口は目ほどに物を言う

 目は顔の中で特に強調されるポイント。目が大きい、切れ長、黒目がちなど、目によって顔の印象は決まる。と思われているかもしれないが、それは間違い。ああ、言い切ってしまった。
 実は、バイトで会社勤めを始めてから、日々驚いている。
 まずは全員がマスクをしていること。当たり前だろ、と言われそうだが、部屋にいる30人全員がマスクをしていることを当たり前だなんて思えない。学校だから同じ制服を着ているのが当たり前、というのとは全然違う。というか、制服もひとりずつ着こなしが異なるから同じものを着ていても実は違っている。
 それに対してマスクは、たしかに色や形が異なっているから、ひとりずつ違っていると言えないこともない。けど、言えない。だって、マスクで顔の下半分が隠されているという点で同じだから。そして私が見ているのはマスクの形ではなく、顔の半分が隠されている点だから。

 私は人の感情を読む。顔色、目の動き、言葉づかい、抑揚、手の動き。その人の全身を見て、今どんな感情なのかを探る。感情が読めないと応対ができない。だから電話が苦手。というか怖い。
 対人恐怖症(身近な人ではなく大衆に対する恐怖を感じるタイプ)だからなのだろう、常に身の回りの人を観察し、どんな状態にあるのかを判断している。危害を加えられないか、警戒しているのだと思う。たぶん。
 だから、マスクは怖い。顔の半分を隠してしまっているため、感情を読みきれないのだ。
 もちろん、目を含む顔の上半分と話し方、声、全身の様子から読み取れる情報は多い。けれど、マスクをした人ばかりの中にいて、意外と顔の下半分の重要性に気づいた。
 意外にも「口は目ほどに物を言う」。

 目が笑ってないというけれど、実は目と口の中間、頬骨の下辺りの動きも笑っているかどうかを判断する材料となる。考え事をして目がキョロキョロしているとき、実は口元も動いていたり、歪んでいたりする。目の動きはコントロールしていても、口元までは意識が行き届いておらず、感情が表れる。
 私もマスクの集団を目にするまで、顔の下半分の重要性には気づかなかった。けれど、今は目にする人の9割以上が顔半分を隠していて、ついでに感情も隠している。おかげで、より神経を尖らせて、些細なところまで観察せざるを得ない。
 だからいつになく人当たりよくふるまっているのだろう。年をとって丸くなったようなつもりでいたが、実際は危害を加えられないために演技をしているのだ。

 ごはんを食べるためや飲みものを飲むためにマスクを外した顔全体が見えたとき、私は声を上げるのを必死で抑える。
 顔が違う!
 あらわになったその人の顔は、私が頭の中で描いていたものと全然違う。この3か月、これまでマスクを外した顔を見て驚かなかったのは、たったひとり。つまり、会社の人全員、それ以外の場所において出会った人ほぼ全員が、マスクを外した途端、見たこともない人となる。
 初めて見る顔、顔、顔。どれだけ聞き覚えのある声だとしても、まったく別人だ。蓄積されたその人に関するデータが一瞬で吹き飛ぶ。もう誰だかわからない。どう接していいかわからない。

 マスクをするようになる前からの知り合いは大丈夫。マスクをしていても、マスクを外しても、顔はひとつ。データもそのまま。敵だろうが、嫌いだろうが、安心だ。
 マスクをしない人も大丈夫。顔はひとつ。感情も読める。(読めない人もいるけど、それは別問題)
 私にとっては感染して死ぬよりも、目の前の人の感情が読めないことの方が恐ろしい。感情を読めないということは、防御のしようがない。自分の身を心を守れない。
 かつて対人恐怖症がマックス状態だったとき、「殺してやる」という無数の声が聞こえた。すれ違った人が背後から包丁を振りかざして襲ってくる妄想に囚われた。駅のホームに立つと、見えない手で突き落とされる恐怖に苛まれた。
 そこまでとは言わないが、同じような恐怖をマスクの集団に感じる。だって感情が読めないもの。襲おうとしてるのか、いないのか、読み取れないもの。

 今はもう対人恐怖症の症状は治まっている。完治してはないけれど(そもそも完治するのか?)、あのときの恐怖の9割9分が妄想だと理解している。だから会社で襲われることはないとわかっている。
 それでも、不安は消えない。だから細心の注意を払って感情を読み取ろうとし、その人の危険度を量り、無難な人間を演じてみせる。
 マスクが必要のない日常が戻ったなら、私はきっと会社でもっと敵を作るだろう。人のよい人間の皮を脱ぎ捨てたら、みなが知る私ではなくなる。たぶん驚くはず。私がマスクを外した顔を見てかすかな悲鳴を上げるときのように。



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