なんてことを思っている。はたしてこれは「恋」や「愛」ということなのだろうか。わからん。



ネコ4匹のQOL向上に使用しますので、よろしくお願いしまーす