ふしぎなキリスト教 読書感想
某読書サークルのオフ会で、その日の気まぐれによって、ふしぎなキリスト教という本を貰い、半年前ぐらいに、一通り読んだ。印象に残っている部分を以下に記載する。
この本は、対談形式で3部構成で出来ている。3部から、少し政治や歴史の話が混ざり、少し難しく感じた。素人知識しかない私が、ユダは裏切り者であった。という印象しかなかったが、実は、ユダはキリストの一番の弟子で、一番慕っているからこそ、口裏を合わせて、自ずから裏切り者の役を引き受けたんじゃないか説に、ユダの気持ちがわからんでもないなと同情した。ユダは裏切り者ではなく、キリストを伝説にするために、キリストを思い、役柄を引き受けたという事である。社会は、ポジショントークであり、各々の目的による手段の一面を見せているに過ぎなく、例えば、偉く見せた方が都合の良いポジションの人は、あえて、自分より弱い立場の人を叱りつけている動画を回したりして、優位に見せている。他に、客の需要を答えるために、アホの役柄を引き受けて、演者と演出と連携して、世間に対して印象を与えたりする、賢い人である事が多い。本当のあの人なんて、あるのかさえ分からない。そんな今の時代の一般的な傾向が、ユダにも当てはまっていたんだろうなと思う。
次に、神は試練を与えるという、この、試練という言葉について、私は覚悟とか試練とか、そんな言葉が好きだったりする。試練というのは、割とポジティブに捉えられる。むしろ、ポジティブに捉えざる得ない程、追い込まれている状況が多いとも言える。試練を乗り切った先の、幸福や成長に繋がると信じられてもいる。確か、似たことを記載されていたが、試練というのは、理不尽な環境にあって、耐え忍んでいる時に使うと述べられていた。確かに、理不尽で辛い事を、蓋を閉じて抑え込んで、乗り越えようとする姿勢は、ただ美談にするだけでは、辛さは、変わらいと思い、生活の中で、これは試練だと思った時は、ポジティブさだけでなく、理不尽で辛い事を受け入れずに、無理にポジティブに振る舞っている自覚だけは、持っておこうと思った。
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